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【第1部 竜の爪を磨く】20.螺旋降下

 士官候補生の三年間とは、詰めこみ勉強と寄宿舎行事の縞模様を競争の横糸と規律の縦糸で縫いあわせたもの。  そうルーがいったのは二年目の夏の休暇だった。アーロンの母、ヴォルフ夫人が屋敷を訪ねてきた時だ。爽やかな風が吹く日で、ルーは薔薇園にお茶のテーブルを用意させた。  夫人は自分でデザインしたという瀟洒なドレス姿だった。ルーとは昔からの知り合いらしい。俺には奇異に感じられたが、テーブルを前に向かい合っているふたりには、友人同士というよりも長年連れ添った夫婦のような雰囲気があった。 「そう、アーロンは今年、エシュに勝ったらしいが」ルーは俺を横目でみる。 「私のエシュは竜の騎乗では誰にも負けないと思っていたが、そちらの方が上手だったか」 「ヴォルフは自分のことみたいに大喜びよ。アーロンは完全に満足していないようだけど」 「ほう?」ルーは腕を組んだ。「どうして?」  夫人は俺をみつめて笑った。 「エシュ、あなたが本気を出さなかったと思ったみたい」 「まさか」俺は肩をすくめる。「彼の実力です」  ルーはまた俺に横目を向けたが、追及はしなかった。 「アーロンはどうしてる?」 「卒業生を送る準備で忙しくしているわね。衣装について相談されたから、ヴォルフの昔の服を出しました」 「衣装? ああ――舞踏会か」ルーはうなずいた。「かりそめの舞踏会、ね。いまだに続いているなんて、伝統とはおそるべきものだ」  士官学校三年目の初夏、無事に卒業考査を終えた者は、希望する軍団に配属希望を提出するか、軍大学への進学を選択する。進路が決まり、卒業式を終えると休暇が待っている。すでに身分は準軍属扱いで、正式な配属が決定する前の待機期間ではあるが、最後の自由な時間だ。  この時期に学生会はパーティを計画する。卒業生、在校生、OBが参加する大規模な仮装舞踏会をひらくのだ。規律の乱れにうるさい学校側もこのパーティだけは黙認する。 「さっきあなたがいった『規律の縦糸』が無視される唯一の行事だもの、まわりは張り切っているようだけど、あの子は苦手らしいわ」 「彼らしいな。エシュ、昨年はどうしたのかね?」 「俺もアーロンも仮面をつけただけです。一年は使い走りですから」 「そうだったか? 今年は?」 「まだ決めていません」 「アーロンがヴォルフの軍服を着るなら、エシュには私のを貸そうか?」 「いいわね」夫人の顔が微笑みで輝いた。「今は廃止されたけど、この人たちが若かったころの〈黄金〉の制服、素敵なのよ」 「いいじゃないか。楽しそうだ」  ルーが身を乗り出した。俺は焦り、あわてて答える。 「いえ。遠慮します」 「あら、そうなの?」  夫人はちらりと失望の表情を浮かべたが、すぐに気を取り直した様子でルーをみた。 「仮装じゃなくて、ほんとうに実現する方がいいものね」 「エシュ。笑うな」アーロンが顔をしかめて俺をみる。「これはその、二十年以上前に父が着ていたものらしくて……」 「大丈夫、笑ってない」  俺はそう答えながらアーロンの肩のあたりをどやしつけるが、口元がにやにやするのを止められない。「よく似合ってる。似合ってるけど……それで仮装か」 「定義上は間違っていないはずだ」 「いつもの制服とたいして変わらないんじゃないか?」 「そう――かな」  アーロンは鏡に向かい、しげしげと自分の姿をみつめた。鏡に映っているのは昔の軍服、華美にすぎるという理由で現皇帝が廃止した最上級の礼装だ。各軍団の色が袖口や肩まわりに大きくあしらわれている。 「サイズもぴったりだし、いいじゃないか」 「母が直してくれた。エシュは?」 「明日わかるさ」 「何だって?」  アーロンは不満そうに口をとがらせるが、俺は黙秘した。ヴォルフ夫人は夫の上級礼装を大切に保管していたらしく、鮮やかな色彩がそのまま残っている。息子もこの色を身につける日が来るのを願っているのにちがいない。  ルーやアーロンの母が俺たちに期待しているのは、軍大学から上級将官のキャリアを進むことだ。一番のエリートコースは〈黄金〉の所属となることで、ヴォルフもルーもその道を通ったという。帝国は能力主義の世界だから、生まれが何であろうと素質と努力で階級を飛び越えることが可能だ。ルーが俺を養子にし、予備学校からエリートコースに乗せたのが典型的なパターンだった。だから俺が〈黄金〉に所属する可能性も無ではない。  