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【第1部 竜の爪を磨く】11.運だけで決まるゲーム
早朝の冷気がひりひりと肌を刺す。
太陽はもう東の空のなかほどにいる。俺は宙に浮かんだ竜の背中で、地上の梢がしなるさまや旗竿のかすかな揺れを観察する。風が光り、道――竜が翼を乗せる風の道がみえる。少なくとも一瞬、そんな気がした。
はるか下の地上には、緑の大地の中に黄土色と灰色の線が引かれている。なだらかなカーブが直線になり、集合し、やがて碁盤目状に成長する。地上の道。碁盤目の筋のあいだに白や茶色の直方体――町の建物がならぶ様子は、まるでボードゲームの駒のようだ。
俺の中で征服欲のようなものが頭をもたげる。眼下に広がるすべての道を歩きたい。この欲望は馴染み深く、同時にとても奇妙な感じもする。前に生きていた時、俺はたしかにこの欲求に駆り立てられていた。いま竜の背中から地上を見下ろしているように、手のひらの小さな画面で地図を確認して……
ツェットが急に速度をあげたので俺は一瞬の夢想から醒めた。アーロンが乗った竜、エスクーが速度をあげてツェットを追い抜いたのだ。二頭の竜が同時に喜びの咆哮をあげる。頭の天辺から背筋まで貫くような吠え声は、竜を知らない者には苦悶のうめきに聞こえるかもしれない。実際は逆だ。
まだ空気が温まっていないから、高速上昇の足掛かりとなる熱気泡は発生していないはずだが、エスクーは噴射と羽ばたきですばやく上昇する。ツェットは力任せで風に乗ったエスクーのすぐ後に続き、空気抵抗を最小限に抑えながら上昇する風をとらえ、一息で高所の、速いが安定した気流に乗る。エスクーが吠え、ツェットが応える。晴れた朝の飛翔は竜を浮き立たせ、俺にも彼らの気分が伝染する。
エスクーの背中にいるアーロンがふりむいた。飛行帽のつばで眼は見えないが、口元が挑発的にゆるんでいる。
そうか? みてろ。
「ツェット、抜くぞ」
俺はハーネスを握りなおし、両股を締める。鞍を通じて伝わった命令をツェットは瞬時に理解した。急速な噴射の振動が腰を揺らす。大きく羽根を動かしたツェットの頭身はたちまちエスクーを抜き、俺は後ろのアーロンに向かって片手を振り上げ、親指を立てる。
エスクーが鳴いた。もう一度こちらを追い抜こうというのか、真横につけてくる。ツェットの翼は温まった朝の空気をとらえて斜めに大きく傾き、俺は左下手にアーロンの頭を確認する。彼は首を振り上げ、顔いっぱいに笑みを浮かべたまま俺をみた。眼が合った。
たったそれだけなのに、撃ち抜かれたような気がした。
腹の底がきつく締まって、ずきりと痛む。幸いツェットの羽ばたきで気がそれた。竜は無邪気に飛翔を楽しんでいる。
ツェットとエスクーが追い抜きあって先を急いだおかげで、俺たちは予定より早く目的地に到着したが、庁舎近くの飛翔台にはすでに二名が待機していた。一人は行政官付きの若い職員で、もうひとりの中年男は〈碧〉の担当官だった。
帝国官僚は勤勉だし、手順はあらかじめ連絡済みである。アーロンは最初に行政官と話があるといい、すぐに若い方の職員に案内されて庁舎へ消えた。俺は〈碧〉の男についていった。
庁舎は古く重厚な建物で、狭い階段は人でごった返していた。反帝国分子からこの地区を奪還して、その後処理でてんやわんやな状況なのだ。街角ごとに帝国軍の制服が立っているが、全員〈碧〉のしるしだった。〈碧〉は同じ帝国軍でも〈紅〉や〈萌黄〉とはまったく毛色が違い、治安維持と犯罪抑止を目的とする組織である。
「記録類は準備してある」
男は施錠された透明な扉をあけた。その先の部屋は箱詰めにされた資料で半分が埋まり、残りの半分は会議テーブルに占領されている。
「狭くて悪いが、調べるのもここでやってくれ。あそこにモカのサーバーがある。手洗いは扉を出てすぐ。森の現場にはいつ行くのかね?」
「まだわからない。現場は今は立ち入り禁止に?」
「ああ。警備は交代で見回っている。常時張りつけておくには人手が足りないし、移送した捕虜の尋問記録も含め、資料はすべてここにある。現場へ行くときは呼んでくれ。施錠するからな」
俺は積み上げられた箱を眺めた。ためいきが出そうになるし、飛翔台の近くでのんびりしている竜がうらやましい。しかしアーロンがここにやってくる前に調べを進めておきたかった。早いところ「いいもの」をみつけだせなかったら、ここに夕方まであいつと閉じこめられることになりかねない。
アーロンが扉を開けたとき、俺は例の竜を地図化した森周辺で捕らえられた反帝国分子の記録を洗っていた。
「すまない。遅くなった」
「いいところに来たな」
俺は座ったまま眉間を揉む。せっかく入れたモカがすっかり冷めてしまっている――と思ったら、アーロンに取り上げられた。
「おい、返せよ」
「新しいのを持ってくる。で?」
