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【第1部 竜の爪を磨く】13.耳の裏の声

    *  温かくて重量感のあるものが俺の上に乗っている。  仔竜が甘えているにちがいない、寝ぼけた頭で俺はそう思う。みなしごになった地竜の仔を育てるといったとき、父は「すぐにおまえよりでかくなるぞ」と警告した。その通りだった。一年で仔竜はチビの俺の身長を越えたが、それでも俺と一緒に寝ようとした。  竜が人間の横で眠ってしまうときの問題は一に体重、二に鉤爪だ。でも竜は人間がその外見から推測するよりはるかに頭がいい。とくに仔竜はすばやく学習する。俺はひっかかれはしなかった。そのかわり寝具はすぐにぼろぼろになった。 「シーツをひっかくなよ」眼をつぶったまま俺はぼやいた。「繕うのだって大変なんだ。みんなに文句もいわれるし。何枚破ったら――」 「誰が何を破ったって?」  真上で誰かがそういった。  俺はぎょっとして眼をひらく。アーロンの顔がすぐ近くに、息があたるくらい近くにある。裸の胸が俺の上に重なり、鼓動をうつ。 「アーロン――か。竜じゃない……」 「竜?」アーロンの眼が細くなる。 「悪い、寝ぼけてた。むかし俺と寝ていた竜かと思った」 「何だって?」 「子供のころ俺が育てた竜だよ」 「そうか、竜……」  小さなランプの黄色い光でも、アーロンのまなじりがかすかに緩んだのがわかった。 「それよりおまえ、降りろ。勘違いしたのはおまえのせいだぞ」 「先に寝るからだ」 「眠かったんだよ。こんな時間まで何やってた」 「図書館の自習室だ」 「ガリ勉すぎるぞ」 「エシュ」アーロンは俺の文句を完全に無視した。「おまえはまだ寝ない」  なんだその――一方的な、偉そうないいぐさは。でもアーロンの指に顎をなぞられるのはいつだって気持ちがいい。俺の頭の中をよぎる面倒なことすべてを忘れそうになるくらい気持ちがいいので、俺は上に乗った男が伸ばす手を受け入れ、あっさり両足をひらく。腰をもちあげられて中をえぐられ、揺すられると、快感とは別の感情が俺の中を満たす。ゆるしを受けたような、癒されたような気分。俺はここに居ていいのだと――そんな気がして……    *  射精の開放感をともなう目覚めは最高で最悪だった。高官用の宿舎のベッドで、俺はひとり。  もちろんだ。  俺は軍大学時代のつまらない夢をみてしまった自分自身に腹を立てながら起き上がる。隣室の物音に聞き耳を立てている自分に気がついてますます腹が立った。わざと声をあげて伸びをすると手早く着替えて浴室へ行った。日課にしている朝の柔軟を一セットすませ、顔を洗って出たとき、横で扉がカチャっと音を立てた。アーロンの短く刈った髪がひたいの上でひと房だけぴょんとはねている。 「よう、アーロン」 「ああ」  こいつもほがらかな起床ではなかったらしい。不機嫌そうに、文句でもあるかのように俺をみて、浴室へ消えた。  ありがたいことに戻りは別行動である。俺は灰色竜の〈地図〉をみやげにツェットを飛ばした。竜もいまひとつ気分がのっていないのは俺の不機嫌が伝染したのかと思ったが、こいつときたら飛び立つときに未練たらしくうしろをふりむいている。アーロンの竜と一緒に戻れないのが残念なのだ。まったく、竜は乗り手のことなんか考えもしないのだ。  おかげでツェットの飛行は模範生のように面白くなかったが、それでも午前中のうちに俺は基地に戻った。昨日のうちにまとめた短信はすでに作戦本部へ送っていたし、俺はイヒカにも別の報告を投げていたから、ツェットを厩舎に見送る暇もなくシュウにつかまることになった。 「僕の予想大当たり?」 「かどうかはわからんが、新種はいた」  俺は指輪をひねって〈地図〉を取り出す。透明の媒体(メディウム)の中心で灰色の棘が凍りついている。 「すぐに分析にかけるか?」 「もちろん」  俺は単に地図を渡そうとしただけだ。なのにシュウは何か勘づいたらしい。怪訝な眼つきで俺をみた。 「エシュ、どうしたのさ」 「何も?」 「どうかな。この竜の手ごたえは?」 