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【第1部 竜の爪を磨く】21.疑う余地のない理論
地表で竜が鳴いている。
『どうしますか?』
通信機ごしに耳骨へ響くのはフィルの声だ。ティッキーがすぐに答えた。
『紅 にまかせておけ。連中の手に負えないようなら介入する』
「伏兵に注意しろ」
俺は二人にそう伝えてツェットの高度をわずかに下げる。雲行きが怪しく、風が水の匂いを運んでくる。この高さにいてもツェットは地上の竜の匂いに苛立っている。俺の鼻もかすかに同じものをとらえる。金属くさい匂いは地竜の特徴だが、俺は種名まで嗅ぎ分けることはできない。ツェットは区別しているはずだが、俺に教えることはできない。
眼下の土地は岩肌と森が交互にあらわれる地形で、岩の下には自然の洞窟がいくつもあり、その一部を反乱者が拠点して使っていた。地竜は彼らを追いつめたタイミングで岩肌にあらわれ、まっすぐ紅の方へ向かってきたのだ。すぐに兵士が竜の前に散開し〈法〉の光が炸裂した。地図化された種は〈法〉で簡単に制御できる。薄れていく光の中で竜の首が丸くしなだれる。
『エシュ、今度は二時方向だ』
ティッキーが注意を引き、俺はツェットの背の上で眼をこらす。拡大鏡のまるい視界のなかに鮮やかな空色がちらりとみえた。人工物にみまがうような色彩だ――が、俺はこの正体を知っている。
「ティッキー、こいつはつがいを探してる」
『どうしてわかる?』
「頭のてっぺんと後ろの空色は繁殖期のマークだ。あれで雌を呼ぶ」
『俺の地図化の一覧にはそんなデータ、ないぞ』
俺はその答えも知っていた。
「そうだろうな。野生なんだ。色は違うが、似たようなのを子供の頃みた」
ティッキーがひゅうっと口笛を吹いた。
『ガキの頃だって? たいした記憶力だ』
「繁殖期の竜はとんでもない距離を移動する。ここにいるのは偶然だろう」
『そりゃ不運だな』ティッキーはあっさりいった。『俺の方が近い。行くぞ、フィル』
『了解』
野生竜に遭遇した時の指示は〈黒〉全員に通達されていた。すべての個体を地図化すること、である。
この世界の人間は有史以来、竜について膨大な知識を集めている。それなのに辺境にはまだ、まったく人間が知らない種――地図化されず、帝国に管理されない種――が発見される。
竜の種数は膨大で、空、海、地上それぞれに適応している。だが環境変動のために人間の知らぬ間に絶滅した竜種も、遠い過去には人間のために絶滅した竜種もあった。
しかし帝国が〈精髄 〉を地図化した竜種は〈法〉がある限りそれをまぬがれる。皇帝の意思も、それに従うアーロンの考えにも正義があるのだ。
――正義ね。
ティッキーの竜が空色めがけて飛んでいく。俺は紅の兵士の動きに注意を戻した。十時方向、岩と森のはざまで動きが発生。また地竜だ。ツェットが不機嫌な唸り声をあげるが、今度は待ちかまえていた兵士がすぐさま処理した。
『捕虜を確保』
今度の声は〈紅〉のチャネルだ。俺は彼らが人間を狩っているのを空から眺めている。山地にいた時、俺もこんな風にルーに見下ろされていたのかもしれない。そんなことをふと思った。
境界を引けるものならなんでも〈地図〉にできる。もっともこれは、この世界で相応の〈法〉を習得できた人間にのみ許された技だ。
生命体を含めた物体、文化や科学的概念のような物体ではないもの、ひとつの町や地区、そんなものも〈地図〉にできる。
重要なのは〈地図〉の作り手にあれとこれが区別できることだ。地図師は世界におのずから成り立つ存在のきわ、さかいめをとらえる。本質となる〈精髄 〉を〈法〉をもって抽出し、〈地図〉を精製する。
