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【第1部 竜の爪を磨く】12.分裂する乱気流

 竜が閉じこめられているのは地中に埋められた二重構造の密閉容器だった。俺の前世の知識でいえば丸形フラスコの形をした魔法瓶に似ている。空間を操る法道具の一種だから、魔法瓶と呼んでもそんなに外れていないかもしれない。 〈空間法〉を使う法道具は普通、俺の指輪やアーロンの杖のように〈地図〉やその他の無生物を格納する。生物は転移させるときに死んでしまうからだ。しかし瓶を使えば生きたままコンパクトに格納して持ち運ぶことができる。要するに瓶は、生物を安全に移動するための|檻《ケージ》なのだが――それにしてもこの瓶はでかすぎた。  瓶の口だけで俺が両腕を囲ったくらいの大きさがある。つまり地中に埋まっている部分はもっと大きいわけだ。〈法〉でコンパクト化するといっても、一般的な法道具として流通している瓶は会議室のテーブルに乗せられる程度の大きさだ。それでも最大サイズの瓶は騎乗竜一頭なら格納できる。だがこのサイズの瓶となると……  俺は中にいる竜の大きさを考えてぞっとした。瓶に入れられた生き物は地図化されたわけではない。呼吸には困らないが、水や食べ物がなければ飢えて乾く。汚物も垂れ流しで、入れっぱなしにすれば当然いつか死ぬ。 「すぐに戻ってくるつもりだったのか」  アーロンはそういってひざまずき、瓶の口をのぞきこむ。竜の吠え声に動じた様子はまったくない。杖を軽く振ると瓶の口で閃光がまたたき、声がやんだ。それでも瓶の口はぶるぶると震えている。 「おそらくな。しかし戻ってこられなかった」 「帝国を甘くみるからだ」  アーロンは杖を振り、中を照らした。俺は両手を組んで瓶の口に向け、中にいる生き物の全貌を移すレンズを空中に出現させる。生き物は痙攣していた。肢の一部が見えない。瓶の底には黒い液体がこびりついている。 「変異体――新種か?」 「そうだな」俺は首をふる。「こんなの、はじめてだ」  竜の巨大な灰色の翼、背中と頭部は剣のような棘に覆われていた。頭と翼の形だけなら高層圏にいる竜に似ている。彼らはふつうの飛翔竜には飛べないほどの高所を飛ぶから、人間の領域には年に一度の繁殖の時期をのぞいてめったに近寄らない。詳しい生態はわかっていない。誰も地図化していないからだ。  腐敗の悪臭が瓶の口からたちのぼる。地中から響く咆哮は死に直面した竜が運命を受け入れられないままに放つ憤怒の声だ。こいつをここに閉じこめたやつはどこへ行ったんだ? 能力の高い法の使い手以外には不可能だ。捕虜にそんな者はいなかった。 「瓶ごと掘りだして運べると思うか?」アーロンが淡々といった。  俺は両手を回してレンズに映る像を拡大した。 「工兵を呼ばないと無理だ。急がないとまずい。死にかけてる」 「そうだな」アーロンは杖を動かし、瓶の口をぐるりとなぞった。 「でなければこのまま再地図化するかだ」 「このままだと?」 「エシュ、瓶の中で地図化できないか? そうすればこの区域一帯を掘り返して汚染しなくて済む」  俺は驚いてアーロンをみたが、考えてみれば試したことがないだけだ。 「やれないことはないと思うが――」 「が?」  また竜が吠えた。胃が縮みそうな、腹の底から気分が悪くなるような声だ。俺は思わずつぶやいた。 「こいつは死にかけている」 「そう考えると間にあってよかったな。死んでから完全な〈地図〉を入手するのは無理だ」 「アーロン。〈碧〉に工兵の緊急出動を要請して瓶を取り出そう。再地図化するにしても、一度治療してからの方がいい」 「なぜだ?」アーロンは怪訝な表情で俺をみた。 「エシュ、可能だというならすぐに地図化するのがどうみても最善だ。瓶の環境は安定している上、竜の状態がどうだろうと地図化すれば関係はない。もしその前に死んだら、この大きさを処分するのはそれこそ工兵も苦労する」 「……こんなところに閉じこめられて、空腹のあまり自分を喰って、腐って、いつ死ぬかわからない苦痛のなかで〈|精髄《エッセンス》〉を抜きだされるのか」  俺ならそんな拷問は抜きにしてこのまま殺されたいと思うだろう。 「エシュ、非合理な緊急出動で〈碧〉を説得するのは難しい。それに地図を手に入れれば急ぐ必要もない」 「そうだな」  非合理か。まったくだ。俺のこの気分が偽善と欺瞞にすぎないのはわかっていた。こいつは一体しか存在しない。元の〈地図〉を弄られ、人間の手でこの世に生み出された。こいつは似たような存在をみつけることもできず、自分の意志で|複製《コピー》を残すこともできない。苦しんでいてもいなくても、いずれ|精髄《エッセンス》だけ抜き取られることに変わりはないのだ。  この世界は〈地図〉をより多く持つ者が支配する。  俺はアーロンの視線から顔をそむけた。指輪を抜いて展開させる。