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【第1部 竜の爪を磨く】23.匂いの白昼夢

 抱きあっているあいだは、ものすごくいい。  匂いも、のしかかる重みも、性急な動きも、逆にじれったいほど遅くて疲れるときもだ。興奮した指に髪をひっぱられ、肩口に歯を立てられる。足を絡ませ、たがいの欲望をこすりつけあう。奥までアーロンを受け入れ、あいつの注意が俺だけに向かうのを肌で感じ取る。充実と快楽で頭を真っ白にして、何度果てても終わらない。  抱きあっているだけなら何も問題はなかった。問題はそのあとだ。  快楽の余韻が去ると、汗まみれのまま俺とアーロンはベッドに横たわる。長いセックスに俺はくたびれはて、皮膚に貼りつく濡れたシーツをはがして体を洗いたいという気持ちと、このままだらしなく眠りたいという欲求に挟まれている。だがここはアーロンの部屋だから、さっさと出ていくのが吉だ。俺はのろのろと起き上がり、眼だけでばらばらに散らばっている服を探す。  アーロンが身じろぎする。 「行くのか」 「明日は戦術演習だからな」  ベッドからかすかにふうっと息を吐く音が聞こえた。俺はシャツをかぶりながら、アーロンのため息へ気のきいた返事を投げようとするが、みつからない。  演習ではシミュレーションを使った対戦のあと、勝敗に至ったそれぞれの状況や判断の分析をチームで行い、議論を戦わせる。俺とアーロンは一度も同じチームになったことがなかった。対戦ではどちらが勝とうが負けようが、分析の局面で激論になった。俺たちは士官学校の時とおなじく好敵手(ライバル)といえたが、この部屋の外ではそれほど友好的な関係にはみえないだろう。 「エシュ」背を向けてがさごそと身支度をする俺にアーロンが低い声でいう。「前回のおまえの地図化のアプローチは前提が間違っているとしか思えない。勝ってもあれで意味があると?」  俺はボタンをはめながらふりむかずに答える。 「おまえが気に入らない理由はわかっているが、これは戦術の話だ。重要なのは状況を利用して勝つことだ」 「本当にわかっていると? 真に帝国に利するかという問題がある。おまえの方法は、勝ちはしても地図化の好機を逃している」 「問題があるか? 要は〈地図〉を獲ればいいんだ。新たな地図化にこだわる必要はない」 「エシュ、演習はゲームのようにみえるが、狙いは未来のシミュレーションだ。地図化を遅らせれば遅らせるだけ、最後に帝国は――」 「俺はここで議論はしない」  俺はさっきのアーロンのように小さく息を吐き、ベッドをふりむく。アーロンは枕に肘をついている。半分シーツで覆われているが、むきだしの肩の線に体の奥がふつふつとたぎる。欲求はとっくに解消したのに、アーロンをみると自分の内側でなにかがふるえる。そいつを無視して伸びすぎた髪を両手でかきあげ、首の後ろで束ねると、俺は黙って部屋を出た。  軍大学三年目のなかばになると、俺の養父ルーが軍籍を離れ、アーロンの父のヴォルフと袂を分かつようになった経緯は、宮廷や上流階級だけでなく大学の教授、演習でチームを組んでいる学生にも知れ渡っていた。ルーが皇帝の不興を買ったのは、元をただせばヴォルフ主導で計画された帝国軍の長期戦略に不満を示したからだ――そんな話が出たのもあって、演習では俺とアーロンの対戦に、親同士の対立が反映されるのを期待する下衆な連中もいた。  俺がそんなやつらに応える必要はどこにもなかった。問題は俺自身が、アーロンがシミュレーションで使う戦法を気に入らなかった点にある。  軍大学のシミュレーション演習では互いのとった方法や判断の根底にどんな思考があるかまで分析する。俺とアーロンは他の学生や教授が見物する中、毎回議論を戦わせておたがいを丸裸にすることになった。その一方大学寮の居住ユニットでは、どちらかの個室でおたがいを裸に剥いたが、周囲にそんなそぶりをみせはしなかった。  どうしてこうなったのか。