個体レベルで考えれば〈地図〉は俺の前世で遺伝子コードと呼ばれるものに似ているが、実際はそれ以上の何かだった。〈法〉は〈地図〉を作り、修復し、地図化された対象を理解し、命令するために必要となる。人間が〈地図〉を理解することをこの世界では|導入《インストール》と呼ぶ。複雑な地図をインストールするには〈法〉の素質と学習と訓練が必要だ。
この世界で、〈地図〉と〈法〉は世界を破壊から救うために、神から人に与えられた、と伝えられる。
神が訪れる以前、この世界では人と竜の終わりなき対立が続いており、それはこの世界を崩壊させるところだった、と伝えられる。
神は人のために〈地図〉と〈法〉を与え、竜を人に属する存在とさだめ、人が用いることのできる道具であり力であるとした。あらぶる竜も人が支配すべきものである、と。
さらに神はこう告げたと伝えられる。真に〈地図〉を破壊する力は、何者にも与えられていない、と。
帰投した基地にはざわついた雰囲気が漂っていた。紅の連中が浮足立っているようにみえる。作戦の成功が伝わったせいか。
俺の戻りが遅れたのは、紅の部隊が捕虜を連れ帰った直後に野生竜が何頭もあらわれたせいだ。本部では報告会議の真っ最中、いや終わる直前で、俺が会議室の前にたどりついた時にちょうどお開きになったようだった。紅の指揮官が威勢よく喋りながら登場したので、俺は半歩下がった。
「――やっと連中のしっぽをつかんだわけだ。このカードをうまく使えるか――」
副官に向けて機嫌よく話しながら通り過ぎた紅の後に萌黄が、その後からイヒカが出てきた。突然天井の白色光がちらついて、プツっと消えた。瞬時に暗くなった廊下に会議室の入口だけが四角く切り取られ、イヒカのひょろ長い影が伸びる。
「おや、どうしたかな」
上官は飄々とした口ぶりで天井を見上げたが、明かりが消えたのはせいぜい十数えるほどの時間だった。
「エシュ。ご苦労さん」
「戻りが遅れました。申し訳ありません」
「まさか。短信は聞いた。意外に出たな」
「種はみなちがいます――少なくとも外見は。しかしどれも繁殖期のようです。集まってくるのは土地に原因があるのかもしれません」
「この地区の〈地図〉と合わせてシュウに分析させろ」
「もうはじめてますよ」
イヒカはふっと口元をゆるませた。俺は彼の表情の険しさにはじめて気がついた。
「だろうね。行こうか」
うながされた時、背後に圧を感じた。俺は頭を傾け――元に戻した。
「エシュ?」
「行きましょう」
イヒカにならんだ俺の横を誰かが大股に追い抜いていく。そいつの肩の緊張はイヒカの顔つきを思い出させた。
「報告会議では何があったんですか?」と俺はたずねた。
「念願の本星に当たったのさ。今回の捕虜」
「まさか『虹』の?」
「その通り。ここで尋問するかしないか、若干議論になってね。黄金は一刻も早く帝都に送れといってる」
「誰が反対しているんです?」
「私だよ」
あっけにとられて俺はイヒカをみつめた。
「どうして?」
イヒカは小さく肩をすくめ、俺の背を軽く押して先を急がせた。低い声で先を続けたのは本部の外に出てからだ。外はもう暗く、小路を黄色い明かりが照らしている。
「前線の私たちが知りたいことを帝都の連中が聞きだすとは限らない。捕虜が潜伏地域の〈|精髄《エッセンス》〉をどこまで把握しているか。どこまでの深度で〈地図〉を精製したか……帝都の『虹』の情報の前に、型通りでいいから質問が必要だといったのさ」
「で、もめたわけですね」
「少なくとも黄金はお気に召さなかった。さとい副官はありがたいね」
「まったく、あなたは……」
俺は何かいいかけたはずだが、萌黄の将校と部下がこちらへ向かってくるのを見たとたん、言葉を忘れてしまった。萌黄の将校はイヒカに目礼し、本部の方へ行った。連中が消えると俺は話すべきことを思い出したものの、黒の兵舎が近づくとイヒカが急に大股になったので、あわてて歩調を速めた。
「団長、すこしお話があります」
