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【第1部 竜の爪を磨く】22.柔らかな傷跡

 士官学校三年目の終わり、俺の卒業考査の結果はふるわなかった。  最終試験の出来は悪くなかったのだが、総合判定の結果は低かった。寄宿舎の無許可外出にはじまる規則違反が明るみに出た以上、当然の処置である。  行政官をめぐるスキャンダルでは俺の名前は表に出なかったが、規則違反と謹慎処分を聞いた連中は俺について勝手に噂したし、ルーが漏れないように配慮させていた俺の出身地もいつの間にか噂になっていた。  規則違反よりも、謹慎期間中に俺の故郷がかつての帝国制圧地域だと知られた影響の方が大きかった。周囲の反応は――教師も含め――大きく三つに分かれた。よそよそしくなった連中(ただし遠くからの好奇心に満ちた視線というオマケつき)がほとんど。明らかな敵意を向けたり過剰なお節介をするようになった連中がすこし。変わらないのがひとにぎり。  帝都の上流階級にとって、辺境から来た「元反帝国」は動物園で飼われている竜のようなものだ。好奇心にしろ敵意にしろお節介にしろ、たいていの連中は、俺に貼られた「元反帝国」のラベルにいかがわしさと悪の匂い――もっともどちらも無害な範囲にとどまるわけだが――を感じたらしい。  アーロンの反応は他の誰ともちがった。  あいつが大多数と同じようによそよそしくなり、距離をとってくれた方が俺としては気楽だっただろう。そうでなければいつもと同じように、くそ真面目で正義感の強いアーロンらしく、噂の真偽についてしつこく俺に問いただそうとするか。  実際、そうなることを予想して俺は頭の中で想定問答集まで考えたのに、アーロンは何も聞かなかった。俺を避けるわけでもなかった。卒業式までの期間、俺たちは表面上これまでと変わらない友人同士だった。  ただ、二人で話をしているとき、アーロンの口数は減った。おまけにどうということもない会話の途中で、奇妙な雰囲気で黙りこむことがあった。すると俺も何をいえばいいのかわからなくなってしまい、なんともいいがたい沈黙のあとに、ふたりしてぎこちなく顔を見合わせるのだ。  そんなことが卒業までのあいだに何度も起きた。  俺はもやもやしながら、アーロンは俺の行状に呆れているものの、父親とその親しい友人であるルーのことを考えて、少なくとも卒業までは何とか俺との友人関係を保とうとしているのだろう、と想像してみた。軍大学へ入れば状況は変わるだろう。新しい友人もできるだろうし、専攻を変えれば接点もなくなる。  しかしもうひとつ、別の想像も捨てきれなかった。ときおりアーロンが俺をみる眼つきのせいだ。俺がいつのまにかあいつを眼で追ってしまっている時のように、焦点が合わないようで合っている、熾火のような熱を感じさせる眼つき。  あいにくと最初の想像は外れた。  士官学校を卒業してから軍大学へ入る前の休暇中にいくつかの出来事があった。ルーの視察旅行で野生の竜に遭遇し、その後はからずもイヒカとの初対面となった――もっとも当時は名前も聞かなかったが――「かりそめの舞踏会」を経由して、俺はアーロンの視線の意味を確認せざるを得なかった。  あの頃の俺たちは結局のところ、ありあまる欲望に負けてしまっただけなのだ。それなのに俺もアーロンも認めることができなかった。ひとが恋と呼ぶものや、内臓を襲う感傷の痛みが、つまるところ下半身の要求にすぎないとは。    *  軍大学の学生が暮らす居住ユニットの扉は、分厚くて重い。大学に入学したてのころ、鉄でも入っているのかもしれないと冗談をいったら、本当に内部に金属が仕込まれているとあとでわかった。この扉には二つの説がある。この建物全体がいつでも要塞に転用できるような工夫がされているため、という説。反帝国の破壊テロ工作に備えたシェルター用、という説。ここの居住者は全員学生で軍属でもあるから、どちらにせよ冗談とも本気ともとれる話だが、ひとつだけはっきりいえるのは、防音性能は確実だということ。  講義のない午後、たとえ並んで歩いていても、俺たちは扉の外では手も握らない。少なくとも俺はそうだ。俺とアーロン、どちらかが扉を引く。外は明るいのに中は真っ暗だ。扉が閉じたとたん、足元で小さな明かりが光る。薄闇の中でアーロンが俺の手首をにぎる。背中が壁にぶつかる。  次の瞬間、俺たちは唇をあわせている。  居住ユニットはどれも、共有の居間を囲むいくつかの個室のセットで構成されている。どのユニットも似たような配置で、窓のない居間を囲むように個室がある。居住者の割り当ては大学が行うが、すべての個室が埋まっているとも限らず、士官学校のような規則や門限もない。このユニットには俺たちの他に上級生があとふたりいるが、めったに顔をあわせない。  静寂のなかで俺は壁とアーロンに挟まれている。あいつの胸を押しつけられながら、下唇を軽く噛まれ、吸われる。