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【第1部 竜の爪を磨く】16.熱の泡
アーロンの宿舎は作戦本部に近く、俺の兵舎とは逆方向だった。イヒカと同じ高級将官用の居室だが、続き部屋への扉はあけっぱなしだった。隣までひとりで使っているのか、通された部屋に寝台はなかった。贅沢な空間の使い方だ。
暗かったし、誰ともすれちがわなかったが、居心地が悪いのに変わりはなかった。アーロンは扉を閉めると椅子を引いたが、俺は腕を組んで壁にもたれた。イヒカの部屋と同じ構造でも、使う人間によってずいぶん印象が変わるものだ。きちんと片付いた執務机の端に写真立てが置かれている。家族の写真だろうか。セランかもしれない。
「何の話だ?」
「外では話しにくい。イヒカ殿のことだ。帝都で……」アーロンは眉間に皺をよせた。
「エシュ、飲まないか?」
今度は俺が鼻の頭に皺をよせる番だった。
「飲まないと話せないようなことか?」
アーロンは答えず、執務机の奥のキャビネットから瓶を取り出している。そういえばイヒカも同じ場所に酒を入れていた。まったく、あのキャビネットは酒専用なのか。
「根も葉もない噂にすぎないが」アーロンは瓶の栓を抜いた。「反帝国に通じているとまことしやかに話す連中がいる」
「根も葉もないなら俺にわざわざ話す必要はないだろう」俺はグラスを受け取った。「〈黒〉は軍団の影で、皇帝の意向で動く。他の軍団をひいきにするやつらは何でもいうさ。歴代の団長も陰口を叩かれたと聞くし……」
「誰一人として帝都で最期をむかえていない」アーロンは机の前に立ったまま無造作にグラスをあおる。「天寿をまっとうすることもない。〈黒〉の団長はいつも辺境で――消える」
俺は顔をしかめた。
「帝国軍人にはよくあることじゃないか。〈黒〉は実戦部隊だ。軍団長の地位は他とちがう。団長が前線へ出ることも――」
「別件で気になることがあり、参謀本部の記録を調べた。歴代〈黒〉の団長になった者は全員、辺境で行方不明になる。死亡宣告は出ていたが、報告書ひとつ残らないケースもある」
――暗殺? それとも……
俺の脳裏をいくつかの言葉がよぎったが、口には出さなかった。かわりにグラスに口をつける。酒は口当たりがよく、おかげで思い切りよく飲みすぎた。かっと体が熱くなる。体の中でさっきのオブラの残り火が燃えた。くそ。
「アーロン。何がいいたい」
「最近イヒカ殿の噂を宮廷で聞くことが多い。今日の作戦室のような発言は――自重されるべきだ。陛下の耳目はいたるところにある」
「反乱軍のような言い草だな」俺は笑った。「〈黄金〉のおまえには関係ないだろう。どうしてイヒカの心配をする? それとも俺を情報源として使うつもりか?」
「エシュ」
「〈灰〉にくらがえでもしたいのか」
〈灰〉も〈黒〉と同様、皇帝直属の影だ。しかし帝国軍人にとっては〈黒〉よりはるかに権威がある。内部調査が彼らの仕事で、大半は諜報員だ。
「ちがう」
アーロンはきっぱりといってグラスを飲み干し、もう一杯注いだ。俺もつられてグラスをあけながら、こいつはいつの間にこんな風に飲むようになったのだろうと余計なことを思った。軍大学時代のアーロンはけっしてこんな飲み方はしなかった。そして〈灰〉を持ち出してまぜっかえしたものの、彼の話はもちろん気がかりだった。
俺はイヒカの前に〈黒〉の団長を拝命した人物の名前も知らないが、調べればすぐにわかるだろう。〈黒〉は他の軍団に規格はずれの鬼子扱いをされているとはいえ、傭兵部隊でも個人の私設軍隊でもない。
たしかにイヒカにはひどく謎めいた部分があった。しかし今回は皇帝の使者も訪れているのだ。そう、使者といえば……
酒によってかきたてられた体の熱がしだいに頭にのぼってくる。いいかげん制服を脱ぎたかった。俺はどうしてこいつとここにいるんだ。
「そうだな。おまえの情報源ならすぐ近くにいる」
俺は無意識に空のグラスを上げ、アーロンが黙ってそこに酒を注いだ。
「どういう意味だ」
「使者だ。セランと交際しているって? 婚約したのか?」
とたんにアーロンが固まった。俺はあわてて斜めになったままの瓶の口を押し戻す。
「おい」
「ちがう」
この「ちがう」はセランの話か。
「ジャーナルに載ってた」
「不正確な情報だ。単なるゴシップだ。家同士でそういう話は……ないわけじゃないが」
俺は呆れて眼の前の男をじろじろみつめた。もちろん、セランに連絡していたのをたまたま俺に聞かれていたなんて知らないにきまっている。にしても、誰に何を義理立てしているんだろう。
「でも、つきあってるんだろう」
この酒は飲みやすい。オブラの名残が酔いと重なってくらくらしてくる。この分なら兵舎の俺の部屋に戻ったとたんに幸せな睡眠がやってきそうだ。
「いいじゃないか」俺の口からは勝手に言葉が飛び出してきた。「セランは昔からおまえのシンパだ。あの若さで皇帝の使者に取り立てられて、花形の行政官。おまえも軍の花形でちょうどいい。ヴォルフ殿も喜んでいるだろう。おまえらしいよ」
アーロンの眉間に皺がよった。
「俺らしい?」
「そうだとも」
「エシュ。前もいったが、イヒカ殿を」
「ああ。忠告はありがたくもらった」
「そうじゃない。あの方を裏切るな」
アーロンは俺の濡れた髪から視線をそらした。おかげで何の話をしているのかわかった。
「俺とイヒカはそんな関係じゃない。まわりが思いこんでるだけだ」
口に出したとたん、前にこの話が出た時ははっきり否定しなかったような気がした。そう、その方が都合がいいと思ったのだ。アーロンはため息をつき、俺をじろりとみた。
「おまえは配属前からあの方と知りあいだった」
「イヒカは城壁の事件で俺に眼をとめただけさ」
「それより前だ。士官学校卒業年」
軍大学ではなく、士官学校?
