568 / 594
タイムラグ
リチェールside
ひゅー、ひゅー、と呼吸が浅くなっていくなか息苦しさに目を閉じた。
なんだろう、この呼吸は。
苦しいけど、保健室に行こうなんて思わない。
ベンチの背もたれに体重を預けて、ハンカチを口に当てた。
カチャとドアが開く音がして、そっと目を開ける。
そこには、見覚えのある男子生徒が立っていた。
たしか、クラスにいた気がする。
「ルリ、大丈夫?具合悪いの?」
オレがいるってわかってて来たのか、するりと隣に座って背中を撫でてくれる。
優しさでしてくれるのはわかるけど、その手つきにぞわっと鳥肌が立った。
「ごめん、だれー……?」
笑顔だけはどうにか浮かべてそう聞くと、相手はにやっと口元を緩めたように見えた。
オレが疑心暗鬼になってるだけかも知れないけど。
「佐倉先生が昨日のHRで言ってたこと本当なんだ。記憶喪失なんて、悲しいな」
そっと抱き締められ、ぞわっと背筋が凍る。
なんだろう。
すごく、すごく嫌。
「俺は信也。ルリとは周りには内緒で付き合ってたんだよ」
どくん、と心臓が嫌な音をたてる。
周りに、内緒で?
これが本当だとしたら最悪だし、それをオレに求められてもどうしていいのかわからない。
嘘だとしたら、何が目的なのか変に勘ぐってしまう。
「でも、オレ……」
月城さんと付き合ってたはず。
本人だって周りだってそう言ってる。
けれど、教師である立場の月城さんとの関係こそ、極秘だっただろう。
「月城先生はルリが日本にいるために利用してただけ。お前と愛し合ってたのは俺だから」
なんでこの人が月城さんのこと知ってるのか。
嫌に現実味を帯びさせてくる。
オレは本当にこの一年何をしていたのだろう。
呼吸が、どんどん浅くなって、視界がくらくらと歪んだ。
嫌だ。そんな自分自身が、気持ち悪くて仕方がない。
「ルリが弱ってるとき、よくこうして慰めてたよ」
………息が、つまる。
ぐいっと引き寄せられて、唇が重なりそうになった。
その一歩手前で、考えるよりも先に手が出ていた。
「が…っ!」
右手の拳にはじんじんと痛みが広がって、目の前ではシンヤと名乗った男が頬を押さえてオレを睨んでいた。
ひゅ、ひゅ、と落ち着かない呼吸すら煩わしくて恐怖ごと押し殺すように叫んだ。
「いい加減にしろっ!!どいつもこいつも!!誰と友達だったとか、付き合ってたとか知るかよ!!オレに触るな!!!!」
自分がそんなに綺麗なものじゃないってわかってる。
……わかってるから、もうこれ以上、汚さないでくれ。
殴れた男はひゅーひゅーと荒い呼吸を繰り返して冷や汗を流すオレを見下ろして不敵に笑う。
「そんなに震えてウサギみたい。お前とはじめてヤッた日のこと思い出すよ」
聞きたくない。
オレが、日本に逃げてきてまで同じように汚れていたことなんて。
どうにか情けない呼吸だけでも止めようと、下唇を強く噛んだら、血が滲んだ。
過呼吸だろうか。
手足までしびれてくる。
「体は俺のこと覚えてるかもよ?してみたら記憶も戻るんじゃない?」
「やだ……っ来る、な……!」
呼吸がままならないせいで、立っていることすら辛くて、壁に手をつく。
相手が一歩一歩近付いてきて、体が震える。
この体格差で大した抵抗はできないだろう。
両手を捕まれ、ベンチに乱暴に押し倒された。
いっそ抵抗しないで、さっさと終わらせた方が楽だって分かるのに。
____愛してる。だから、自分の身を軽く扱うような真似しないでくれ。
あの人が思い浮かんで、胸に裂かれるような痛みが走った。
「や……やだぁ──っ!」
叫んだ瞬間、体がぐんっと宙を浮き、ひっと息を飲んだ。
何が起きたのかわからず身を小さくすると、あの匂いに包まれていた。
「お前も懲りないよな、秋元」
耳に届いたその声に、一気に気緩んでぶわっと涙が溢れた。
「つ、き……っ」
名前を呼ぼうとしたけれど、息が苦しくて声にならなかった。
咄嗟に離れようと暴れるオレを逞しい腕がしっかり掴んで放してくれない。
「月城……っ」
明らかに焦ったような男の声に、しばらくの沈黙のあと足音がひとつ離れていく。
顔を上げると、そこにはもう彼の姿はなかった。
「放して……っ」
「リチェール」
「オ…レに、触るな……!」
息も絶え絶えに、抵抗するとするっとベンチにおろされた。
昨日のこともあって気まずくて、力一杯肩を押して離れようとする。
「わかった。リチェールの呼吸が落ち着いたら触らないから、少し我慢しろ」
そういって、月城さんはオレの口にハンカチを当てた。
「俺に押さえられるの怖いだろ?自分で持てそうか?」
たしかに人から口を押さえられるなんて、ゾッとする。
とにかく息苦しくてすがるようにハンカチを受け取り口に押し当てた。
月城さんはオレを膝に乗せて抱き抱えると、優しく背中を撫でてくる。
その手つきが気持ちいいと思えてしまうことがどうしようもなく悲しかった。
オレは日本にいるため、あなたを利用してたかもしれないのに。
もうどれが本当でどれが嘘なのかもわからない。
「ちゃんと嫌だって言えて偉かったなリチェール」
全部忘れてしまったひどいオレをそんな優しい声で呼ばないで。
気が付けば月城さんの肩に頭を預けて包まれることを受け入れてしまっていたことを過呼吸のせいにして体を委ねた。
ともだちにシェアしよう!