「夕食のあとでいいだろう」イヒカの金髪は色のついた光の下で熟した果実のような色にみえた。「それに副官、そっちも何かあったな?」
「何がです?」
「きみの昔の男だよ。何かあっただろう」
俺はふいを突かれたが、返答はほとんど遅れなかったはずだ。
「――何もないですね」
「そうかな?」イヒカの鼻がひょこりと動いた。「私はときどき竜なみに鼻がいいのさ。それに眼もいい」
「嘘をつかないでください」
「私が嘘をつくわけがなかろう」
「竜なみなんて、そんな人間いるはずがないでしょう。俺は辺境育ちなんです」
「おかしいな、エシュ。いつのまにそんなに堅苦しくなったんだ」
「昔からですよ」
「ほう?」
夕食のあとでいいとは、俺も夕食の場にいろということだ。前に小刀を忘れたからついでに回収しようと俺は思った。イヒカは軍人のくせに整頓に気を配らないところがある――〈黒〉は多かれ少なかれ規格はずれなのだ――そのあたりにほうり出していると思ったのだが、デスクにも棚にも見当たらなかった。
「どうした?」
「忘れ物です。俺のナイフは?」
「これかな?」
驚いたことにイヒカは胸ポケットに手をいれた。何なんだこの人は――と思ったことは口に出さず、俺はひとまず「ありがとうございます」と礼をいった。
「どうしてすぐ返してくれなかったんです?」
「そうだな。どうしてだろう」
イヒカはナイフを珍しいものでも見るようにみつめている。
「これは軍用品じゃない」
「私物ですから」俺は手を伸ばした。「問題でも?」
「いいや?」そういったものの、イヒカは俺の手を押しのけた。「先に食べようか」
俺は眉をひそめたが、イヒカがてきぱきと食卓を作りはじめたので――こういう時だけさっさと動くわけだ――あきらめて椅子を引いた。
「話というのは?」
「まだはじめたばかりですよ?」
イヒカは肉にナイフを入れている。「さっさと吐きたいくせに。なんだね?」
俺は大きな切れ端を噛みちぎり、急いで飲みこんだ。
「アーロンから気になる話を聞いたので。宮廷で、その――あなたに関する噂があると」
「私の噂」イヒカは繰り返した。「どういう?」
「あなたが反帝国に通じていると。もちろんアーロンは根も葉もないものだといいましたが」
「忠告したか。言動に気をつけろと」
イヒカは無表情で肉を刻み、小さな一切れを口に入れた。
「彼といつそんな話を?」
「使者が来たあとです。内密の話として」
「内密の話か。つまり交流があったわけだ」
俺はフォークをとめた。
「何もありません。ちょっとばかり口論にはなりましたが」
「おや、本当に?」
「いろいろと気になることを……」俺はためらった。「……話してくるので。歴代の黒の団長は誰も帝都で天寿をまっとうしない、とかね」
イヒカの口元があがる。
「それはよく調べたな」
「では事実ですか? アーロンは何らかの調査で動いているようですが、黄金がどうして黒の団長に興味を持つんです?」
「彼個人の興味かもしれない」
イヒカは肉、つけあわせ、パン、と交互に食べている。三角食べという言葉がふと浮かぶが、俺には意味がわからない。どこで聞いた言葉だろう。
「黒は皇帝の直属部隊だ。陛下は私にも黒にも含むところはないよ。安心していい。ただ目的の達成を望まれているだけでね」
俺はほとんど主菜をたいらげたのに、イヒカの皿にはまだ半分以上残っている。
「そういえば、例の使者は何を伝えてきたんです?」
「以前帝都で一度伺った話の続きだな。陛下には計画があられる」
「あなたしか知らない計画?」
「まさか。ただ〈黒〉には特記事項がある」
「俺にはいつ教えてもらえるんです?」
「時が来たらわかるさ」
イヒカは話す気がないらしい。俺は落胆を押し隠した。そもそもイヒカに話す義務などないのだ。上官は規則正しく手を動かしている。肉、つけあわせ、パン。肉は地竜の肩肉だ。噛んだときの繊維の向きと肉質の堅さからわかった。皿を空にしてしまった俺は手持ち無沙汰なまま、今日の出動で見た野生竜を連想したが、その隙をつくようにイヒカがいった。
