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【第1部 竜の爪を磨く】15.曇りなき信念

 休憩した上に食堂で軽く飯も食ったのに、作戦室でミーティングがはじまっても俺の調子は悪かった。  うわべは取り繕えたと思いたい。推測に基づいた調査が成功し、新しい〈地図〉も帝国の所有となったのだから、俺もアーロンのように堂々と立っていればいいだけのことだ。  それなのに俺の気力は萎えていた。淡々と変異体を発見、地図化したいきさつを説明するまではどうにかなった。アーロンが後始末と残骸の調査について話した。  シュウは変異体の存在を予言したことになるが、鼻高々というわけでもない。俺が持ち帰った〈地図〉の〈精髄(エッセンス)〉を解析する作業にはすでに着手しているという。ミーティングでは灰色竜が閉じこめられていた特大の瓶に興味を集中させていた。 「城壁都市でしか使われていない特殊なモデルだ」  そういって投影された瓶のイメージを回転させ、拡大する。底に刻まれていたマークがはっきり見える。 「さすがに自家製じゃない。製造元の刻印もある。このサイズは特注です。納品時の記録が製造元にあるはず」 「抹消されていなければ、だな」イヒカが穏やかに補足した。 「うまくいけば城壁都市に浸透した虹の尻尾もつかめるかもしれない。作戦の第三段階がはじまる前に役に立つ情報が出るとありがたい。至急調べてくれ」 「了解しました」  瓶の拡大像がもう一度くるりとまわり、宙に消える。その向こうに立って話をはじめたアーロンに注意を集中しようとしても、俺の心はふわりと浮き、雲が散るように流れていこうとする。記憶をたしかめるようにさまよう意識のなか、ふいに灰色竜の眼だけが虚空に浮き、ぎょろりと動いて俺をにらむ。あわててまばたきすると像は消え、アーロンのよく通る声がやっと頭に入ってきた。 「第三段階の展開地区は野生竜の生息域と接している。周知の事実だが、反帝国は野生竜を地図化せずに戦闘に利用する。多くは禁じられた竜石による〈異法〉を使う。それだけでなく」  はじめて聞くことでもないのにアーロンの言葉は棘のようにちくちく俺を刺した。そう、竜石があれば地図化しなくても〈法〉によって竜を従わせられる。帝国はこれを〈異法〉と呼び、公式には認めていなかった。  竜の腹の中で変性した石は〈法〉の道具になるだけでなく、石そのものの美しさのために古来から高値で取引されている。かつて人間は石を得るために竜を狩り、その腹を裂いた。このため絶滅に追いやられた竜種もある。今では竜石のために竜を狩ることは禁じられているし、竜石を使う〈法〉も残酷で禁忌に触れるものと説明されている。  だが辺境民のすべてが竜石を使うわけではなく、竜石を手に入れる方法も、竜を殺して腹を裂くだけではなかった。これについては辺境育ちのあいだでもごく一部に知られているだけだろう。俺にしたところで、父がいなければ―― 「反帝国が既存の〈地図〉から変異体を生み出す時、野生竜の〈精髄(エッセンス)〉を混合している疑いもある。系統が確立されていない竜に遭遇した場合、可能なかぎり地図化することが反帝国を追いつめる鍵だ」アーロンは俺のいる方向に視線を投げた。「作戦中に遭遇した野生竜の個体は地図化して帝都に持ち帰る。〈黒〉の地図師にとりわけ活躍してもらうことになる」  待て。  俺は顔をしかめた。遭遇した野生竜? その中には反帝国に使役されていない竜も当然いる。地図化されない竜の行動範囲は飛翔竜だろうが地竜だろうが、とてつもなく広い。 「待ちたまえ」俺の心を読んだかのようにイヒカが口をはさんだ。「地図化されない野生竜は我々がまだ把握しきれていない生態系の相互作用連鎖の中心にいるはずだ。仮に反帝国が使っていたとしても、安易な地図化が妥当だとは思えないが」  急に作戦室が静かになった――あるいは、そんな気がした。腕を組みなおしたイヒカを〈紅〉と〈萌黄〉の部隊長が注視し、ついでアーロンへ顔を向けた。俺も彼をみた。  アーロンにたじろいだ様子はなかった。 「イヒカ殿。あらゆる竜の〈地図〉を帝国の所有とするのは、現皇帝が長年望んでおられることでもあります。反帝国の領域へ迷いこんだ野生竜を我々が放置して、結果的に帝国へ害をなす原因となるなら、やはり地図化しなければならない」 「アーロン殿は慎重という美徳とは無縁なようだな」  皮肉っぽい口調に数人が眼を見かわす。俺は顔をしかめそうになるのをこらえた。しかしアーロンはわずかに肩を揺すっただけだ。 「我々の〈法〉は慎重さも与えてくれています。いまは〈法〉以前の時代ではなく、我々は世界を破壊しているわけでもない。地図化は絶滅させることではない。むしろ反対だ。