たちまち脳裏に仮装した連中の姿が浮かんだ。俺は舌打ちしそうになった。卒業生のどんちゃんさわぎ、かりそめの舞踏会。名前も知らなかったが、たしかにあの夜俺はイヒカと初めて会った。いまさらアーロンに指摘されるようなことじゃない。それにイヒカと俺に何かがあったとしても、あの夜が最初で最後だ。
だが――俺はふと思った。あの夜がなければ、その後の俺とアーロンにも、何も起きなかったんじゃないか? あの時イヒカがいなければ。
(彼を殺して――)
ふざけるな。理由のない怒りがのぼってきた。あのうっとうしい「神」のことなんか、何年も考える必要もなかったのだ。
アーロンは執務机に腰をあてたまま淡々と続けた。
「俺はイヒカ殿に面倒事に巻きこまれてほしくない。おまえと関係があるなら特に。イヒカ殿の隣にいるおまえにおかしな評判が立つのも心外だと思っている」
おまけにこいつは、俺の言葉など聞いてやしない。
「アーロン。俺とイヒカは……」
また否定しようと俺は口を開いたが、同じことを繰り返すのかと思うとうんざりした。勝手に思いこませていればいい、と頭の隅でささやく声が聞こえる。誤解を解きたい? 誤解されているくらいがいいだろう。それともエシュ、おまえは、別れた人間にひそかにこだわっていると当の相手に知られたいのか? 帝国臣民の純潔主義だの、貞操概念だのからもっとも遠い存在なのに。
おまえのように誰にでも足を開く者は、帝国では欠陥品も同然だ。
実際は誰にでもってわけでもないんだが――俺はグラスの酒を飲み干した。そういえば、きちんと飯を食っていない。体が熱く、ふらふらするのはそのせいだ。
「アーロン。ほっといてくれ。どうして俺にかまうんだ」
「エシュ」
「俺が何をしようと俺の勝手だろう」
「そんな風にいうのか?」アーロンは堅い声でいった。俺と同様、手の中のグラスは空になっている。「変わらないな。おまえの行動や評判はルー様やイヒカ殿に関係する。ひとりで生きているとでも?」
とたんに俺の頭の中で感情が渦を巻いた。とっくに熱くなっている体から頭の中心へ熱いものがのぼる。
「おまえこそ偉そうなことをいうな。自分がこうあるべきと思う型に、人を勝手にはめようとしやがって」
「――俺は」
「これが俺だ。文句があるなら俺の前から消えて、やすらかにくそ真面目な人生を送ってろ」
アーロンの肩が揺れた。執務机の前にまっすぐに立ち、俺をみつめた。いや、にらみつけた。怒ったのだ。俺の一部はそんなアーロンを遠くからみていた。何年も前も、こんな顔でこいつは俺をみた。
「エシュ。おまえは――」
「なんだよ」
「自分が他人に何の影響もないと思っているのか?」
「影響?」思わず苦笑いがもれた。
「俺はただの辺境民だぞ。生きるために帝国軍人になった。おまえとはちがう」
「ただの?」
アーロンの声が低くなる。
「エシュ――俺は……」
「アーロン。なんだっていうんだ」
俺はグラスを持ったまま髪をかきまわした。アーロンの視線を避けたかった。さっきから下半身が熱すぎるのだ。しくしくと――疼く。はやくひとりになってこれをどうにかしないと……そんな俺の考えはアーロンの言葉を聞いたとたんに消し飛んだ。
「全部おまえのせいだ」
「何が俺のせいだって?」
ふいに頭の芯が理不尽な怒りで燃えた。この男は俺に何を背負わせるつもりなんだ。俺はグラスをアーロンに向かって投げつけた。どこへ当たったかは見ていない。毅然として扉へ向かったからだ。少なくとも頭ではそのつもりだったが、しつこく残るオブラの効果と酒のために、まっすぐ歩けてもいなかったかもしれない。
実際はうしろから伸ばされた手を避けることもできなかった。アーロンの手が俺の肩をつかみ、ふりむかせようとした。俺はふりはらおうとして失敗し、ふりむきざまに反撃しようと膝をあげたが、不覚にもはずしてよろめいた。俺をつかんでいたアーロンもバランスを崩し、俺たちはそろって床に倒れた。いまいましくも、アーロンに押さえつけられるような格好で。
俺は反射的に眼を閉じていた。体が熱かった。アーロンの重みが俺の足と腰を動けなくさせる。顔のすぐ近くにあいつの息を感じる。腕をふってもがこうとしても力が入らない。体じゅうで血流がどくどく鳴る。さっきから認めないようにしていた欲情で股間がはりつめていた。きつくてたまらない。
「……アーロン」俺は眼をあけた。
「そこを――」
どけ、というつもりだった。真上にアーロンの眸があった。俺を見ている。大きめの唇がわずかにひらいた。視界のほとんどをふさいでいたアーロンの顔がもっと近くなる。唇に唇が重なった。どちらから、というのでもなかった。吸い寄せられるようだった。
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