軍大学で学生同士の付き合いはタブーではなかったが、推奨されてもいなかったし、俺とちがって生まれながらに名門の出身であるアーロンにとって、プライベートは人前にさらすものではない、という意識もあったにちがいない。そして俺は俺でたぶん――心の底で恐れていることがあった。  ふたりとも教授の評価や他の学生の評判は悪くなかった。だがアーロンと俺の関係は「長年の友人同士だが、現在はそれほど親密な間柄ではない」とみなされていた。  実際はどうかといえば、この通り。アーロンとのセックスは最高なのに、終わったあとはいつも同じだ。甘ったるい余韻はどちらかが口をひらくと消えてしまう。  それでもかまわないはずだった。俺はアーロンと恋人ごっこをしたいわけじゃない。帝国では同性間も婚姻でき、とくに上流階級ではよくあることだが、俺はあいつとそんな将来など考えたこともない。気のあう友人同士で気持ちよく欲求を解消すればいいだけだ。  しかし今のアーロンと俺が「気のあう友人」といえるのか。  俺自身にも謎だった。あいつはむしろ、いつも俺の喉をひっかきそうな位置に据えられた竜の爪のようなもの、すこし間違えれば俺を傷つけるとわかっているのに、鋭さや輝きに惹きつけられてしまう、そんな何かだったのだ。傷つけられてもかまわないから間近で見ていたい竜の爪。長年俺の夢や白昼夢でささやきつづける『神』を名乗る声がなくても、アーロンのことを考えると混乱した欲望に襲われる。  あげくのはて、俺はひとつの結論を出した。  ――おまえがセックスしたいだけなら、アーロンでなくたっていいはずだ。  俺が士官学校以来の悪い遊び、帝都のゲームルーム通いを再開したとき、本音のところにあったのはそれだった。  帝都の歓楽街は昼も夜も鮮やかな色がきらめいている。  髪を伸ばす利点のひとつは〈法〉のめくらましも簡単ですむところだ。俺は詰襟の学生服から首筋の見えるトップとぴったりしたボトムに着替え、髪の色を変え、顔におちる影の向きを操作する。あまりけばけばしく〈法〉を使うと不自然な印象を与えるからほどほどが重要で、さらに重要なのは外見に見合った姿勢をとること。  すると、もう俺が「エシュ」だと気づかれない。軍属は歓楽街ではそれなりに目立ち、彼らがたまる店もあるが、俺がその前を通っても客だとは思われない。こんな風体の人間はお呼びじゃないのだ。  俺は大きな看板のはざまの質素な入口に足を向ける。一見そっけない外見でも、一歩内側に入ると花火のような照明が薄暗がりで輝く。このゲームルームはハーディの店のような大掛かりな装置は置いていない。テーブルに向かう客のあいだにぼうっと立ち上がるのは数種類の立体パズルだ。たとえば、いくつかの規則に従って配置を変える二種類の球を操作し、あいだを転がる星の動きを予測して拾うゲーム。ひとりでも遊べるし、数人で対戦もできる。この店のゲームはただの暇つぶし、他の何かを待っているときの時間つぶしにすぎない。  いや、そもそもゲームなんてそんなものじゃなかったか? たかがゲームだ。  もっとも軍属にとってこんな思考は諸刃の剣だった。この世界の生産は多くの〈地図〉をいかに支配するかにかかっている。〈地図〉をおろそかに扱えばこの世界は貧しくなる。〈地図〉を精製し獲得し操作するのは遊び(ゲーム)ではない。しかし〈地図〉をめぐる軍人の活動はともするとゲームに似る。軍大学の戦術シミュレーションも繰り返せば繰り返すほどただのゲームになってくる。  アーロンが俺に文句をいいたがるわけだった。腹が立つほど真面目なやつだ。  俺はひとりで座り、ぼんやりした思考をめぐらせながら動く球と星を弄っていた。グラスの中にも同じ形の氷が入っている。ルーとヴォルフの対立をアーロンに引き寄せるのが間違っているのはわかっていた。だがアーロンの考え方にはあきらかに、ヴォルフ譲りの強引さもあって…… 「ああ、いた」  聞き覚えのある声がして、何度か見た顔が立っている。 「相席いいか?」  「ああ」  俺はパズルをリセットして「先手を決めよう」といい、タイは破顔して腰をおろした。彼はパズルの腕前はなかなかだが、俺より十歳以上離れていて、結婚もしていなければ特定のパートナーもいない。