一度閉じてひらいた手のひらに手品のように拳銃の重みが乗っている。指輪に格納した時のまま、完璧に手入れされ調整されて、装弾も完了済み。 「大丈夫か? 俺も補助する」  アーロンがいったが、俺は首をふる。 「大丈夫だ」  アーロンを押しのけ、地面に腹ばいになって瓶の中に腕をのばし、拳銃をかまえる。〈地図〉とは存在の|〈精髄〉《エッセンス》を凝縮させたものだ。その地図を精製するための法道具は、単に地図を使うための法道具――アーロンの杖――とはちがい、いつも銃や剣のような武器の形態をとっている。俺は地中でうごめいている生き物の〈|精髄《エッセンス》〉を捉えるために神経を集中する。世界が一点に収斂していき、すぐ横にいるアーロンの存在も意識から消える。  瓶の底の竜には俺たちがみえているだろうか。きっとみえていないだろう。自分の苦痛で手いっぱいで、他者のことなどどうでもいい状態だろう。そうであることを祈った。  しかし引き金に指をかけた瞬間、予想は完全に間違いだったとわかった。  結論からいえば、死にかけた竜を再地図化するのは端的に胸糞悪い作業だ。周囲の人間がいくら感心しようが地図化の腕をほめたたえようが、すべてが終わったあともむかつきながらモカを飲み干して気力を補充し、そのせいでむかつくことになる。  だが俺は〈黒〉随一の地図師として名をとどろかせているし、竜が感じていた苦痛と憎悪は〈地図〉には残らない。  日が暮れる前にアーロンが呼んだ〈碧〉の一隊が現場に到着し、瓶の回収作業に取り掛かった。この作業は案の定その日のうちに終わらず持ち越しとなったが、そもそもここに来た目的、つまりシュウが存在を予測したもう一体の新種の〈地図〉は手に入ったわけだ。うまく行き過ぎのようにも思えるが、目的を達成したからには、俺がこの地区に長居する必要もない。  調書を書くのに夜までかかったが俺は帰るつもりだった。午前中、行政官と交渉していたアーロンはまだ用事があるらしいが、ツェットで飛べば真夜中には帰りつく。早朝に出発して深夜に戻ればよけいな経費もかからないし、あっちの厩舎にはなじみもいる。  ところがアーロンは厩舎に向かおうとした俺をでかい声をあげてとめた。 「いや、だめだ」  誰かが顔をあげて俺たちをみた。よりにもよって庁舎のなかなのだ。とはいえ多くの職員は帰っていて、午前中のような騒がしさはない。だからよけい目立った。 「どうしてだ? 今晩中に戻って、明日の朝いちでシュウに分析させるぞ」 「だめだ。飛ぶには遅すぎる」  アーロンが声を大きくしたのは一度だけで、あとはごく普通だった。にもかかわらず鋭い口調はやたらと響き、おまけに不要な威圧感がある。俺は反射的に眉をよせたが、アーロンはたたみかけた。 「夜間単独飛行の許可は出ていない」 「そんなのおまえが出せばいいだろう。なんのための〈黄金〉だよ」 「現在〈黒〉はその〈黄金〉の直接指揮下にある。許可は出せない」  俺は舌打ちしそうになるのをこらえた。 「そうですか。了解しました。では――」 「宿舎は用意してもらった」  アーロンの声に応じるかのように、今朝俺たちを出迎えにきた若い方の職員があらわれた。遅くまでご苦労なことである。 「ご案内します」 「彼を先に頼む。私はあとで」  職員は俺たちとさほど変わらない年齢らしい。要するにみんな若造なのだが、アーロンを尊敬している様子がみえみえで、俺は意味もなく腹が立った。案内されたのは庁舎からさほど遠くない、職員宿舎のゲストルームだった。昇降機が最上階で止まったので嫌な予感がした。 「こちらです」  廊下には絨毯が敷かれていた。案内されたのは高官用の部屋だった。両開きの扉をあけた先にも絨毯を敷いた短い廊下があり、その先にはソファにダイニングセット、書斎スペースとミニバーまで備えた広い空間がひらけている。ベッドルームは廊下の途中に独立したものが三つ。 「浴室がひとつしかなくて申し訳ありません。今はご用意できる最上の部屋がこちらしかなく……」  ご用意できる最上の部屋などいらない、むしろ場末の安宿に行かせてほしいと俺は内心思ったが、そんなことをいえるはずもない。今は食堂はどこも閉まるのが早いので用意したと職員はいって、ダイニングテーブルに置いてある容器をさした。俺は苛立ちを表面に出さないように礼をいうので精一杯だった。アーロンと完全に離れられる下の階の空き部屋ならよかったのに、などとは無論いえない。それにしても、これだけ帝都を離れても〈黄金〉の扱いはこんなに大げさなのか。  しかたがない。アーロンが登場する前に体を洗おうと、職員が出ていったとたん、俺は浴槽に湯を貯めはじめた。早朝に出て今までろくに休んでいないから、体はもちろん疲れている。なのにちっとも眠くならないのは――あの光景のせいだ。  あの竜。最後に俺をみたあの眼つき。  