唇が離れたと思ったら今度は舌が入ってくる。これは立ったままのただのキスだ。太腿の熱が重なり、脛と脛をひっかけるように絡ませあっても。  士官学校を卒業した頃は、アーロンは下手くそなキスをする、と思ったものだった――俺相手ではなかったが。だがこいつはくそ真面目な男で、おまけに努力家と来ている。何に関しても、改善し、進歩させないと気がすまない。  俺だって、ことこれに関しては負けたいと思わない。でもアーロンの進歩は早すぎる。舌で口の中をなぶられながら、俺は全身の感覚を呼び覚まされる錯覚に陥る。俺の体のいたるところ、いや、どこもかしこもが、アーロンの唇を待っている。俺の欲求を感じ取ったようにアーロンの手が動く。服の上からまさぐられて、俺もアーロンも息を荒くする。どちらの手も震えている――と、アーロンが憤ったような激しい身振りで唇をもぎはなし、俺の手首を引っ張る。  扉に近いのは俺の部屋だ。アーロンは勝手に部屋を閉じる〈法〉を解除し――俺が一度手順を教えたせいだが――俺たちはもつれるように中へ入って、ベッドに倒れこむ。薄いカーテンを透かして夕方の赤みがかった光が射し、部屋の空気はこもっているが、気にならない。それどころじゃない。  意味のわからない焦りにかられながらそれぞれの学生服を脱ぎ、床に落ちるにまかせる。裸の胸をあわせながらまたキスをする。キスの合間に眼をひらくとアーロンの目元がかすかに赤くなっている。と思った途端にまた唇をふさがれ、唾液をくみだすように舌でさぐられる。  アーロンは肝心なところへ達する前にいつも俺の全身を舐めたがり、絡みあう回数を重ねるたびに俺はあいつの舌に知らないスポットを――快感のスポットを教えられてうめくことになる。脇腹、ひじの内側、膝がしら、かかと、足指……俺の体を唇がなぞり、下がり、また上がって、肩口に触れる。堅くなった一物が皮膚をこすり、どちらのものともつかない雫で濡れる。臍をなぞってうしろに回った指が尻をほぐし、中へ、奥へ侵入する。挿入されたオブラのひやっとした感覚のあとをアーロンの指がたどり、正しい場所をみつけると軽くえぐり、焦らすように引く。  俺は尻をもちあげ、揺らし、早く来いと要求する。中が十分ほぐれていてもアーロンはゆっくり入ってくる。一度はあいつの質量で萎えそうになるところを弄られて、俺はうめく。  アーロンとのセックスはしつこくて、ねちっこかった。何度もやっているうちにどんどんそうなっていったのだ。今も彼はけっして性急には動かない。耳に聞こえるのはおたがいの息と、自分とアーロンの呻きだけだ。俺たちは言葉を発しない。  アーロンと体をつなげているとき、俺は人間でいることをやめているような気がする。追い上げられて絶頂に達すると、白くスパークするふわふわした雲に乗り、快感の余韻のはてに心地よい疲労がやってくる。それでもアーロンはまだ俺の中にいて、俺を揺さぶっている。  眼をあけたとたん、俺をみつめるアーロンの眸とかちあう。俺たちはまたキスをする。この行為が正しいのだと確認するようなキスだ。  つながっているときだけは、本当に正しいことのように思えた。  いつのまにか外は暗くなっている。部屋の温度は下がり、乾いた汗で体が冷える。アーロンと並んで寝そべったまま俺は上掛けをひっぱりあげる。腹が減っているが、動くのが億劫だった。だがアーロンは腕を枕にして天井を見上げ「今日のおまえの発表――よかった」と話しはじめる。 「なんだ?」  俺はいい加減に返す。全員が受講する教養科目のひとつ、哲学演習では、学生は持ち回りで発表をしなければならない。今日は当番だったから、俺は辺境の地図化の歴史をまとめ、観念としての地図化が意味するもの、という題目で発表をした。帝国は新しい〈地図〉を作ることで世界支配を広げるが、辺境から反乱者が消えることはない。帝国の地図化を拒否し、あるいは奪い、弄り、再地図化して帝国を脅かす。それは何を意味するのか。  いや、俺は脅かすとはいわなかった。帝国は辺境を脅威とはみなさない。ただ単に、自分たちの管理下におかれない領域、ごちゃごちゃで無秩序な領域がつねに生まれることに手を焼いているだけだ。帝国にとってこれはある種の整理整頓の問題で、秩序と無秩序の境界は潮の満ち引きのように帝国を取り囲んで揺れている。 「俺はこれまでそんな風に――観念のモデルを考えたことがなかった。辺境のことは単に軍事と戦略の問題だとしか。その――」  アーロンは考えこむように言葉を切り、俺は待ったが、結局黙りこんでしまった。しまいに「俺はもっと考えるべきだ」というから、俺は笑った。 「おまえは真面目なやつだな。あれは思考遊びだ。ほとんど冗談みたいなものだ」 「演習の発表がか? ルー様が父にやはりそういった……観念的なことを話されていたらしい。エシュも受け継いでいるのかもな」 「俺はルーとこんな話はしないよ」 「それでも親子だ。血のつながりはなくても」 「俺の父親は」  ――帝国軍に追われて死んだ。