我々は彼らを彼らのまま保存しているのですから」 「曇りのない信念とは良いものだ。では我々はに力を尽くすとしよう」  イヒカは唇の端をあげる。笑顔には到底みえない表情で、俺はかすかな不安をおぼえる。〈黒〉は規格外の部隊とはいえ、上官の皮肉は反帝国すれすれだった。次の作戦はきつくなりそうだ。  六年間〈黒〉にいて、こんな気分になったのは初めてかもしれない。 「調子が悪いか、エシュ」  作戦室を出ながらイヒカがいった。 「いいえ」  即座に答えたものの、俺はイヒカの鋭さにひやりとする。じっさいは作戦室を出る前から自分が透明な膜で包まれたような感覚に襲われていたのだ。子供のころからときたま起きる発作のようなもので、世界から現実味が失われて、自分があやつり人形になったような、おかしな気分になっていた。  この感覚をてっとりばやく解消する方法はひとつあるが、イヒカには知られたくない。そんな俺にイヒカはじろりと流し目をくれる。 「そうかね? 落ちつかないようにみえるが」 「ツェットの様子を見に行きます」 「また竜か」イヒカは呆れたようにうすく笑った。「まあ、いい。今晩はゆっくり休みなさい」  上官があっさり離れたので俺は内心ほっとした。このままイヒカにつかまっていると、自分で望みもしないことをやらかしてしまいそうだった。十代じゃあるまいし、大人、しかも軍人になって、馬鹿な衝動に負けたくはない。  俺は厩舎へ歩いて行った。思い返すと今日はろくに何もしていない一日だった。こっちの基地に戻ってきて、十年ぶりにセランと対面して、さっきのミーティングで終了だ。本来ならくたびれるような一日でもない。だからこそこんなに落ちつかないのかもしれない。  ツェットはイヒカから離れるための口実だったが、どのみち方向は同じだった。結局はアルヴァを探すついでにツェットの様子もみることになる。  俺の竜は以前の囲いにいなかった。ぐるりと厩舎を回っていくと思いがけない方向からツェットの鳴き声が俺を呼んだ。鳥のさえずりのような上機嫌な響きだ。  どうしたんだとふりむくと、あの馬鹿はアーロンの竜、エスクーの横の囲いに入っていた。止まり木の端からアーロンの竜を見下ろし、馴れ馴れしくさえずっている。アーロンの竜は止まり木が嫌いなのか、床の上にどっかり座ってツェットを見上げていた。俺は苛々しながら柵に近づこうとした。 「エシュ」  いきなり背後から声をかけられる。勢いよくふりむくと、俺が探していた当人、アルヴァがいた。 「誰だよ。あそこに入れたのは」  俺は反射的に文句をいった。「なんだってエスクーの横に」  アルヴァは怪訝な顔をした。 「〈萌黄〉の竜をかためろって要請が来たから部隊ごとに分けたんだ。あんたのところは〈黄金〉と一緒だっていうし」  次の作戦に備えてだろうか。たしかにツェットの隣にはシュウの竜がいて、近くの囲いにいるのは〈黒〉の竜ばかりだ。ツェットがエスクーと並んだのは偶然か。俺は舌打ちをした。 「この馬鹿、俺に気づかないふりをしやがって」  アルヴァが笑った。 「黄金の竜に嫉妬するなよ」 「そんなんじゃない」俺は唸った。 「エスクーに馴れ馴れしくするなっていってるんだ。まったく……」 「なんで? あの竜とあんたのが仲良くするとまずいことでもあるのか?」  アルヴァはそういったが、俺の答えを待っているわけでもなく、リラックスした様子で首を回した。ぽきっと小さく骨が鳴った。作業着は汚れたままだ。いつものことだが厩舎にはひと気がほとんどない。竜の翼が擦れる音や、喉の奥で鳴らす声が響くだけ。 「エシュ、竜の様子を見に来たのか?」 「いや」  俺はこっちを見ずにさえずっているツェットに向けて指を立てる。竜の視界は広い上に、俺の匂いや音にも当然気づいている。なのにまだ知らんふりというのは、今朝の単独飛行がよほど気に入らなかったのか。アルヴァがまた笑った。 「いいだろ、仲良くさせとけ。竜に用がないなら、あんた、何に用がある?」  答えを予期している口調だ。俺はツェットに向けた手をおろし、アルヴァの背中を叩く。 「仕事は終わりか? それならつきあえよ」 「だったらあんたがついてきな。これから着替えるんだ」厩舎の男は竜の匂いがした。「そういえば何日か前にいいものをもらったところだ」 「いいもの?」 「すぐに教えてやる」  兵舎とちがって厩舎のシャワー室は狭かった。俺たちのほかには誰もいない。アルヴァは作業着を無造作に脱いで洗濯籠へほうりこむ。 「エシュ、脱がないのか?」 「上が開けっ放しだぞ」俺は天井を指さした。「いいのか?」 「竜にしか聞こえないさ」アルヴァは俺の腕を引き、上着の襟に手をかけた。 「脱げよ」  機械がボンっと作動する音と水がタイルの床を叩く音が狭い空間をいっぱいにする。