無ではないが……。  アーロンはもう一度鏡をみて、上着のボタンを外した。シャツを脱ぎすて、肌着一枚で伸びをする。薄い布の下で肩が上下し、鏡に映る喉ぼとけが動いた。俺は何気ないふりで背中を向けた。自分の眼が勝手にアーロンの体を、首や顎、伸びた腰をたどろうとするのを、無理やり断ち切る。  いいかげんにしろ。俺はいつからこんなに意識するようになったんだ? 「エシュ、休暇中は一度も勝負しないなんて、なしだ」  私服に着替えたアーロンは呑気な口調でそんなことをいったが、俺は首をふった。 「タロンなら来期の授業で対戦するさ」 「一人で研究する気か?」 「そんなところだな」  アーロンは残念そうな表情になった。整って精悍な顔立ちは一年のあいだに少年っぽさが薄らいでいたが、そんな感情が浮かぶと急に幼い印象になる。俺の腹の底がざわざわする。だから、やめるんだ。口に出さないまま胸のうちで繰り返す。ゲーム盤の向こうにおまえの顔がみえると、息が詰まる。  空間に投影されたシミュレーションの地形が俺とアーロンのあいだでぼうっと光る。透けてみえるアーロンは幽霊のようだ。俺が指す手をみつめ、考えこみ、微笑む。  あいつが笑うたびに心臓が跳ねる。こちらに向かって振られる指、腕の筋肉、喉ぼとけ、立ち上がった時の腰の動き……そのたびに注意をひかれる。最初に出会った時の少年らしい体型は、士官候補生として鍛えられる日々のあいだにすっかりたくましくなってしまった。  おまえをこんなふうに見ているなんて、知られるわけにいかない。  学期のあいだはましだった。少なくとも昼間は競争意識のおかげで忘れていられた。夜は忘れていられるとも限らなかった。ときたま訪れる、例の『神』がもたらす夢のあいまに、別の夢を見たからだ。  ろくでもない夢だった。あいつの顔が俺を見下ろし、唇が俺の喉と顎をかすり、裸の胸が押しつけられる。俺はたちまち反応し、うっとりしながら待つ――目覚めた瞬間にうんざりする夢だ。  夏の休暇がはじまるとおさまるかと思ったが、逆だった。当然かもしれない。俺は十七歳なのだ。この行き場のない無慈悲な精力をいったいどうしろというのか。  そうこうするうちに『かりそめの舞踏会』当日が来た。俺は黒と銀の|空賊《パイレーツ》――遠い昔、帝国のお墨付きを盾に辺境で飛竜を狩っていた荒くれ者――の仮装でパーティに出た。  日頃は士官候補生のにうるさい学校も、今夜ばかりは何もいわない。  混雑した騒々しい会場で俺はひそかにアーロンを横目で追っていたが、彼がおなじ寄宿舎の卒業生とどこかへ消えると、おもしろくない気分で会場をうろつくことになった。それでもパーティのざわめきは悪くなかったし、知っている卒業生と顔をあわせれば話もする。  窓際の席にいたOBらしい男――すでに軍籍は離脱していたのがあとでわかった――が声をかけてきたのは、知り合いの顔も途切れて手持ち無沙汰になった一瞬のことだ。 「二年生かい? 退屈しているみたいだな」  男の仮装は簡単なもので、時代がかったマントと仮面だけだ。俺はおざなりな返答をした。 「主役は卒業生ですから」 「来年は自分の番だろう?」  男は仮面をずらした。絡みつくような視線が俺の頭から足元までたどり、俺は突然、こんなまなざしの|意《・》|味《・》を思い出した。今の人生ではない、別の生で遭遇した眼つきだ。  男は手をふり、自分の隣をさした。 「来いよ。飲もう」 「まだ二年です。飲めないものが多い」  男はまったく動じなかった。「かまうもんか。今夜は無礼講だ」  軍籍を離脱する人間にはいくつかのパターンがある。自分の適性がよそにあると悟ってキャリアを変える場合。生家や急な財産相続のような外的な事情により、軍を離れざるをえなくなった場合。それに、軍という組織がどうしても肌に合わなかった場合だ。  二年生の夏に『かりそめの舞踏会』で知り合ったハーディは二番目と三番目の組みあわせだった。長年高級宝飾品を商っている実業家一族の出身で、三男の彼が士官学校を出て軍人になったのは「実家の商売の人脈を広げる」ためだった。生家の経営には関わらないはずだったのに、〈紫紺〉へ所属して三年もたたないうちに両親が急逝し、長兄に戻るよう懇願されたという。  在学中から軍人に向いているとも思っていなかったハーディはこれ幸いと軍をやめ、長兄を手伝うかたわら、士官学校の経験を生かして別の事業をはじめた。戦略シミュレーション「タロン」に似たゲームルームの経営である。彼の事業は大当たりした。 