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予感

時間はいつもバイトが終わる10分前。 駆け足にバイト先に戻った。 早く千に抱き付きたい。 怒りより悲しさの方が大きかった。 人は一人でなんて生きていけない。 子供の頃親から理不尽に暴行されて、見ず知らずの罪を擦り付けられたなんて考えるだけで胸が痛かった。 歪んでいたって、オレは愛されてた。 臆病になって手を伸ばせなくなったって、愛されてたんだ。少なくとも母さんからは。 それが千には無かった。 自分の過ちを千に擦り付けて、千のご両親どちらも許せない。 鼻がツンといたくなって、千からもらったスヌードを鼻まで持ち上げた。 早く抱き締めたい。 千の車はすでに裏口の細い道路を出てすぐの路肩に停まっていて、オレを見つけたのか運転席が開き、千が少し怒ったような表情で降りてきた。 「お前どっから来た?早く上がったなら連絡して待ってろって言っただろ」 怒ってるけど、それは心配してるからだってわかる。 胸がきゅーっと締め付けられて駆け足のまま千に抱き付いた。 千の匂い、安心する。 そのまま少し動揺してる千にぐりぐりと顔を擦り付けた。 「リチェールどうした?なんかあったんだろ?」 怒ってたのに、オレが弱ってると思うとすぐその怒りを押さえてくれる優しさも好き。 見上げると千は本当に心配そうな顔をしていて、なんだか泣きそうだ。 「ごめんね。千がせっかく我慢してたのに、オレ千のお父さんに、千はオレのだばかやろーって殴ってきちゃった」 もう一度ごめんなさいと言って千の胸に顔を埋める。 「そんなことどうでもいい。何された?なにか嫌なこととかされたり言われたりしたんじゃないのか?」 気遣うように頬を撫でられ、ついに涙が溢れてしまった。 「どうでもよくないよばかぁ~」 なんでいつもオレのことばかりなの。 千の優しさがたまにものすごくむかつく。 その優しさをもう少し自分に向けてほしい。 「むかつく~…千のお父さん嫌い……っ!だいっきらい~……」 ぐずぐず泣いて、ちゃんと出来事をことを話せないオレを千は抱き抱えて車にのせてくれる。 背中を撫でられると少しずつ少しずつ気持ちが落ち着いていった。 「……そろそろ落ち着いたか?なにがあった?」 家に着いて、改めて向き合う。 千の顔は怒りが滲んでいるけれどそれがオレに対してじゃないことは背中を撫でてくれる優しい手から充分伝わった。 オレが泣いたからじゃなくて、自分が傷付けられてたことで怒ってほしいよ、オレは。 「ごめん。本当にオレはなにもされてない。千がお見合い断るからなんでかなーって言われてうるせぇオレから千をとろうとするんじゃねぇって殴って来ちゃった」 「泣くくらいだから、それだけじゃないだろ?隠すともっと泣かすけど」 軽くほっぺを摘ままれて、きゅんとしてしまう。 千は今さらあの人の言うことで傷付かないって言ってたけど、オレは今日言われたことを伝える気はない。 傷付く傷付かないなんて、オレも痛みに慣れてたときはよくわからなかったから、気持ちはわかる。 だから千が本当にあんな人の言うことで傷付かないとしても、いやだった。 オレの大事な千に、あんなこと言わないでほしい。 「ううん。本当に何がなんでも千とあの人を結婚させようとするからだめってムキになっちゃったの。ごめんなさい」 「本当に脅されたり嫌なことされたりはされてないんだな?」 「うん。オレが一方的に殴って来ちゃったしかも鼻」 オレの顔をじっと見て質問を繰返し、千はほっとしたようにオレを抱き締めた。 「ならいい。 ……にしても、お前本当に俺の言うこと聞かないよな」 きゅっと鼻を摘ままれて、う、と息が詰まる。 呆れたようにも、少し睨んでるようにも見える顔さえもやっぱりかっこよくて好きだ。 「千優しいから専業主婦体験とかで許してくれるんだもん。そりゃ甘えん坊将軍にもなりますよー」 「……頭痛がしてくるんだけど」 仕方ないな、と千はまた呆れたように笑ってオレの髪をくしゃくしゃと撫でた。 「ねぇ、今朝お父さんと話してたじゃん。千なんて答えたの?」 「あいつから聞いたのか?」 「んーん。たまたま千追いかけて下に降りて聞こえたの。今日の夜また話することになってたじゃん」 すぐ言い出せなくてごめんね、と言うと大きな手がポンとオレの頭に乗る。 「千さぁ、オレに隠し事するなってわりにオレには話さないこと多いよねぇ」 言わないのは見栄とかなしに自分で解決できて、且つオレを守るためってわかるけどなんだか少し寂しい。 「後で話そうと思ってたよ。電話来たけど何されようと、会う気はないって言った」 「ほんとかなぁー」 それが本当だろう、たとえ嘘だろうと好きなことには代わりはない。 じーっと千の顔を見る。 高い鼻筋も青い目もオレは好きだけどな。 うん、大好き。 「千がかっこいいから不安つきなくてやだーって言っちゃったことあるけど、オレ千の顔大好きだからね。本当に本当に大好き」 「知ってる。たまにお前俺の顔だけが好きなんじゃないかって軽く疑ってるよ」 ふんっと鼻で笑う千に、ムッとしてそんなことないよ!と顔を手で包んで軽く頭突きをした。 大好きだけど、顔だけならこんなに好きになってない。 「愚かなる千だな。オレは千がハゲ散らかしたデブでも好きになってたもん」 「それは老後も安心だな」 「今の顔のままで白目向いてみても好きだよ!」 「ははっやんねーよ」 笑いながら千が抱き寄せてオレの肩に顔をのせた。 「リチェールといると癒される。ずっと護ってやるからな」 さらっと髪を後ろ手で撫でてくれる手にきゅんとする。 千が護ってやるって言うと、本当にずっと護ってくれるんだろうって安心感があるけど、優しいこの人をオレだって守れるようになりたい。 育ての親って言ったって、あんなこと言う奴に千はあげない。 「ねぇ、千。ずっと一緒に居ようね」 ぎゅっと千の背中に手を回して抱き締め返した。 「オレも絶対千のこと守るから、幸せにするからオレと家族になろう」 今までは、まだいつもどこかでこんないい人の相手がオレなんかでいいのかなって思ってた。 この人に見合うくらい立派な人間になれるのだろうかって。 でも、迷ったりしない。 絶対に幸せにする。 これは、決意だ。 「……色々と準備してたのに、お前が先に言うか?そこは俺が言うの待てよバカ」 呆れたように、少しだけ顔を赤くして千が笑う。 「俺はとっくにその気だったよ」 そう言って、千はまたオレの唇にキスを落とした。

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