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喧嘩とクリスマス
館内から出ると冷たい空気に包まれ、お互い無言で車まで歩いた。
リチェールは泣きそうなのか、グッと唇を噛んでいた。
「千……」
名前を呼ばれて振り返ると、リチェールがうつむいた顔を上げて手を握ってくる。
「お前はよく頑張ったよ」
頭を撫でると、リチェールの大きな瞳からぼろっと涙がこぼれ落ちた。
ハッとしたようにリチェールが手で拭い、ヘラっと笑う。
「ごめ……っなんで、涙出るんだろね。オレも……っよくわかんな……っすぐ、とめるから……」
「疲れたんだろ。今日は頑張ったからな。
やれることは全部やった。大丈夫だろ」
肩を抱いて、支えながら車に向かう。
車に入ると、リチェールがぎゅっと抱き付いてきた。
ぐすっと鼻を啜るから、まだ泣き止めてないんだろう。
リチェールがさっきあゆむにしていたように背中を撫でることしか出来ない。
しばらくしてあげた顔は少しまだ目が潤んでいて、不安げだった。
「お前は子供なだめんの上手かったな」
「そう?千がしてくれることそのまましただけだよ?千、いつもこうして撫でてくれるでしょ?すごく安心するから」
そう言ってまた俺の胸に顔を埋めてぎゅーっと抱き付く。
「いつも甘えてばかりでごめんね」
「今甘えてんの?誘ってんのかと思った」
意地悪く笑うと、リチェールが照れたように顔を赤くして笑う。
「もう。なにバカなこといってるの」
照れてるくせに、擦り寄ってくる姿が可愛らしくぎゅっとその小さな体を包んだ。
「あゆちゃんにも早くこうやって心のそこから頼れたり、安心させてくれる人が現れたらいいのにね」
自分の幼少期を思い出してか、リチェールがため息をつく。
リチェールが俺を頼ってるかは未だに怪しいし、不安にさせることも多いと思うけど。
「大丈夫だろ」
リチェールの性格を思えば、心苦しいかっただろうし、本当はそばについていてやりたかったはずだ。
それでも泣いてるあゆむを警備員に任せて去らなきゃいけなかったことが歯痒くて余計に苦しいんだろう。
人の痛みにばかりに敏感で、涙を流すコイツにしてやれることなんてこうやって頭を撫でるくらいだ。
「あのオッサンのこと被害届出すか?」
「………うん、出す。他にもあゆちゃんみたいな目に遭う子出したくないもんね」
頑張る、と呟いて俺の手を両手でつかんで自分の頬に擦り寄せてくる。
自分だけなら、もう関わることすらめんどくさいと被害届は出さなかっただろう。
「……オレが警察署に行くとき、千はついてこないでね」
俺の表情を伺うように首を傾げて覗き込んでくる顔に、思わず眉間に皺がよる。
そう言う対象に自分が見られて、被害に遭ったこと、そしてその詳細を話すことはひどく自尊心を傷付けるものだろう。
そして、俺が知ることが一番耐え難いと何度もリチェールは言っていた。
そういうことの積み重ねがリチェールを甘え知らずにしてしまったんだろう。
「わかった。明日は警察署までは送るし、終わるまで待ってる」
「え?いいよ。明日からやっと冬休みじゃん。お家でゆっくりしててー」
「本当は事情聴取とかも立ち合いたいくらいだよ。でも詳しい内容を俺に聞かれたくないって気持ちはわかる。ギリギリまでそばに居させろよ」
リチェールの大きな瞳にかかる長い前髪を指で抱かせると、また涙を溜めて口を結んだ。
「頑張って話して、被害届出したら、一緒にケーキ買いに行こう」
「……イギリスでは、クリスマスプディングっていうケーキが主流なんだけど。千の口に合うかなぁ」
へにゃ、と泣きそうな顔で笑うリチェールに先ほどまでの張り詰めた緊張感はなく、肩の力が抜けたように俺の胸に体を預けてくる。
「……なんか、頑張れそう」
「一緒に頑張ろうな」
28年間、だれかを本気で好きになったこともなければ頼ったこともなかったし、頼られることも甘えられることもめんどくさいと思ってた俺は、正直この歳ではじめての感情に戸惑ってばかりだ。
甘やかし方なんて知らないし、リチェールは甘えない。
それでもいつか、心から安心して身を委ねてくるまで、俺は引き寄せる手を緩める気はない。
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