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【第1部 竜の爪を磨く】14.動けない鳥
帝国軍人はモカに侵されている。アルコールはなくてもなんとかなるが、モカがないとやっていけない。モカは眠気をさまし、一時的に集中力を与える。個人差はあるものの、軽い中毒性をもっている。
どんな判断が働いているのか、士官学校の食堂にモカが登場したことはない。俺がこれをさんざん飲むようになったのは〈黒〉へ配属されてからだ。味も効果も見た目もコーヒーによく似たこの飲み物は、時たま俺の意識に妙な作用をおよぼす。
「エシュは一年上の学年だといったね? アーロンも」
「はい」
モカのカウンターが置かれた穴ぐらを進みながらイヒカがいう。穴ぐらの突きあたりにいた〈紅〉の先客が居心地悪そうな表情で立ったが、イヒカのあとにつづくセランに気づくと眼をみひらいた。印象的な美貌がひきおこす明白な効果だ。これで基地にいる紅の部隊にまで噂が広がるだろう。
穴ぐらの奥はカウンター沿いの通路よりすこし広かった。さっきまで紅の士官が座っていた椅子をイヒカは陣取って、俺にモカを取りにいかせる。セランはモカにミルクをたっぷり入れた。砂糖抜きだ。アーロンと好みが同じなのか、それとも好みが近づいたのか。
イヒカへカップを渡しながら俺は余計なことを考えまいとした。セランの好みに気を回すのも余計だし、皇帝がなぜイヒカに使者をよこしたのかも、何を伝えてきたのかも、考えてもあまり意味はない。皇帝の意向がイヒカにとって(あるいは〈黒〉にとって)良いことか悪いことかも、今のイヒカからはうかがい知れない。
「私は軍人の道へ進みませんでしたが、士官学校卒業生であること、優秀な先輩方にお会いできたことは生涯の誇りです」
セランはイヒカの問いに堅苦しく答える。優秀な先輩方か。俺は吹き出しそうになるのをこらえた。意味しているのはアーロンだけで俺は入っていないはずだ。
「士官学校から行政官へ進むのは珍しいね」
「実家は行政官の家系ですから、むしろこちらが正解なのです。予備学校から士官学校へ進んだのはアーロン殿が在籍されていたからです」
「どうして軍大学へ進まなかったんだい?」
「それは……」ほんのすこし間があいた。言葉を選んでいるのか、答えを迷っているのか。
「私の適性は行政官にあると悟ったからです。それに士官学校ではいずれ帝国軍の幹部となる先輩や同輩に知己を得られました。無駄にはなりません」
「そうだろう。学生時代の関係は貴重なものだ。他にはないからね。〈黄金〉のアーロン」
セランの横に大人しく立っていたアーロンが眉をあげる。
「イヒカ殿。ご存知の通り、我々はのんびりしているわけにもいかないのですが」
「モカを飲むあいだくらい待ちたまえ。私のエシュはよく働いただろう。セラン殿もその若さで使者に取り立てられているし、この世代は逸材ぞろいだ。たしかアーロン殿もエシュと同様、城壁事件で活躍しただろう」
「城壁事件? というと七年前の?」セランが驚いた顔をした。
「私は初耳ですが……」
「ふたりとも学生だったからね。名前を出さないよう報道が配慮した。だが、私がエシュをスカウトしたのはあれがきっかけだ。私の予想では〈黄金〉も同じだろう。ちがうかね?」
アーロンはかすかに顔をしかめた。
〈城壁〉は帝都の外濠を囲む壁構造都市である。リング状の土地に建てられた高い構造物が指輪のようにぐるりと帝都を囲んでいる。帝都にいちばん近い砦でもあり、最新の〈法〉が研究されている学術都市でもあった。軍大学の四年目、俺とアーロンは四ヶ月のサバティカル休暇をそこで過ごした。
「城壁事件についてはもちろん知っています」セランは急に興味をもったようだ。「研究機関に潜伏していた反帝国のシンパが都市乗っ取りをはかった件ですね」
「鎮圧に派遣されたのは我々〈黒〉さ。勅命で駆けつけたが、すでにこのエシュとアーロン殿がいろいろとやらかしてくれていた」
「まさか」
俺とアーロンの声がかぶった。顔をあげると眼があった。俺はアーロンに顎を向ける。
おまえが話せ。
「私は混乱をまとめただけです」アーロンは何でもない口ぶりでいった。
「ただ、私はあのとき、イヒカ殿には一度ご挨拶しただけと記憶しています。ご無礼をお許しください。〈黒〉が鎮圧に出たと正式に知ったのは〈黄金〉へ配属されてからです」
「準軍属ではあっても、エシュもきみも学生だ。私にしてみれば、肝心なところを先に越されてあっけにとられたものだが……」イヒカはゆったりした動作でカップをもちあげる。「今では神のめぐりあわせに感謝しているよ。エシュは変わった男だが、私の〈黒〉には不可欠な存在だ。〈黄金〉にとってアーロン殿がそうであるように」
この会話はいったいどこへ行きつくんだろう。イヒカには皇帝の使者であるセランを観察する意図でもあるのだろうか。俺は上官の目的を怪しみながらも「変わった男」という言葉を以前もどこかで聞いたような気がして眉をひそめた。どこだっただろう?