アルヴァは裸になった俺の手を引いてシャワーの下へ押しこんだ。たちまち頭からずぶ濡れになり、俺は思わず笑い出す。アルヴァと石鹸水のボトルを奪いあい、髪と体に泡を塗る。さすがにここにあるものは人間用で、竜の装具を洗うものではない。背中にアルヴァの体温が重なってくる。俺よりひとまわり大きいから、腰から首まで背中を覆われたような感触がある。滑る液体ごしに皮膚を擦られて息があがった。 「まて、オブラ――」 「ああ」  アルヴァの髪から水が滴って俺の首筋に落ちた。 「入れてやる」  自分でやると答えるつもりだったのに、口に人差し指をつっこまれた。アルヴァは俺に片手の指をしゃぶらせながらもう片手を腰にまわし、俺の尻を広げてオブラを押しこんだ。 「あっ……」 「ぬくいだろ」 「アルヴァ――これって……」  尻の奥へたちまち広がった感覚に驚いて、俺はしゃぶっていた指を吐き出した。アルヴァはけろっとした顔だ。 「萌黄の連中のあいだで流行ってるらしい」  温かいシャワーでぬくもった体の奥に別の種類の熱が伝わる。オブラはこれひとつで浣腸と潤滑をやってのける便利な薬剤で、異性間なら避妊にも使えるが、他の効果のおまけをつけたバリエーションもある。今アルヴァが俺につっこんだような―― 「どうだ?」 「アルヴァ――この馬鹿」俺はうめいた。「俺はこの手のやつ……効きすぎるんだよ」  上から降ってくるぬるま湯が石鹸の泡を流していく。その感触だけで腰の奥から背中、足先まで熱くなり、心地よいというよりむずむずした感触で全身が震えた。足元がフラッと揺れたとき、アルヴァの両腕に背後から抱えこまれた。太い指に胸を弄られて声があがりそうになる。 「イイんだろ? エシュ」  いつのまにか俺は濡れた壁に両手をついていた。アルヴァは俺の腰を抱え、大きく膨らんだ自身を押しつけてくる。指が俺の前をかすめては離れ、尻の奥がうずいた。俺はもどかしさに腰をゆする。 「焦らすな」  声をもらしたとたんに腰を引き寄せられ、アルヴァが俺の中に入ってくる。きついのは最初だけ――それもオブラのおかげでたいしたことはない。アルヴァの息が俺の首にかかり、中を擦られ、揺すられる。ふいに大きな快感の波が到来し、俺のまわりを包んでいた透明な膜が破れる。アルヴァは腰を打ちつけながら前に回した手で俺自身をしごき、俺はたちまち持っていかれて、彼の手の中に射精した。  短い情交の痕跡はシャワーの湯がたちまち流していく。すでにふたりとも服を着たのに俺の体はまだむずむずしている。落ちつかないし、皮膚のほてりがとれないのは特殊効果つきのオブラのせいか。 「エシュ、このあとは?」  アルヴァはシャワー室の扉をばたんと閉め、湿気を追い出した。 「飯のあと寝る。それだけだ」 「ベッドで続きをするのは?」アルヴァは俺の背中を通路の方へ押しやった。 「物足りないんだろ。エシュ」 「なんでわかる」 「発情期の竜とおなじ眼つきだからさ。俺の部屋に来るか?」  もうアルヴァから竜の匂いはしない。横に立っていても清潔な服の乾いた匂いを感じるだけだ。厩舎の外にある彼の宿舎に誘われたのは初めてだった。 「いいのか?」 「あんたの兵舎よりましだろ」 「そりゃそうだ」  断る理由はなかった。アルヴァの宿舎は基地の隅にある。朝までに戻ればどうにかなるだろうと俺はあさはかな見通しを立てた。  シャワーの音が消えた厩舎はさっきよりも静かに感じた。まだツェットはエスクーにかまっているのだろうか。俺はそんなことを考えながら通路へ出て、奥へ眼をやった。長身の影がぬっとあらわれた。  俺はぎょっとしたが、何とか平静を保った。 「アーロン」 「エシュ……」  どうしてこの男はこんなところにいるんだ?  アーロンは俺とアルヴァに交互に視線を走らせたが、アルヴァには目礼もしなかった。濡れた髪が首筋にあたり、俺は居心地が悪くなる。いったいいつからここにいたのか。 「話がある」アーロンは無表情でいった。 「話がある?」  俺はおうむがえしにたずねた。驚いたせいか声がうわずって、かすれたような響きになる。すぐ横でアルヴァがみじろいだと思うと俺に向かってあいさつ代わりに片手をあげた。大股に歩いてアーロンの前を通り過ぎ、厩舎の奥へ消えてしまう。関わり合いになりたくないのだろう。  気持ちはわかるが俺は内心がっかりした。同時にまた苛々した。せっかくシャワー室で一段落したってのに、なんてことだ。 「アーロン。何の話だよ」  俺の気分は顔にも口調にもあからさまだったにちがいない。アーロンは何かいいかけて、いまいましそうに首をふった。 「来てくれ。俺の部屋で話す」

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