「でかいやつだ」俺は簡単に答えた。「地図化したときは死にかけていた。閉じこめられていた瓶の中に向けて撃った」  シュウは〈地図〉を受け取りながら眉を上げる。 「それはまた……合理的だな。らしくない感じだけど」 「地図化が優先だ。アーロンの判断だ」 「ふうん。さすがだね」  シュウは透明な媒体を自分の眼にかざした。 「こいつらが実体化されるときがあったとして、個体レベルで地図化の経験を記憶していたら、どうなるだろうね」  ふだんなら聞き流すような言葉が急に気になった。俺は反射的にたずねていた。 「そんなことがあると思うか?」 「何が?」  シュウは手のひらで〈地図〉を回転させる。けっして汚れず濁らない媒体の中で灰色の棘が俺を刺すようにみる。 「今いっただろう。実体化――いや、記憶の話も」 「前者はもちろんあるかもしれないさ」シュウは〈地図〉の中心をのぞきこみながら答えた。 「皇帝陛下の変異竜コレクションへの執着はいろんなジャーナルに載ってるしね。変異竜だけを使う軍団を作りたいんじゃないかって噂もあるくらいだ。あとの方はただの冗談だよ。地図化されたときの記憶なんてもちろん残らない。〈地図〉に個体の記憶なんて存在しないんだ。|精髄《エッセンス》はそんなものじゃない。よく知ってるくせに」 「――まあな」俺は肩をすくめた。「たまに変な気分になるんだ」 「昨夜はどうだったんだ? 歓待された?」 「高官用宿舎だった」  シュウは口笛を吹いた。「そりゃ豪勢だな。団長の宿舎みたいな?」 「もっと広かった」 「役得じゃないか。あ、聞いてると思うけど、団長が待ってるよ。それに帝都から団長をたずねて、使者が来てる」 「使者だって?」 「作戦室に用があった僕はね、一瞬だけちらっとみたんだ。凄い美形だった」 「美形?」俺は笑いそうになる。美形なんて言葉、シュウの口から出るのを聞いたことがない。 「好みだったのか?」 「まさかまさか。僕はむりだよ、あんな貴族出身の行政官なんて、おっかなくて。ああいうのこそ高嶺の花っていうのかな」  帝都の使者とはつまり皇帝の使者だ。経験に関係なく皇帝の裁量で選ばれるから、年齢はさまざま、選ばれた時点で皇宮庁の行政官の中でもかなり高い地位につく連中だ。おしなべて美形なのは偶然ではない。皇帝の使者は顔良くなければならないのは周知の事実だ。  それにしても、なぜイヒカに使者が?  使者は帝都から離れた場所にいる者に遣わされ、皇帝からのメッセージを渡す。メッセージの内容は皇帝とその相手以外には秘密だ――それは警告かもしれないし寵愛かもしれない。  ともあれ何の用だろうと、使者が誰を訪れたかは周囲に知れ渡る。通信機や文書ではなくわざわざ人を、それも飛びぬけて目立つ者を遣わすことには儀式めいた意味がある。 〈黒〉の団長に皇帝がわざわざ使者をよこすとはどういうことだろう。  この基地にいる全員が違和感をおぼえたにちがいなかった。一般の帝国臣民は存在も知らないが〈黒〉は皇帝の直属部隊である。〈灰〉と〈黒〉は帝国の影の組織だ。メッセージの内容が何であろうと、影に使者のような華やかな存在は縁がない。  とはいえ〈黒〉に関することならイヒカが何らかのかたちで俺に伝えるだろう。内心をはぐらかしてばかりで秘密の多い人だが、俺は彼の判断を最終的には信頼している。作戦室へ向かいながら、俺もシュウのいう「凄い美形」をおがめるかもしれないと呑気に予想できたのはそのせいだった。  イヒカへの使者でなければもっと呑気な気分だっただろう。やたらと人とすれちがうのも、珍獣の見物気取りで使者を探している連中がいるからか。辺境を転々とする軍人は似たような人間としか接触しない。みやげ話のネタを作る機会は逃したくないものである。  ところが俺の予想は俺が思ってもみない風に――おまけにあまりうれしくない方向で――当たった。作戦室の手前まできたとき、くだんの「凄い美形」がイヒカに対面しているところへ出くわしたのだ。使者は遠目にも輝いていた。濃緑や灰色といった陰気な色の中に純白のフロックコートが立っているのである。