「かりそめの舞踏会には毎年行ってる」  その夜遅く、湿ったシーツのあいだでハーディはいった。 「大きな目的は調査だよ。毎年とはいわないが、今夜のような出会いもあるしね」 「調査って、ゲームルームのための?」  俺は好奇心にかられてたずねた。数年ぶりに他人と肌をあわせて疲れていたが、このところ感じていた欲求不満は解消されて、高揚した気分だった。 「ゲームルームのためといえばそうだが、ゲームの内容についてじゃない」ハーディは俺の背中を軽く撫で、のびすぎた襟足を弄ぶ。「タロンと似た仕組みだが、僕のゲームは娯楽のためにある。その一方で、タロンに慣れている軍属もゲームルームの重要な顧客候補なんだ。いずれ軍に入る人間がどんなタイプなのか、知っておきたい……そんなところかな」 「そのゲーム、やってみたいな」  俺は何気なくいった。ハーディが士官学校とも軍とも関係がないからか、気がゆるんでいたのはたしかだった。 「へえ、興味がある?」ハーディは俺の首に手を回して抱えこみ、クスクス笑った。 「よければ一度案内しようか? もっとも士官候補生の道を踏み外させた、なんていわれるのは困るね」 「どんな風にちがうゲームなのかを見たいんだ」 「タロンは得意?」 「かなり」  俺はハーディの腕から逃れた。シーツをはねのけて起き上がる。ハーディは横たわったまま俺をじっと見ていた。 「なるほどね。ところで僕はまだ、きみの名前も聞いていないんだがね」  ハーディと寝たのはその時だけだ。だがそのあと一度、俺は招待されてハーディのゲームルームへ行った。ハーディの店は完全に大人の歓楽場で、開催されるゲームは運の要素が圧倒的に強く、参加するにせよ観戦するにせよ中毒性の高いものだった。  夏期休暇のあいだに俺は三回、〈法〉で姿をごまかし、年齢を偽ってひとりでゲームを見に行った。三回目の来訪では盤の前に立ち、他の参加者を一気に抜いて、勝った。  三年生になると、俺はアーロンと張り合うのを意識してやめた。友人でいることをやめたわけではない。アーロンがどう思うのかは俺の知ったことではなかった。俺には余裕がなかったのだ。ともすれば不穏な夢にとらわれそうになる心の方向を、ほかのものにふりむける必要があった。  士官候補生としての毎日のかたわら、俺は時々夜中に寄宿舎を抜け出し、ハーディのゲームルームに参加し続けた。顔を偽って出歩くようになると、帝国のちがう側面がみえてくる。  昼間の成績はそれほど落ちなかったが、これは〈法〉と竜の扱いに関して他の候補生より経験値が高かったからにちがいない。アーロンとはこれまで通りの友人関係を保とうと努力した。俺は山地で拾ってくれたルーに負い目を感じていたから、ヴォルフ一家と親しい彼をがっかりさせたくなかったのだ。それでもタロンの対戦をはじめとして、アーロンと二人きりになる機会はできるだけ減らした。  三年生の春、軍大学への推薦が決まった。アーロンも同じだ。このままの成績を維持して最終試験、卒業考査をクリアすれば、キャリアに向けてもう一歩進むことになる。  その一方、俺はハーディのゲームルーム通いも続けていた。このごろはゲームの勝負だけでなく、別の目的も加わっていた。アーロンを夢に見て悶々とするくらいなら、あとくされのない相手を探す方がましというものだ。  帝国の道徳倫理はパートナー同士の貞節に極端に厳しく、売春は国家が厳密に管理する。おまけにキャリア軍人と官僚の人間関係はすぐに周囲に悟られてしまうが、一般人は事情がちがい、固定した相手がいない連中は気軽に楽しんでいた。ゲームルームでそれを知って俺はいくらか気分が楽になった。 〈法〉で偽った姿は普通の状況なら見破られなかったにちがいないし、夜遊びがばれなければ何事もなく試験までたどりついたはずだ。しかし思いがけない偶然から俺の素行は士官学校やルーに知られることになった。たまたま一夜をともにした相手が姿を偽った高位の行政官僚で、汚職がらみでジャーナルの記者に追われていたためだ。  そんなことが俺に予想できるわけもない。だが帝都では行政官の汚職は一大スキャンダルだった。記者のリークがきっかけで俺は帝国裁判所から証言を求められるはめになり、夜の素行が芋づる式に士官学校にばれた。俺は規則違反でこってりしぼられたあげく数日の謹慎をくらったが、意外なことに軍大学への推薦は取り消されず、ルーも俺を非難しなかった。

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