「竜の世話をしていた捕虜を掘り当てた。現場にいたのは飛翔竜二頭、とはっきり証言してる。地図師じゃないが、軍の厩舎で働いていたことがある。今は仮収容施設 へ移送中」
「直接証言を聞くには遠いな」
「前の作戦で、変異体を再地図化した現場の記録は一通りさらった。〈紅〉も〈碧〉も、掃討作戦が終わった後は新たな施設は発見していない。だがこの男の証言から考えると、幼竜を放牧していた施設か――何かしらの場所がありそうだ」
話しているあいだにアーロンの気配が消えたと思ったら、すぐにモカのカップを二つ持って戻ってきた。横に白い紙包みを置く。
「行政官が手配してくれた軽食だ。庁舎の食堂が機能していないから、昼代わりにと」
「ずいぶん気が利くな」俺は上目でアーロンをみた。
「これからどうする」
「エシュ、飛翔竜がもう一頭いた場合、森のどこに隠されていると思う」
俺はモカを口に含み、考える。しかし答えを持っているわけではないから、単に思考を口に出すだけになる。
「変異体の竜は孤立した存在だ。昔から地図化されている竜とも野生の竜ともちがう。周囲の環境にまったく適応できなかったり、過剰適応している場合もある。どちらにしても世話をする人間がいなければやっていけない。隠すにしたところで、そのまま隠せるかというと……」
「わかった」アーロンは俺の話を途中でさえぎった。きっぱりといった。
「森へ行こう」
俺たちは徒歩を選んだ。
ツェットもエスクーも連れては行けないからだ。もし生きた竜がいれば遠方からあっという間に気取られてしまう。アーロンは行政官からこの地区の〈地図〉を複製していた。この手の〈地図〉には道だけでなく、基本的な地形や本来の動植物を含む生態系の情報が集約されている。行政官が〈法〉を執行すれば、燃えて廃墟となった反乱分子の残骸もじきに撤去され、森は自然な姿を取り戻すはずだ。
上空から眺めた印象より、森は広く深かった。だが〈地図〉があればけっして道に迷わない。俺はアーロンと手分けして作戦の残骸の廃墟から森のさらに奥へと分け入る。アーロンはいつもの短い杖を持ち、俺は愛用のライフルを肩にかけていた。
徒歩の探索には時間がかかった。
見知らぬ道をたどっていると、前世の自分が歩くことを好きだったのを思い出す。俺は実際に歩くゲーム、歩かなければ攻略できないゲームにハマっていた。プレイヤーが現実に存在するランドマークをたどり、自分の位置と移動距離をリアルタイムで端末に記録することが、同時にゲーム世界に立つ石柱 に同期する、そんなゲームだ。
プレイヤーは赤と黒、どちらかの陣営に所属している。モノリスはプレイヤーが所定の条件を満たしてハックすれば自陣のものとなる。ゲーム世界で自陣のモノリスとなっているランドマークに現実世界でプレイヤーが接触すると、ゲームと現実双方で何らかの恩恵が得られた。このゲーム『赤と黒』は、多数のプレイヤーが協力してモノリスを自陣の色で塗りかえ、ネットワークを拡大することで進行する。
落ち葉を踏みながら俺はふと眩暈を感じた。たった今まで、俺はこのゲーム『赤と黒』にまつわる記憶――前世の記憶について深く考えたことがなかった。しかしあらためて思い出すと、ここにはおかしなくらい〈地図〉をめぐる帝国と反帝国の争いを連想させるものがある。これもまたあの神とやらの策略なんだろうか?
枝のあいだから黄色い光が矢のように刺し、風がざあっと梢を揺らす。俺ははっとしてまばたきをした。また夢のような思考に溺れていたのだ。最近、こんなことが多すぎる。
俺は顔をあげて周囲を見回した。森は静かだ。虫の羽音も鳥の声も聞こえない。
足元を蹴った。乾いた音が鳴った。
『エシュ』
通信機からアーロンの声が聞こえる。タイミングがいいのだか悪いのだか。
『聞こえるか?』
「アーロン」
『なんだ?』
「何かみつけた」
『待て。すぐ行く』
俺はライフルを肩から外し、しゃがんで落ち葉をかき回した。巧妙にカモフラージュされた蓋をみつけだせたのは辺境育ちの眼と耳のおかげだろう。持ち手は重かった。俺ひとりでは持ちあがりそうもない。単に重いのではなく、この蓋に何らかの〈法〉の細工がされている。
そのとき地面を蹴る音が聞こえ、アーロンが走ってきた。何もいわなくても状況を理解したらしい。俺が指輪に手をかけるまえにもう杖を取り出している。
「エシュ。どいてろ」
「あっさり開けるな。何か仕掛けてあるかもしれん」
「わかってる」
ほんとか? 俺の声よりもアーロンの杖が光る方が速かった。蓋の内側でバチバチと爆竹のような音が響き、ブゥーンと空気の鳴る音と共に蓋は内側から開いた。地面が揺れる。
俺とアーロンは同時に息を飲んだ。地中で死にかけ、絶望した竜の咆哮が、まっすぐ空へと響き渡る。
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