「ところで、きみの男の話だが」
うかつにも俺はびくっとし、口走った。
「アーロンならちがいますよ」
イヒカはわずかに眉をあげ、いいなおした。
「昔の男だな」
語るに落ちるとはいったものだ。俺はあきらめて答えた。
「私的な事情にすぎません」
「そうかな?」イヒカは最後のパンの切れ端をもてあそんでいる。「きみとのつきあいがなければ、あの男、私の噂について漏らしたりしなかっただろうに。そういえば今日、彼を見なかったね」
「え?」
「視線だ」イヒカは淡々といった。「きみはいつもあの男を見ていた。もちろん、副官の私的な関係に立ち入る気はないが」
また、うかつにも俺は絶句した。この人にはどうも勝てない。思い返すと最初からそうなのだ。
「状況は変わりませんね」俺はなんとか言葉をひねりだした。「すこしばかり……不意の遭遇がありましたが」
「不意の遭遇か」イヒカはパンの切れ端を皿に置き、くくくっと笑った。「私と最初に会った時もそうだったな」
「その話はもうやめていただきたいんですが」
「仕方ない。あれは狩りの夜だった。彼とはあの時から?」
こうなるとからかわれているのは明らかだった。狩りの夜。士官学校最終学年の「かりそめの舞踏会」だ。あの時が俺とイヒカの初対面で、俺とアーロンが……
俺は記憶を押しやってたずねた。「そのパン、遊ぶだけですか?」
「私は満腹だ。きみが食べるか、竜にでもやってくれ」
「竜はこれっぽっちじゃ満足しませんよ。貪欲ですから」
イヒカの皿から最後のパンを取る。バターのかけらを伸ばす俺の顔にイヒカの視線が注がれるのがわかった。まったく、やりにくい。俺はため息をついた。
「そもそもあなたのせいなんです」
「何が?」
「あなたがいなければ、あれ以上は何も起きずにすんだ」
「おや、そうかね?」イヒカはうすら笑いを浮かべる。
「狩りの夜なら、私があそこにいなくてもあの男は必ずきみを捕まえたさ。それに城壁都市できみに会った時だって、彼の執着は明らかだった。きみの執着もね」
「俺は執着なんてしていませんよ」飲み下したパンが喉にひっかかりそうだ。「それにあっちはとっくにうんざりしてる」
「こんなに面白がっていて申し訳ないんだが、じつは私は何年も気にしていたんだ」イヒカはのほほんとした口調で続けた。「私がきみを黒にスカウトしたおかげで、引き裂いてしまったんじゃないかとね」
やれやれ。自分が何を感じているのか俺にはもうわからなかった。
「まったくないと保証しますよ。俺たちはどうせ長続きしないはずだった」
「もともとそのつもりだった?」
イヒカの声に俺はかすかな驚きの響きをききつけ、上官の感性をあらためて理解しがたいと思った。別に驚くことじゃない。俺のかなり特殊な事情を抜きにしてもだ。なにしろ――
「腐っても俺は辺境民ですからね。あいつと趣味があわないことは知ってました」
こちらをみたイヒカのまなざしは妙に遠かった。「それなら安心したよ」
急に強い飲み物が欲しくなった。アーロンの部屋にあったようなやつだ。この部屋にもとっておきがあるはずだが、まさかイヒカにねだるわけにもいかない。
たぶんこんな時のために、俺もアーロンを見習うべきなのだろう。
「俺の話は終わりです。何かありますか?」
「そうだな、特に――ああ、今の作戦予定をすべて終えれば異動になる。我々は城壁都市に拠点を置いて随時出動になりそうだ」
城壁都市。帝都ではなく。俺はほっと息をついた。アーロンはいないだろう。
「シュウの古巣ですね」
「我々も七年ぶりさ」
イヒカは手を振り、俺は自室へ向かった。扉を閉めた時、小刀を返してもらえなかったことを思い出した。
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