思わずそう口に出しかけ、俺は黙った。 「ルーは……いい人だ。俺は感謝している」 「好きだといえばいい」アーロンはさらりといった。「言葉にしないと伝わらない。エシュは不器用すぎる」 「悪いな。ひねくれていて」 「そんなところも好きだ」  ごそごそとアーロンの体が動き、俺の方を向く。手のひらが俺の首のうしろに回されて、うなじのあたりを撫でる。 「アーロン、どたばたするな。狭い」 「もっとくっつけばいい」 「おまえまたデカくなってないか? 脳筋の軍人は行政官に馬鹿にされるらしいぞ」  アーロンは俺の首をかかえこみ、不敵に笑っただけだった。  ルーと〈地図〉や〈法〉のあれこれについて話したことがない、というのは嘘だった。養父にとって俺は辺境の情報源のひとつでもあったのだ。十四歳で拾われた当初はともかくとして、時間が経つごとに、俺はルーに山地でどんな風に生きていたのか、話すことに抵抗を感じなくなっていた。それに辺境の反乱者とちがって、帝国は制圧地域の住民を殺戮しない。  そう、辺境の反乱者は帝国軍の兵士を殺すが、帝国は住民を再教育するだけだ。制圧地域の地図化が完了すれば、希望した住民は故郷へ戻れる。 「おまえも帰れないことはない」とルーはいった。「帰りたいか?」 「竜はどうなりました?」 「竜?」 「あそこでは野生竜を――」俺は慎重に言葉を選んだ。「守っていたんです。いつもいるわけじゃない、きまった季節に訪れる竜がいて……繁殖や、俺たちにはわからない別の理由で、高層圏から山に回遊する竜です。人間に竜は支配できないと俺たちは考えていました。何があろうとも」 「それは帝国臣民の信じる思想ではないな」ルーは穏やかにこう返した。 「おまえの故郷に帰った者は今はそう思っていないだろう。竜については調べておこう。彼らは……」  ルーは眼を細め、遠くを見るような眼つきをする。 「竜とは不思議な存在だ。我々はいまだに竜種の全貌を知らない。どれだけ竜の〈地図〉をながめても、私は彼らについて、まだ何ひとつ、わかっていないような気がする。我らの神が〈法〉によって竜の支配を許してもね」  ルーはさらりと神について口に出し、俺はかすかに身震いする。  帝都の住民は軍人だろうと官僚だろうと一般庶民だろうと、気軽に神のことを語る。  よいことがあれば神をことほぎ、困難があれば神に祈る。勝負の前に神に語りかけ、勝っても負けても神に感謝する。アーロンもそうだった。軍大学には士官学校よりも条件の複雑なタロンのゲームルームがあり、アーロンは対戦する前にいつも神への祈りの言葉を口にした。  この世界の神は人間に〈地図〉と〈法〉という力を与え、世界の因果を変えさせた。神を畏れ、神を頼るのは、なにひとつおかしなことではない。  ところが俺ときたら『神』を名乗って語りかける存在に対して夢の中で怒鳴り返しているのだった。その夢は「かりそめの舞踏会」の夜、アーロンから逃げようとして窓から落ちた時にやってきた。あのとき、夢の中で俺は心底腹を立て、俺に干渉するわけのわからない存在に抵抗しようと決めたのだ。  きっとそのせいだろう。アーロンのまっすぐな眸をみると、俺はときどきうしろめたさを感じた。こいつは何ひとつ疑っていないようだ。俺が神と帝国に対して考えていることを知ったなら、こいつは何と思うだろう?  いや、逆だ。  アーロンの信念をそのまま受け入れられるのか?  すこしずつ何かが狂っていったのは、軍大学に進学して三年目になるころだった。ルーが帝国の〈地図化〉拡大に対して慎重論を唱え、皇帝の不興を買ったのだ。これがきっかけで、長年の盟友であるヴォルフとルーのあいだに亀裂が入った。  軍大学ではこの話はちらりと流れてきただけで、たまに屋敷に帰ってもルーは俺に何も話さなかった。だがアーロンは父親から色々と聞かされていたようだ。  ルーは帝国軍で長年の功労者で、彼が皇帝の不興を買うとは尋常な事態ではなかった。アーロンによれば、ヴォルフはルーを説得しようとしたが、ルーの方がはねつけたという。  ヴォルフ夫人がルーの屋敷を訪れることもなくなった。ルーは一度だけ、一連の事態について、俺に冗談をいった――少なくとも俺はそう受け取った。 「皇帝に追放されたら、私もおまえの故郷へ行くかな」  その後まもなく、彼は軍籍を離脱した。  アーロンはルーの軍籍離脱に批判的だった。俺たちは何度か激しい議論――いや、口論をした。アーロンはルーの行いが影響するのを心配していた。俺にいわせればそれ自体が苛立ちの種だった。  それでも俺とアーロンは離れられなかった。つまるところ体の相性がよすぎたのだ。  俺たちは竜のつがいのようにおたがいを貪った。たがいの言い分に納得できないまま、苛立ちや焦りを愛情や恋のあかしだと思いこもうとした。  少なくとも、そのふりをした。

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