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元通り

しばらくして出てきた医者に思わず詰め寄る。 「安心してください。咄嗟に受け身をとったのか、頭もぶつけていないですし、傷は奇跡的に軽傷です。反射神経いい子だったんですね。気を失ったのは車と衝突したショックからでしょう。すぐ目も覚ましますよ」 柔らかい笑顔と共にその言葉に一気に体の力が抜けて、くらっと目眩がした。 とす、とベンチに腰をおろし、深い息をつく。 よかった。本当に。 こんなにも恐怖を感じたのは生まれて初めてだった。 今日中に見つかってよかったけれど、こんな見付け方はもう二度とごめんだ。 早くお前に謝りたい。 「先生!ちょっとよろしいですか?」 手術室から出てきた看護師が険しい表情で呼びに来て、一瞬解れた緊張がまた強張った。 「少々、お待ちください」 それから一度戻った医者が戻るまでの時間は長く感じた。 電話の男も到着して、お互いに挨拶をする。 「どうも元カレさん。リチェールの職場の先輩で西川です」 「はじめまして。リチェールがお世話になったようですみません」 一々元カレということを強調する嫌みな言い方だけど、今はリチェールのことばかり気になってどうでもいい。 あっさり流した俺の態度が気にくわないのか、ぴくっと顔をしかめた。 「あの子、バイト終わって駅のコインロッカーからキャリーバックとってごろごろ引きずりながら途中で泣き出して、涙を止められないって思ったんでしょうね。くらーい路地裏でしゃがんで泣いてましたよ。危険だと思って俺が引っ張って連れて帰りました」 リチェールが事故にあったことのショックを彼もどこかにぶつけたいのか、とげのある言葉が胸に刺さる。 路地裏とかまた……。 今の俺にはそれを責められない。 「そんなこと、あの子を捨てたあんたには関係ないか」 「ちょっと!あんたさっきからこの非常時になにつっかかって来てんだ。関係ないでしょう。帰ってもらえませんか」 佐倉が西川の胸ぐらを掴みあげる。 それをどうでもよさそうに冷めた目で手を振り払い、西川は手足を組んで壁に持たれた。 「あいつは、俺のだ」 喋ることすら煩わしい。 けれど、西川をにらんで一言だけ釘を指した。 西川が小さく息を呑む。 その時、ようやく医者が戻ってきた。 「アンジェリーさんが目を覚ましました」 その言葉に皆が一斉にガタッと動いた。 早く会いたい気持ちが前に出て、思わずドアの先を見る。 けれど、医者に止められた。 「目は覚ましたが、ひどくパニックになってますので面会はもう少し待ってください。この中に佐久本雄一さんはいますか?」 「いえ……」 突然でた佐久本の名前に、嫌な予想が思い浮かぶ。 それが外れてほしいと静かに願った。 「佐久本さんを呼んでいただくことは可能ですか?」 医者の言葉に時間が時間だから、どうしようかと佐倉と目を合わせると原野が、いの一番にスマホを取り出した。 佐倉が、こら、と嗜めるのもお構いなしに振り払う。 「もしもし雄一!?ルリが車でひかれてお前のこと呼んでるみたいだからすぐ来い!K病院!」 「はぁ!?」と電話越しでも聞こえる大声に、原野はイライラしたように早口に言う。 「いいから早く来い!ルリが車に轢かれて手術室でお前のこと呼んでるんだよ!すぐこいよ!」 見かねて原野からスマホを奪った。 「佐久本?こんな時間に悪いな。目は覚ましてるし、大事にはいたってないから落ち着いて、気を付けて来てほしい。タクシー代は俺が払うから頼めるか?」 「わ、わかりました!すぐいきます!」 電話の向こうでバタバタと急ぐ音が聞こえて、そのまま通話が切れる。 スマホを原野に返そうとすると、原野はそれを受け取りもせず医者に詰め寄った。 「雄一が来るまで待てないんですけど、俺だけでも会えませんか?俺ルリと一番仲良しです」 「すみません。今はまだ……。佐久本さんにアンジェリーさんを会わせてから説明させてください」 「でも、俺ルリと一番に仲良しです。パニックになってるなら尚更早く会いたいんですけど」 「純也、いい加減にしなさい。失礼しました」 医者に詰め寄る原野を佐倉が手を引いて止め、医者に頭を下げる。 一生懸命な原野を医者は悲しそうに見下ろした。 「…………彼が日本に来たのはいつからですか?」 質問の意図がわからないままとりあえず答える。 「あとひと月ほどで一年になります」 そうですか……と小さく呟いて、医者は顔をあげた。 「彼はここが日本と言うことにひどく驚いていました。 日本語は話せているようですが、佐久本雄一はどうしてるか、佐久本雄一に会わせてほしい。そればかりで中々話が進みません」 "お前が記憶なくしても、俺が何度でも落としてやるよ。だからそばから離れるな" 医者のいってる言葉を理解すると同時に、当時のリチェールとの約束が甦った。 俺が記憶をなくしてそばを離れたリチェールに言った台詞だ。 「まだはっきりとは言えませんが、頭はぶつけていないので、精神面から来てると思います。恐らく、日本に来る前の状態で記憶は止まってます」 まさか、それが試されるように目の前に訪れるなんて。 精神的なことからきてる? 俺とのことをなかったことにすることを望んだのか。 そうさせたのは、紛れもなく俺だ。 「どういうこと?佐久本って誰」 西川が不快そうに顔をしかめる。 「リチェールのイギリスからの幼馴染み」 無視するとしつこそうだから短く返すと、西川ははっと歪んだ笑みを浮かべた。 「リチェール、あんたに別れたくないってすがってしまいそうだってひどく怯えてたよ。あんたと出会う前に戻りたいって言ってたわ。あんたも自分を忘れてほしいって他の男進めたんだろ?望んだ通りの元通りになれてよかったじゃん」 カッとしたように佐倉が立ち上がるのを手で制し、俺が一歩詰め寄った。 「___お前、うるさいよ。あいつを手放すつもりはない。部外者は引っ込んでろ」 きつく睨むと、相手が体を強張らせる。 これは、俺とリチェールの問題だ。 だれにも間には入らせない。

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