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タイムラグ
リチェールは多分佐久本と二人で話したかったんだろう。
帰っていく佐久本の背中をもの惜しそうに佐久本を見て、それから自分のバイトの準備を始めた。
「リチェール。バイトやめないか?絶対金銭面で苦労させないから」
無駄だとわかっていて心配の気持ちがありあまりついそう聞いてしまう。
「やめないですよー。遅かれ早かれそのうち一人暮らし始めるんですから、少しでもお金はためておかなきゃ」
出すわけがない。
でもそう言うと、リチェールはこの家を今以上に窮屈に感じてしまうのではないかと思うと言葉がでなかった。
「……にしても、純也くん可愛いですねー」
ふと、リチェールが手で口元を押さえて目を反らす。
その顔はほんのり赤かった。
「……言っとくけど、あいつ佐倉と付き合ってるからな」
「へぇ、残念」
「おい……」
さらりと言うリチェールに思わず低い声が出る。
「なんです?」
けれどリチェールはキョトンと首をかしげた。
たしかに、好きだの愛してるだの警戒させるだけだろうから言ってないし、俺がフって別れてることに関するフォローだってろくにしていない。
精神的にきた記憶喪失だと聞いて、リチェールが困るだろうと思ったから少しでも気楽になれるよう勘違いさせたままだけど、さすがに他のやつに頬を赤くされたら面白くない。
たしかに、リチェールはいくら容姿が女みたいだからって、ゲイなわけじゃないし、男とはいえ原野くらい可愛い子にああもなつかれたら悪い気はしないだろう。
「……バイト先まで送る」
「え、大丈夫ですよー。自分で行けます」
「だめ。また事故に遭ったらたまったもんじゃない」
「そうそう起こることでもないでしょー」
へらへら笑うリチェールの手をつかんでジッと目を合わせると、う、と困ったように目を反らされる。
「リチェール。お前がバイトするのだって俺は100歩譲ってるんだ。送迎はする」
「月城さんって過保護なんですね。じゃあ、お願いします」
過保護にもなる。
西川の家にまた行こうとされたらやっぱりムカつくし、もう二度と危険な目にあってなんか欲しくないんだから。
「リチェールのバイト先に月城医院の医者がよく出入りすると思うけど、見かけたら極力避けてくれ。話しかけられても無視しろよ。記憶がないことは絶対に知られるな」
車の中で、ぼーっと窓の外を見ていたリチェールが顔を向ける。
念のため、警告はしておいたほうがいいだろう。
「なんでです?」
「俺の育ての父親なんだけど、関わるとろくなことがない」
「ふーん。この一年でオレも関わることあったんですか?」
「一回殴りかかってるくらいだから、相手は相当お前のこと根に持ってる」
「ええ?それ謝らなくていいやつなんですか?」
自分の喧嘩っ早さを自覚してないのか、リチェールが驚いたように俺を見る。
「いい。絶対関わるなよ」
「わかりました」
腑に落ちないような顔をしながらも素直にうなずくリチェールの髪を癖で撫でた。
一瞬ぴくっと俺を見て、ほんのり顔を赤くする。
「本当、よく撫でてきますよね。オレそんなに子供じゃないんですけど」
「落ち着くんだよな。リチェールの髪触ると」
「……なんかそれ、照れちゃって何て反応していいのかわかんないです」
赤い顔でへにゃと照れたように笑われ、俺まで顔が熱くなる。
リチェールのこの照れ笑いの表情、毎日見ていたはずなのに、もう遠い昔のように感じる。
当たり前に向けられていたけれど、大切なものだったのだと今さら気がつく。
「あ、ここで大丈夫です」
リチェールの目が何かをとらえ、ホテルからまだ少し距離があるところで降りると言い出した。
リチェールの視線を目で追うと、そこには西川が歩いていて、胸がざわつく。
「西川さーん!」
そんな俺の気も知らず、リチェールは窓を開けて声をあげた。
声に反応して顔をあげた西川はリチェールを見て優しそうな笑顔で手をあげる。
本当は嫌だけど、リチェールとしても出勤前に知った顔と仕事の話もしたいだろう。
仕方なく路肩に停車した。
「送ってくれてありがとうございました。さようなら」
行ってきます、じゃなくてさようなら、ね。
笑って西川のもとに走っていく背中をなんとも言えない気持ちで見送りながら、タバコに火をつけて家に向かった。
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