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置き去りのバレンタイン

「いた……痛いよ!せんせ!」 あまりの馬鹿力に振り払おうとすると、ようやく久瀬先生が足を止めた。 振り返った顔は怒りで赤く、すぅっと息を吸い込んだ。 「お前はバカかっ!!!危なっかしいんだよっ!!!大人の言うことを聞け!」 「ひんっ」 鼓膜が破れるんじゃないかと言うほどの怒声にびくっと体が強張ってしまう。 怯えた声を出してしまったオレに、久瀬先生は自分を落ち着かせるようにふーっと深くため息をついた。 「心配なんだよ……送らせて、アンジェリー」 少し寂しそうに笑って久瀬先生がオレの頬を撫でる。 どうしよう。 優しさで言ってくれるのはわかるけど正直困る。 まだ10時にもなってないし、補導の対象じゃないんだから、注意される必要ないだろ。 「心配してくれてありがとうございます。それなら、月城先生に迎えに来てもらうんで大丈夫ですー」 ぴくっと久瀬先生の顔が強張りオレを掴む手に力が入る。 「……トムくんがいるのが辛くてこんな時間まで出ていたんじゃないのか」 どきっと心臓が萎縮する。 今はそこに触れないでほしい。 どうせ、千にぎゅーってしてもらったら安心するもん。 ……でも、帰りたくないと思ってるは確かだった。 だからって、千以外の男の人に甘える気はないけど。 「勉強してて遅くなっただけですよー。大丈夫です」 「でも俺、お前のこと心配で追いかけてさっきのバーガー捨ててきたんだよね」 「えっ!?」 「無駄にしないためにも送らせて?」 ず、ズルい! いや、ありがたいことだけど。 そう言われて、断るわけにもいかず仕方なく小さく頷いた。 「じゃ、いくか」 ほっとしたように微笑んで久瀬先生がオレの手を引く。 さすがに手を繋ぐのはおかしいだろ。 子供扱いしすぎだっての。 すみません、月城先生に連絡しておきますね。と、スマホとってやんわり手を放す。 "バイト帰りで久瀬先生に会って送ってもらってます" だから、見かけても怒らないで。それと、帰ったら二人でゆっくり話したいという気持ちを込めて文章を作りながら久瀬先生の横を歩く。 ぺらぺら喋る久瀬先生の話を5割くらい聞き流してると、バイクできたらしく歩いて送ってくれるらしい。 車じゃないなら安心だとそっと息をついた。 正直、情けない話だけど、男の人の車に一人で乗るのは少し怖い。 やっとできた文章を送信しようと見返していると久瀬先生が立ち止まりその背中にぶつかった。 「リチェール?」 低い声に顔をあげると千とトムが並んで立っていた。 「せ……っんせ」 千、と呼びそうになってあわてて先生と呼び直す。 遅れないままのメッセージが入ったスマホは仕方なくポケットに入れる。 殺伐とした沈黙を破ったのは久瀬先生だった。 「もう月城先生呼んでたんだ。じゃあ、気を付けてな。 月城先生、お疲れ様です」 千がよっぽど苦手なのか逃げるように早口に挨拶をすると久瀬先生は離れていく。 その背中にトムが無邪気にまたねーと手を降った。 久瀬先生がいなくなるのを確認すると千にすぐ事情を話そうと口を開いたけれど、静かな声に遮られた。 「……蒼羽から」 千のこういう声は、すごく怒ってるときのもので、目を泳がしてしまう。 「今日お前休みなんだってメール来たんだけど?」 どきっと体が強ばる。 やっぱり、真っ直ぐ帰るべきだったかも。 「なに、お前バイトとか言って久瀬先生といたわけ?」 「ちが……っ」 『はぁ?リチェール、それ浮気じゃん』 違う、と言う前にトムが嫌そうに顔をしかめてオレを見る。 浮気なわけない。 千もそんなこと疑うわけない。 話せばわかることなのに、トムが千のとなりにいることの苛立ちと、焦りで言葉がスムーズに出てこなかった。 「千、聞いて……二人で話したい……」 『はぁ?ちょっとお前自分勝手過ぎるよ。千はお前のこと心配して駅までわざわざ歩きで往復したってのにさ。まず謝れば?』 ____今、こいつ、千って言った? 『────っるさいな!!お前が言うな!!』 たったそれだけのその一言についカッとなって怒鳴ってしまい、ハッと口元を押さえた。 二人は驚いたように目を見開いて、トムは怯えたように千の服を掴む。 ああ、だから帰りたくなかったのに。 トムを傷付ける言葉なんて、吐きたくなかった。 「……っごめんなさい」 でも、気持ちは止まらない。 この胸の痛みをこれ以上大切な人にぶつけたくなくて、ちゃんと否定もできないまま小さく謝って、背を向けて反対方向に走った。

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