湯のうえにもりあがる白い泡をお手玉しながら俺はぼんやり地図化の光景を思い出していた。竜の視線によけいな感情を投影するべきじゃないのは百も承知だ。都会育ちの連中はなかなかそのことがわからないらしいが、竜がウロウロしている土地で育った人間にはあたりまえのことだ。竜は俺たちの同類ではない。人間の感情と竜の感性はまったく異なる。俺があの視線に何を感じようと、それは|俺《・》|の《・》気分にすぎない。  そう考えてみてもどうにもならなかった。耳の底に竜の声がこびりついているような気がする。竜の地図化は何度もやっているのに、どうして今日だけこうなのだろう。くそ。  命令違反など気にせずツェットに乗って帰るべきだった――いや、今からでも帰るべきだ。俺は軍人にあるまじきことを考えながら泡を両手でかきまわし、体をこすった。眼をあげ、淡い色のタイルで覆われた浴室の壁をながめていると、すうっと現実感が遠くなるのがわかった。みえない膜が俺をすっぽり覆いはじめ、俺はいくつもの俺に分離しはじめる。浴槽にうずくまる俺をべつの俺がみている。  はっとして俺は髪を湯に突っこみ、がしがしと頭を洗った。湯を抜いてシャワーで泡を流しながら落ちつかない気分でいっぱいになる。誰でもいいからセックスしたかった。時々やってくる、この膜のような感じを破るにはそれが一番だ。ちくしょう、やっぱり基地に戻って……いや、帰らなくてもいい。外で誰かを探せばいい。酒場くらいあるんじゃないのか。  帝国領内に酒場がない町などあるわけがない。  俺は決意してズボンに足をつっこんだ。そのとき浴室の扉がいきなり開いた。アーロンの眼が俺を見下ろす。鍵をかけたはずなのに――と思った直後、バタッと閉まった。  俺はあわててズボンを履き、上を羽織って扉を開けた。 「アーロン」 「悪い」  アーロンは妙にびくっとしてわずかにうしろに引いた。俺の裸なんて何度も見ているくせにおかしなやつだと俺は考え、いや、だからこそ嫌なのかもしれないと思いなおした。 「こっちこそ悪いな。俺はおわったから」  てっきりアーロンも風呂だろうと俺は背後を指さしたが、アーロンは首をふる。 「いや、あとでいい――食事は?」 「これからだ。自分の分を部屋に持っていくよ」 「一緒に食べよう。今日の竜について話したいこともある」  なんだと? 俺は髪から垂れるしずくをタオルでふき取った。 「今からか?」 「ああ。今のうちに」 「俺はもう寝たい。どうせ〈地図〉はシュウの精査がないと何もわからないし、明日も時間はとれる。これも命令か?」  アーロンは渋い顔をした。「いや。ちがう」 「だったらそこをどけよ」  アーロンは一歩うしろに下がったが、俺も自分の部屋で食べるといった手前、ダイニングテーブルの容器に手をつけないわけにいかなくなった。アーロンがいないあいだにさっさと抜け出そうと思ったのにこのざまだ。ついていない、あるいは間が悪い。  アーロンは三つ並んだベッドルームのうち、俺が使っていない部屋の扉を両方とも開けてまた閉めた。てっきり俺の部屋からひとつ置いた方を使うのかと思いきや、真ん中にある隣の部屋を選んだ。俺は顔をしかめそうになった。隣にいたら抜け出したのが物音でバレてしまうかもしれない。 「おい、なんでまた――」  思わずたずねようとしたとき、アーロンが片耳を押さえた。まだ通信機をつけていたのだ。 「ああ」アーロンは通信機にこたえながらベッドルームへ入っていった。扉が閉まる直前「セラン」と呼びかけるのがきこえた。  やれやれ、どうするか。  ダイニングに用意されていた容器の中身は肉たっぷりのシチューに茹でた野菜。味は悪くなかった。食べおわってベッドに寝転んでいると、隣でばたんと扉が開き、閉じる音がきこえた。俺は耳をすませた。こっそり出ていくならアーロンが浴室を使っているあいだが狙い目だろうか。だが配管の水音は聞こえない。俺はそっと扉をあけてのぞいてみた。つきあたりの部屋の扉が開けっ放しで、アーロンがふさぐように立って、こちらをみていた。俺はあわてて扉を閉めた。  いったい何をやってるんだ。アーロンだけじゃない。俺もだ。  そう思ったとたんうんざりした。風呂で温まった体はだるく、空腹が満たされるとひどく重く感じられる。面倒なことを考えるのはやめてこのまま寝ればいいと怠け者の心がささやいた。明日基地に戻ったらアルヴァを探せばいいだろう。今日はあきらめろ。壁の向こうにアーロンがいたってべつにどうということもない。  俺はまた服を脱いだ。部屋を暗くしたのに、窓を覆うカーテンの端から思いのほか明るい光がもれている。ひらくとまるい月が眩しく俺を照らした。俺はカーテンをそのままにしてベッドに横になった。月がうす笑いしながら位置を変えるのを眺めるうちに、いつのまにか眠りにおちていた。

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