このまま進むべきか隅に隠れてふたりをうかがうか迷う暇もなく、イヒカが俺に手を振った。 「エシュ。お帰り」  イヒカの手が動くと同時に使者が俺をみる。  一瞬で、なるほど凄い美形だと俺の頭の一部はシュウの意見に賛同し、別の一部はいくつかの事柄と格闘していた。だいたい次のようなことだ。士官学校の後輩が使者に任じられていたのは知らなかったとか、十年で美少年がこんな凄みのある美形に育つのかとか、皇帝が彼をここへよこしたのはアーロンがいるからか、とか。 「もうここらでは噂になっているから、聞いただろう。エシュ、光栄にも皇帝陛下の使者がいらした。セラン・ジリアン・ラングニュール殿だ」 「殿はおやめください、閣下」  イヒカは人の悪い笑顔を浮かべている。セランは俺が知っている頃より背がのびたらしく、目線は俺よりすこし高かった。十七歳の美少年は完璧な美青年に成長し、声も大人の落ちついたものだった。何もかかわりがなければ純粋に眼の保養として楽しめそうだった。 「彼は副官のエシュだ。あなたは帝都の士官学校出身だと聞いているが、彼もだよ」 「エシュ殿は――」セランの眼がちらちらと俺のうえを泳いだ。「一学年上の先輩です」  完璧に礼儀正しく会釈してきたから、俺もあまり完璧でない礼を返した。眼をあげた一瞬に出会ったセランの視線は凍るように冷たかった。士官学校時代とまったく変わらないので俺は笑い出しそうになる。凄みのある美形にこれをやられるとイチコロだから、お手柔らかに願いたかった。  十年前とちがうのは、俺はもうアーロンとまったく関係がないし、彼とつきあっているのはセランの方だということだ。ジャーナルの社交欄が真実を書いているならば、だが。 「そうかそうか」だがイヒカは嬉しそうにいった。 「つもる話があるならくつろいでいくといい。私はもう終わったからね」  本当は鋭いくせにこの男は鈍感なふりをする。俺とセランが仲良しこよしできないのは雰囲気で察しているだろうに、まったく人が悪い。セランはどうだか知らないが、単なる悪趣味なら俺がつきあう必要はなかった。もっともイヒカの行動には隠れた意味がある場合も多く、今も何らかの意図があるのかもしれなかった。  とはいえセランの表情は硬い。それもひさしぶりに出くわした困惑なんてものではなく、明らかに敵意が勝っていた。くつろぐもへったくれもないだろう。 「団長。俺は昨日の出動について報告へ来ただけですから、また」 「私は終わったといっただろう。それに――おお、いいところで揃った」  イヒカの眼が俺を通り過ぎ、こっちへやってくる人影にとまる。相好がさらに崩れた。 「エシュの後輩ということは黄金のアーロンにとってもそうだろう?」  いいところ? まさか、最悪じゃないか。しかしセランは――  俺はつかつかとこちらへ歩いてくるアーロンからセランに視線をうつした。こわばっていた凄い美形の表情が信号が変わるように明るくなって――で、アーロンが近づくにつれてまた硬く、暗くなった。俺はながいまつ毛が妙にせつない感じでまたたくのをうっかりみてしまい、違和感をおぼえた。  いや、公務だから感情を表に出さないようにしているのだろう。士官学校時代のセランはそんなことはなく、単刀直入に気持ちや考えを出すタイプだった。しかし十年という時間はそこそこ長い。 「アーロン。皇帝陛下からの使者としてセラン殿が来られてね」 「ええ」  アーロンは知っていたはずだ。何しろ昨夜もその前もセランと連絡をとっている。  それにしてもアーロンまで作戦室の前で立ち止まった日には、こいつらいったいここで何をしているのか、といった雰囲気になる。関係ない連中がちらちらとこちらをうかがうのを感じて俺はますますいたたまれなくなる。 「団長。俺は行きます」 「まさか。アーロンが戻ったならふたりまとめて今回の出動について話が聞ける。だがその前にセラン殿もまじえてモカを飲もう、そこで」  おい、このくそ上官。  軍人にあるまじきことを俺は思ったが、体はおとなしく従った。 「わかりました」

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