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こころ
お昼を過ぎて忙しさのピークが落ち着いてきた頃、上司に呼び止められた。
「アンジェリー。ストックルームからこれ持ってきて」
ぴらっと渡されたメモには中々の量が書かれている。
「わかりましたー」
ホテルワゴンの場所を確認して急いでストックルームに向かった。
廊下でお客様とすれ違うたび足を止めて頭を下げるから、中々進まない。
ようやくストックルームに着いて、書かれた物を探してワゴンに乗せていると、外からボソボソと話し声が聞こえてきた。
聞き耳を立てるつもりはなかったけど、届いた声が聞き慣れたもので思わず手を止めてドアに近付いた。
「お前はさっきから遠回しに断る雰囲気醸し出しやがって!あのイギリスのガキがどうなってもいいのか!?」
「出席だけって約束のはずだ。先方に失礼がない言い方にしてやってるだけ感謝しろよ」
この声……月城さん?
イギリスのガキって………。
不穏なやり取りに、眉を潜めた。
"父親にちょっとした弱味を握られた。行きたくないけど、その日お見合いに顔だけ出さなきゃいけない"
そう月城さんは、言っていた。
もしかして、その弱味ってオレ?
オレのせいで、あんなひどい傷をつけた男の言いなりになってるの?
握った手の爪が食い込んで、震えた。
「少しは恩を反そうとは思えないのか?
汚い男の血が流れたお前を養子として迎え入れて育ててやったのは誰だと思ってる?」
育てて、やった?
どうしてこう親はどいつも、こいつも。
それなら早く施設にでもいれたらいいだろ。
世間体がどうのこうのって、利用するだけのくせに。
押さえつけられて、母親の名前を呼ばれていた過去が頭によぎる。
なんで月城さんは言われっぱなしなんだ。
オレなんてどうなってもいいだろ。
歯がゆくて、むしろイライラしてくる。
「アホみたいな口喧嘩したいならその辺のガキに相手してもらえ」
……いや、結構なこと言い返してるけど。
「そうか。ならイギリスのガキに相手を頼もうか」
「……あの女とどこまでしてほしいって?」
ほら、またオレが出た瞬間そんな弱腰でさ。
月城さん一人なら、こんなやつの相手にならないのに。
この人は、いつもいつもこんな風にオレの気持ちを尊重して気付かれないように守ってくれていたのかな。
オレは自分が傷つきたくないからって気持ちに蓋をして、この人の優しさに甘えてばかりだった。
……あの日、オレの弱さは優しいこの人にひどいことをさせてひどく傷付けた。
だから、いいんだよ、オレは。
あなたのためなら傷付いたって構わない。
覚悟を決めて、握った拳をそのままドアに強く叩き付けた。
バン!!!と大きな音を立ててドアが開き、月城さんとお父さんが同時にこちらを向く。
怒りで、むしろ笑えてくる。
「ヘイ、ミスター?お望み通り、オレが相手してやるよ」
腸煮えくり返る思いで月城先生を背に前に立ち憎い男を睨み付けた。
「リチェール?どこから聞いて……」
珍しく焦ったように月城さんがオレの手を引いたけれどそれを振り払ってネクタイを引いた。
前に体制を崩した月城さんの唇に自分のものを押し当てる。
目を見開いて固まる月城さんから離れると、固まる父親をもう一度睨んで親指で月城さんを指差した。
「この人は、オレのなんだよ。あっち行けバーカ」
誰にも手を出されたくない。
あなただけには傷付いてほしくない。
いつか捨てられてもいい。
もうとっくに優しいこの人を愛していたんだ。
傷つく覚悟なら、もう出来た。
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