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第16話
玄関の鍵をかける。天気予報では雨は降らないと言っていたけれど、重たい空模様だった。
奈津の隣には海未がいた。ほっそりとした海未の指が、そっと奈津の指にかかる。「手を繋ごう」ということだろう。奈津が指を絡めると、海未が目を僅かに細めて、我慢できなかったのか口角も上がる。その上ぽわぽわとした空気を醸し出していた。そんなに嬉しかったのだろうか。海未からも軽く指を絡めてくる。
「奈津さん、またカフェ来てよ。サービスするよ」
「サービスって何するの」
海未がバイトしているのは、普通のカフェだ。いちバイトがサービスの融通を利かせられるわけがないだろう。
「でもさ、推しバリスタが成長するのって、見てて楽しくない?」
こてん、と海未が首を傾げる。まず「推しバリスタ」っていうものがわからない。奈津は今までそんなピンポイントの推しを作ったことがない。でも彼氏の成長を眺める分にはいいのだろうか。明日にはいなくなってしまうかもしれない、期間限定彼氏だけれど。
海未はそんな不安定な奈津の内心を読んだかのようなことを言う。
「奈津さんはおれの彼氏だよ」
それは言外に「今はね」が含まれているような気がするのは、奈津の邪推だろうか。
「じゃ、行こう」
繋いだ手を引かれる。「え、ちょっと、待って」一部コンクリートの剥がれた階段を、海未に引かれてバランスを崩しながら降りていく。
「おれ、奈津さんが期間限定彼氏で、よかったよ」
奈津さん、いい人そうだもん。
海未くん、それは全然褒めてないんだけれどな。
奈津が海未に見付からないように、ぎゅっと下唇を噛みしめる。
「あ」
先に階段を下りていた海未が、何かに気付いたらしい。そっと繋いでいた手を解かれる。
「海未くん?」
どうしたの。
海未の方を見ると、大きな目をこれでもかという程見開いていた。瞳はきらきらとしていて、頬がほんのりと染まっている。唇がわなわなと震え、ようやく言葉を口にした。
「有紀さん」
呆然とした海未の目線の先には、背の高い、柔和な顔の二十代半ばの男性が立っていた。向かう先が奈津と同じ方向らしかったので、大学院生だろうか。
「海未くん」
雰囲気と同じ、柔らかな声で彼は海未を呼んだ。呼ばれた海未は耳が赤い。それはとてもわかりやすい反応だ。
この人が海未の王子さま、だ。
「海未くん、今何やってるの?」
有紀が尋ねる。多分これは社交辞令の一種なんだろうな、という感じがした。それでも海未は嬉しいらしい。
「あそこのカフェでバリスタしてますっ。今度来て下さい」
いつもより少し早口で答えた。
「そう。頑張ってね」
そう言って有紀が手を振って離れていく。その後ろ姿を、海未はずっと眺めていた。
なんだ、全然諦められていないじゃないか。
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