年齢のおかげで変わりはじめた体型や見た目をいささか気にしている。遊び慣れた様子をみせているが、昼間は日用品の製造メーカーで働く営業マン。堅い仕事だ。反帝国の気配はなく、辺境や軍にも無関心。知的に見せたいという理由で上流階級のゴシップには興味がないふりをする。  なぜここまで知っているかというと、寝物語の合間に見聞きしたからだ。 「また会えるといいと思ってた」タイは球を動かし、意味深な視線をなげた。 「今日も僕が勝ったら、どうだろう?」 「二、三回はまぐれだね」 「それなら五回」 「自信があるみたいだな」 「前もいったろう? このゲームは得意だ」  どうするかな。俺は青と白の球がくっついたり離れたりするのを漫然とみつめる。五回のはそれなりに面白いかもしれない、と考える。向こうは若い男と遊ぶ余裕がある自分を演出したいだけだが、技巧には長けているし、こっちは投げやりな気分なのだ。  俺は承知したしるしにグラスをもちあげる。タイが先手をとり、俺は星の動きをみつめる。最初はこっちが勝ちそうに見えて詰めで失敗、そんなパターンを作り、向こうがしかけた罠に気づかないふりをする。  軍大学の単位は順調に取得しているから、夜遊びする余裕は十分あった。来年度は半年のサバティカル期間も獲得している。サバティカルでは自分で決めた研究ができる上、調査研究の名目で帝都を離れることもできる。俺は城壁都市への滞在をひそかに計画していた。アーロンはヴォルフの勧めで辺境を回るつもりらしい。だったらちょうどいい。  俺は二度続けて負け、一度勝ち、また二度負けた。タイが勝つたびにあっちのグラスに星がふえる。ついに五つ目の星がグラスに落ちると彼はまた破顔したが、感じの悪い表情ではない。俺はグラスの残りを一気に飲み干す。ならんで通路を歩きながらタイは腕をからませてくる。この店には話がついた者同士で使うための部屋が備えられている。  ドアの前でタイは立ち止まり、見える位置に人がいるのもかまわず、俺の頭を抱えこむようにしてキスをしかけた。ちょっとしたデモンストレーションだが、おかげでこっちもだんだんその気になってくる。グラスをあけたのも効いてきた。俺は唇をあわせたまま自分から腕をのばし――  ――たとき、急に肩を引っ張られた。 「失礼」  長身の影が俺とタイを引き離し、間に立つ。上から降ってくるかすかな匂いに俺の全身が緊張する。タイがあっけにとられた顔で見上げた。 「おい、彼は僕と……」 「あいにくと」断固とした声がいった。「その男は俺のものだ」  思わず声をあげそうになったとたん、激しく腕をひっぱられ、ドアへ押しやられた。アーロンは見慣れない服装で見慣れない帽子をかぶり、有無をいわさず半分開いたドアの中へ俺を無理やり押しこんだ。 「おい、何を――」  あいつの背中をひっつかもうと伸ばした手が肩で振り払われる。アーロンの凝視の先でタイが凍りついている。一秒、二秒。そしてタイは首をふる。 「……勘弁してくれよ」  と、俺の鼻先でバタンとドアが閉じた。  俺はほとんどベッドで埋まっている狭い空間に締め出され、いや、閉じこめられて、反射的に把手をつかんだが、ひっぱっても揺さぶっても動かない。頭にきて蹴りつけようと足をあげた瞬間、ドアは急に開いた。アーロンは中途半端にあがった俺の足をなんなく受けとめ、俺は反動でころびそうになるのをどうにかこらえたものの、次の一秒で肩を押されて背中からベッドに転がった。  ドアが閉まる音が響き、両肩が押さえつけられる。アーロンの息が顎にかかる。 「エシュ。〈法〉を解け」 「知らないね」 「それなら俺がやる」  冗談だろ。そう口に出そうとした時、杖が振られた。かすかに〈法〉の光輝がきらめき、アーロンの眉が寄る。そこに浮かんだ嫌悪の表情に胸の奥がずきりと痛む。 「あの男が好きなのか?」  アーロンが苦々しい顔つきでいった。束ねていた俺の髪はシーツに散らばっている。あっさりと素顔に剥かれたのだ。この野郎。 「アーロン、どうしてわかった?」 