変わったやつ。とぼけてる変人。頭はいいがとらえどころがない――頭の中でいくつかの言葉がくるくるまわった。とたんに俺は気づいた。
これはいまの俺の記憶じゃない。別の世界で生きていた俺が聞いた言葉なのだ。
(中井 諒 さん。趣味は散歩というのは?)
(大学の専攻では古代の道の調査をしていました。だから知らない道を歩いて調べるのが好きなんです)
なかい りょう だって?
突然頭をつかんで持ち上げられるような感覚が襲ってきた。たぶんモカのせいだ。そうにきまってる。俺はテーブルに手をつく。「エシュ?」と呼ぶ声が聞こえる。俺は顔をあげたが、すぐ前にあるイヒカの顔が、スクリーンが切り替わるようにべつの誰かに変わっていく。
俺は息をのみ、叫ぼうとしたが、喉がひきつれたようになって声は出なかった。イヒカの顔は、俺がたしかに知っている、でもこの世界では絶対に一度も会ったことのない誰かの顔に変化した。
黒い短い髪、切れ長の細い眼の眸は黒く、ひたいはひろく、鼻筋がすっと通っている。ひらいた口が苦々しくゆがむ――と、一気に言葉が流れ出た。
(僕はもう行かない。僕は無理だ。限界だよ。諒とはもう――続けられない。何度も頼んだし、理由も説明したはずだ。僕は全世界にカミングアウトしてくれなんていってない。僕の親や昔の知り合いに諒を知っていてほしいだけなんだ。どうしてその程度のことがありえないんだ。いったい、僕らはなんなんだ。誰も僕らの関係を知らない。同級生でも同じ職場でもないし、年齢もちがう。同じ家で暮らしているわけでもない。僕らが会ってるのを知ってる人間がどこにいる? もし諒に何かが起きて僕へ連絡がとれなくなっても、僕には何もわからないんだぞ? それでいいのか? 諒にとって僕はその程度なのか?)
