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四方八方

千は泣いても離してくれなくて、冷たい沈黙のまま車の助手席に乗せられた。 シンヤに乱暴にマットに押し倒されてから、ただこの人の温もりだけを求めて走ったはずなのに、ここから逃げ出したいなんて、行く宛なんかないのに。 顔を押さえて泣いていると、千が小さく舌打ちしてオレの手をどかした。 不機嫌な視線とぶつかって、次の瞬間には噛み付くようなキスをされる。 「………っんぅ……」 普段のキスより乱暴で切れた口が少し痛んだ。 思わず逃げようとしたけれど、しっかり回された手に、逃げ場はなく息が苦しくなるほど長く舌を絡めとられた。 「キスされてんじゃねぇよバカ」 やっと唇が放され、また強引に抱き締められる。 まるで、ヤキモチ妬いてるみたい。 「なんであんな状況だったか大方筋は読めた。で、リチェールは俺を疑うんだな」 不機嫌な千の言葉に、ふと雅人さんの声がよぎった。 "千くんちゃんと断ってたのに、疑われて可哀想だよー?" もしかしたら、あれは七海先生の虚言かもしれない。 でも、それでも。 じゃあなんで七海先生は脱いでたの? その場にいたことは間違い無いんでしょ? 千を信じたいのに、不安で仕方ない。 だって、親にすらまっすぐ愛されなかったオレが、どうして愛してもらえると思えるのだろう。 どうしてオレなんかが。 「……っくるしい……」 なにが、どう恐いのか考えも纏まらないまま呆然とした不安をそのまま千にぶつけて子供のように泣いてしまう。 こんな情けないオレを優しく抱き締めてあやすように背中を撫でてくれた。 こんな自分どうしようもなくいやだ。 父さんのこと、もう恨んでなくても、抱かれていた過去が後ろめたい。 いつも乱暴な愛情を向けられ、ゴミのように抱き捨てられていたオレが、誰かからまっすぐ愛されるなんて、ありえない。 千に構ってもらえるだけでいい。 二番目でも三番目でもいい。ただそばにいてほしい。 でもやっぱり、オレ以外の人に触れてほしくないと思う浅ましい自分が気持ち悪かった。 いつから苦しいとき、この人に手を伸ばすことが当たり前になったのだろう。 どんどん、自分が弱くなっていく。 信じたいと思う。この人からの愛情を。 けれど、信じる強さは、きっとまたオレをどこかで弱くする。 大好きな人に、まっすぐな愛情を向けられるなんて、オレには夢のまた夢の話のように思えた。 こうして何か答えが出るわけでもないのにみっともなく泣く自分が嫌で、下唇を噛んだ。 「ごめ……っ、やっぱオレ、おかしい………ちょっと一人になりたい………」 オレは逃げてるだけだ。 千の口から、七海先生とした。だから別れようって言われる言葉から。 「ダメ」 短く言った千の声は不機嫌な雰囲気で、こんなオレにイライラしてるはずなのにどうしてそばにいてくれるのかわからなかった。 「喧嘩しても困らせてもいいから離れるなって何回も言ってるだろ。可愛い泣き顔見せた状態で俺が離してやると思うか?」 千の甘い言葉に思わず顔を隠すように自分から千の胸に顔を埋めた。 「かわいくない……っ。こんな汚い泣き顔したやつだれも何もしないよ」 「可愛いよ。自覚がないなら余計危ないから絶対一人にしねぇ。諦めてここにいろ」 「なんで……っ」 そんなこと言うの。 七海先生にもそういうこと言ったの? 確かめたいのに、確かめるのが怖い臆病な自分に腹が立つ。 「不安があるなら俺にぶつけろ。お前が泣くのが一番辛い」 それなのに千の言葉はいつも暖かく、簡単にほだされてしまう。 飲み込んでいた言葉は止まらない涙と一緒に溢れた。 「……す、捨てないで……っ」 すがるように千の服のはしをぎゅっと握りしめる。 「な、なみ先生のこと、好きになっちゃやだぁ………っおねがい……。オレを好きになって……っ」 こんな、泣いてこんなことをすがる汚くて弱いオレだけど、どうか捨てないで。 女の人がいいってなるかもしれないけど、そばにいさせて。 できることなら、オレだけを見て。 こんな叶うはずもない夢を何度も見てては、またふとした時、覚めるのだ。 「どうしたらリチェールのこの自信のなさは、なくなるんだろうな」 ふ、と千が呆れたように笑ってオレをキツく抱き締めてくれる。 「七海に迫られたけど、お前に魅力感じねぇんだわって言って保健室でたんだよ。下手したら強姦とか仕立てあげそうなタイプの女だから離れたけど。 まさかリチェールに向けられるとは考えが甘かった。お前が掃除抜け出すなんて何かあったんだろ?嫌なこと重なったな」 よしよしと、抱き締められながら髪を撫でられる。 シンヤに押し倒されてキスされたことなんてどうでもよくなるほど、千がとられてしまう恐怖が大きかった。 それは今も拭えなくて、千の背中に手を回してぎゅうっとすがる。 「リチェール、愛してる。 とっくにもうお前しか見えてねぇよ」 オレを強くも弱くもする言葉に、今は甘えたい。 父さんに初めて犯された時、母さんに助けを求めて向けた手に背中を向けられた。 シンヤにずっと友達でいたいからやめてとすがった口を塞がれた。 カズマさんを助けたいと思った気持ちを踏み付けられた。 相手に向かって一心に伸ばすものをはね除けられる時の絶望はいつまでもこびりついて離れない。 その時のいくつもの気持ちさえも千が暖かく包み込んでくれるような優しい抱擁に身を委ねた。 いつか振り払われて傷付いたっていいから、その最後の瞬間まで、まっすぐこの人の気持ちを信じれる強さを、オレに。 そう願って千の胸のなかで泣いていた。

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