「おまえこそ……気づかなかった」 「俺を詮索してたのか」 「あの男が好きなのかと聞いたんだ」  アーロンは俺をにらみつけている。嫌なものでも見るような眼つきで。  シーツの上で俺は首をゆらす。 「どうだかな」  アーロンの唇が引き絞られた。薄い布ごしに俺の肩に指がくいこみ、痛みに顔をしかめたとたん肩から力が外れて頭を持ち上げられ、次の一瞬で喉を締められていた。  俺の喉から漏れたのはひっという声だけ。何を考える暇もなく、頭のうしろから投げ出されたようにすうっと気が遠くなる。時間がひきのばされたように長い、長い一瞬――そして、ぜいぜいする呼吸とともにいきなり現世に呼び戻された。 「アーロ……くそ、この……」  せきこんだ俺の背中をアーロンの手がさする。  指が俺の頬をなでた。そっと、恐れてでもいるように。ぽたりと雫がひとつ落ち――はっとしたとたん、激しい勢いであいつの胸に抱きこまれた。背中をベッドに押しつけられ、首筋にアーロンの息がかかる。唇を甘噛みされ、舌が俺の顔をなぞり、耳穴の中までなぶりにかかる。  慣れた男の匂いと動きにたちまち体が反応した瞬間、〈法〉の光輝が閃いた。両腕と両足が鎖に絡まったように重くなり、動けないのに、皮膚の感覚は消えない。アーロンの指が俺の胸をなぞり、薄くぴったりした布の上から尖った部分をつまむ。布の上から歯を立てられ、浸透した唾液が乳首を濡らし、ベルトのバックルが俺の腹をこすって離れる。  体が自由に動かないのは物理的に押さえられているからではなく、アーロンが拘束の〈法〉を使ったせいだと理解するのに時間はかからなかった。腰を持ち上げられ、服を剥かれる。動こうとしても俺の体は諾々とアーロンの手に従うだけだ。アーロンは俺の足をひらき、膝にもちあげる。中に指をさしこまれたとき、同時に挿入されたらしい|潤滑剤《オブラ》がはじけた。 「―――!……」  鋭い快感に襲われて衝撃が走る。体も声も自由にならないのに、内側の感覚は逆に研ぎ澄まされたかのように強く、意思をそらすこともできない。俺の視界はかすみ、涙が勝手にこぼれた。背中がシーツから離れ、アーロンの顔が近づいて視界をふさぎ、唇を覆う。口の中に入りこむ舌がひどく甘く感じられたと思った瞬間、尻から奥へ、こじあけるような勢いで一気に中を貫かれた。  俺はアーロンにまたがるように座って、背中を壁に押し当てられていた。突き上げられ、揺すられる。どうしようもない絶頂の高みへ押されて、なのにまともな言葉も出せない。唇から唾液がこぼれるのをアーロンの舌がすくいあげる。  しびれた脳の片隅で、どうして――という疑問がくすぶった。こいつとは何度も、うんざりするくらいやってるのに、どうして――こんなに……  アーロンが動くたびにぐちゃぐちゃに濡れた下肢に陰嚢が当たり、音が鳴る。 「おまえは……」低い声が俺の耳をかすった。「俺の……」  俺は首を振ろうとするが、アーロンに揺さぶられるまま、ただうなずいているだけだ。アーロンは俺自身を根元からにぎり、尖端を弄り、焦らしながら、どこまでも遠く俺を運んでいこうとする。作り変えられる、という言葉が俺の頭にうかぶ。俺はアーロンに作り変えられてしまう。こいつの思うままに……|精髄《エッセンス》を支配下におかれた竜のように。 「あっ、あっ――ああああああ!」  ふいに声と体が自由になり、動けるようになった腕で俺はアーロンにしがみつき、解放の叫びをあげた。    *  このあとも何度か、似たようなことがあった。  というのも、俺は懲りずにゲームルームで遊び続けたからだ。アーロンが俺のそんな行状を嫌悪していたのは間違いない。だがあいつも懲りなかった。俺をひきずるようにして、あいつの望む方向へ、望むあり方へ、連れ戻そうとした。  俺たちは磁石のようだった。相手の一部をどうしても受け入れられないのに、体を向き合わせたとたんにくっついてしまい、離れられない。  俺とアーロンもつれあった感情を抱えたまま、軍大学の四年目を迎えた。

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