「――エシュ! エシュ!」
陶器が床に落ちて派手な音を立てた。茶色の液体がブーツの下に広がる。俺は両手をテーブルについたままだ。前にあるのはイヒカの顔で、金髪にふちどられた白い顔は何かを案じるようにゆがんでいる。
「申し訳ありません、団長。めまいがして」
「めまいだと?」
あきれたような声だが、責められていないのはわかった。俺はかがんでカップを拾った。音は派手でも割れてはいない。それにこの音のおかげでさっきの夢――あるいは記憶――を振り払うことができたのだ。
「人を呼んで床を拭かせましょう」アーロンがいった。「報告の前に我々は休憩した方が良さそうです。セランも準備が出来次第、帝都に戻りますから」
セランも立ち上がって一礼した。彼の隣にいたら使者の白い服が汚れていたかもしれないと、らちもないことを俺は思った。
「そんなにすぐ戻るのか」イヒカは気のない声でいう。「アーロン殿はセラン殿と昵懇の仲のようだから、ゆっくりしていくのかと思ったよ」
「私は使者ですから、そうはまいりません」
アーロンとセランが出ていくのと入れ違いに清掃員があらわれ、俺が汚した床を片づけはじめた。しかしイヒカは立ち上がろうとせず、俺をしげしげとみている。
「大丈夫ですから、そんな風に見ないでください」
たまらず俺がいうと「そうかね」といって、そのくせ視線はそらさない。
「黄金のアーロンとふたりきりで、何かあったかね?」
はあ? 俺は上官を見返した。
「何もありません。変なことをいわないでください」
「私は簡単にへこたれるような人間を副官にはしないんだ。私が副官にしたのは、正規の軍人でもないくせに、城壁で蜂起した連中を罠にかけて仕留めた男だよ。何かあっただろう」
「個人的なことは何も」
「それ以外では?」
「任務をこなしただけです。変異竜の〈地図〉はシュウへ回しました」
「大捕り物だったか?」
まさか。捕り物というほどのものでもなかった。
話すとまたあの竜の声を思い出してしまいそうだった。そうしたら今度こそ、本当に気分が悪くなるだろう。
「短信を読んだでしょう。どれだけ巨大な竜でも地中で死にかけていればどうってことはない」
そっけなく答えるとイヒカは急に納得したような眼つきになった。
「そうか。〈嘆き〉を聞いたんだな」
「嘆き?」
「なんでもない」
イヒカは顔の前で手をふり、にやりと笑った。もういつもの団長の顔だった。
この世界で上官がイヒカなのは幸運なことだと、俺はつねづね思っている。得体のしれないところはあり、人の悪い冗談も好むが、最終的には信頼に足る上司だ。
帝国軍人になった以上、上官は選べないし命令も拒否できない。選べない、拒否できないからといって不幸になるとは限らないが、上官の質が人生を左右するのはよくあることだ。イヒカは俺にとっては良い上司だった。
前に生きていた時はそうとも限らなかった。イヒカと同じように「変わった男」と俺を呼んだ上司がいたのだ。彼にはいろいろ悩まされた。それともいま考え直すと、彼の方が俺に悩んでいたのかもしれない。
「変わっている」とはその上司に限らず、時々いわれたものだ。大学生のころも俺はとぼけた変人と同級生に思われていた。俺はけっして、自分から前に出ていく主人公タイプではなかったし、控えめだろうが積極的だろうが、世の中に目的をもって献身するタイプでもなかった。何かの面接で趣味と答えた散歩――あるいは道を歩くことへの執着は、そのうち『赤と黒』という位置情報ゲームへの情熱にとってかわった。
他の人と「変わっている」要素なら他にもあった。前世の俺は気がついたときはゲイだったからだ。田舎から都会へ出た俺の「大学デビュー」が他の同級生とちがっていたのも仕方がない。そっち系の情報を探しては勉強しまくるのが俺の大学デビューになった。でも|透《トオル》と出会ったのはその手の店ではなかった。
彼と知りあったのはゲーム『赤と黒』のイベント会場で、どちらもお互いが何なのか知らなかった。透は俺より年上の会社員で、年に一度LGBTのパレードにひっそりと参加し、選挙で欠かさず投票するような男だった。
三年強、俺たちはほぼ固定した関係を続けていた。ほぼ、というのは、喧嘩して会わない時期が時々あったからだ。透はゲームのパートナーとしては最高だったが、俺とは考えがあわなかった。俺はすでに実家や家族をもつことを完全にあきらめていて、自分のやりたいことだけを好きにやって生きていけばそれでいいと考えていたが、透はちがった。
透は何度か、俺を傲慢だといった。ひとりで好きに生きられるなんて考えは、ただの思いあがりだとも。
だから俺と透は火山が爆発するように突発的な喧嘩をして、三回別れて、二回よりをもどした。三回目はよりをもどせなかった。透は俺の知らないうちに亡くなっていたからだ。
透の家族は俺のことを知らなかった。死者が夢枕に立つこともなかった。
どうして今になって思い出したのだろう。
前世の記憶などこの世界ではいらぬものだ。イヒカの顔が透の顔に変化したとき、頭から虚空へ吸いこまれてしまうような感覚があった。思い出すだけでも背筋が寒くなる。イヒカが呼ばなければ俺はどうなっていただろう。
自分が誰なのか、思い出せただろうか。
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