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【第1部 竜の爪を磨く】24.黒鉄の咆哮

 淡いグリーンのフィルターをかけたような窓の向こう側に、クリーム色の壁に囲まれた小さな部屋がある。  中央に置かれた茶色の机の前に男が座っている。髪は背中まで伸び、顎をびっしりとごま塩髭が覆っている。ひたいは高く、鼻筋の彫りも深い。眼の周り以外が日焼けしているのは辺境でも山岳地帯の成人住民によくある特徴だが、このあたりではそれほど一般的ではない。焦げ茶の髪はところどころ褪せ、一部は脱色されて金色になっていた。辺境育ちの眼にはひと目でわかる。竜の乗り手だ。高所で飛翔竜を駆る男たちのひとり。俺の父親のような手を持つ人間。  男は一見リラックスした姿勢で座っていたが、顔をしかめて体を揺らしたとたんにその体勢の不自然さがわかった。両腕と両足がぴくりとも動かないのだ。拘束の〈法〉で固定されているのだろう。痛みはないが、基本的に不快な経験だ。  男が顔を向けた方向でガチャッと音が鳴る。ドアが開いて現れたのはアーロンの部下だった。男に情報を与えないためか〈黄金〉の徽章をはずしている。机をはさんで男と相対し、小脇にかかえていたボードを正面に持ってきたとたん〈法〉の光輝がたちあがったが、動作はおだやかで、事務的にも感じられるような、男に無関心な様子だった。 「最初に名前を申告してください」  男は無言で黄金の士官をみつめ、むっつり押し黙っている。ながい沈黙が続き、ついで膝へ視線を落とした。 「聞こえませんでしたか。名前は?」  男は答えない。黄金の士官はちいさくため息をつき、ボードに視線を落とすと「では私の方から、すでに判明していることを話します。名前はネルソン。生まれは西部の――」とボードを読み上げはじめた。  読み上げる士官のうしろでドアが開き、もうひとりの士官が現れた。腕を組んでドアの前に立つが、何もいわずに拘束された男をみつめるだけで、最初の士官はまだボードをみつめて男の詳細な記録を読み上げている。  そのうち男の表情がゆっくり変わる。拘束された手足は動かなくとも、肩と首が動いて苛々したように揺れ、視線があたりを落ち着かなく泳いだ。何人もの人間が向こう側から男を見守っている窓は、見られる当人には気づかないよう〈法〉で隠されている。だが男は窓があるべき場所を知っているかのように、時たま視線を走らせる。  そのあいだも、ボードを読み上げる士官は淡々と言葉を続けている。 「――反帝国組織『虹』の構成員となり、当地へ潜入」  そう士官が読み上げたとたん、ふいに男は口をひらいた。 「ネルソンじゃない」  士官はボードから顔をあげる。男はドアの前に立つもうひとりの士官を正面からみつめた。 「間違っている。俺はファビガンだ」    *  朝の食堂のざわめきのなか、スプーンを握るシュウの手が食べかけの粥の真上で止まっていた。  ひき肉で出汁をとった朝粥は人気のメニューでシュウの好物でもあるのに、珍しいことだ。おまけにフィルが心配そうな顔で横を通り過ぎても気づいていない。俺は思わず後ろから声をかける。 「シュウ、大丈夫か?」 「ああ?」シュウははっとしたように顔をあげ、ふりむいて俺をみた。まなざしはろくに睡眠をとっていない人間のもので、ギラギラした光を帯びている。 「あまりにも寝てなくて、まわりがチカチカ光ってるよ。どいつもこいつも嬉しそうな顔で僕に〈地図〉を持ってくるんでね。しかもまた増えそうだ」  俺はうなずく。シュウは作戦途中で狩られ――いや、地図化された野生竜の分析で忙しいのだ。しかも捕虜の尋問の結果をうけて次の出動が決定されたから、シュウの仕事はきっと増える。文句はくさるほどあるだろう。  とはいえ今のシュウは話し相手が欲しいだけのようだった。俺はうながされて彼の前に座った。 「エシュはいつ出る?」 「まもなくだ」 「アーロン閣下も出動だって?」シュウの声には棘がある。 「きっとジャーナルに勇ましい絵が流れるんだろう。見た目もいいし、出世するよ、あの人」 「厳しいな」 「ま、僕には関係ないけどね。それに僕以外はたいてい喜んでる。エシュは団長と尋問に立ち会ったって?」 「観察室からな」 「どうだった」  俺は眉をあげた。 「どうって?」 「気づいたことがあるんだろ? 辺境のことはよく知ってる」  気づいたこと、か。むろんイヒカにはその場で話したが―― 「たいした話はないな。完璧な汎帝国語(コモン・ランゲージ)なのに驚いたくらいで」 「どういう意味?」 「ひとことも辺境の語彙――道具の呼び名を使わなかった。こっちで育った竜の乗り手らしくない。つまり外見にそぐわない」 「帝国中央から来たってこと?」 「かもしれない。何にせよお仲間の居場所は割れたから、やってみる価値はあったわけだ。我らが団長の勝利さ」  あの時気づいたことが他に何かあっただろうか。  妙な話だが、尋問のあいだ俺の気にかかっていたのは、捕虜よりもむしろ自分の上官だった。観察室で、団長のイヒカは鋭いまなざしでファビガンと名乗った男をみつめていた。上官の観察力に俺は信頼をおいていたが、彼は自分が何をみてとったのか、俺に何も話さなかった。  イヒカの細く長い指がトントン、と手首をリズミカルに叩いていたのがなぜか印象に残っている。ふだん見かけない仕草だったから――だろう。  ともあれ、黄金の士官二人がかりで行われた捕虜の尋問を俺と上官は観察室から眺め、男が仲間のいる場所を明かしたときもその場にいた。ファビガンはこれから帝都へ送られるという。  こっちで尋問しておくべきだというイヒカの意見は結果的に正しかった。その後の会議で新情報が吟味されたあげく、最後の残党狩りのために大部隊編成の山狩りが決定した。  予期せぬ出動が増えたにもかかわらず基地内の空気は明るかった。緊急編成に裏方は泡をくったにせよ、これでいよいよ終わりという観測がその雰囲気をつくっている。それに山地に潜む反乱者の捜索は反帝国に制圧された町を取り返すのとはまったくちがう。竜を狩るゲームのようなものだし、隠れている獲物の情報も帝国の手にある。  というわけで、基地の空気が浮足立つのは当然だった。大人数を抱える〈紅〉や〈萌黄〉には、今回が初めての辺境任務でこの地方に飽きている若者もいるし、ベテラン勢は各軍団の本拠地周辺に住む家族に会いたがっている。移動慣れした独身者ばかりの俺たち〈黒〉も作戦終了と聞けば嬉しいのがふつうだ。  人間は変化をもとめる。ただし、ほどほどの。  そう、変化といえば――イヒカは今朝〈黒〉の全員へ次の任地を知らせていた。 「次は城壁都市だ」  深い意味があってそういったわけではなかった。寝不足で不機嫌なシュウになじみのある話題を提供しようとしただけだ。 「ああ、聞いたよ」  ところがシュウは仏頂面で答えた。古巣に戻れることを喜んでいるかと思いきや、意外な反応に俺は思わず「気に入らないのか?」とたずねる。 「いや、試料は簡単に手に入るし、機材もあるし、仕事漬けになるには悪くない。ただ、広い野っ原でピーチクパーチクやれていたのに、また籠に逆戻りか――っていうのはある」 「籠?」 「あそこは保守がうるさいんだ。研究機関は特にね。〈碧〉はいいとしても〈灰〉の連中もくるし」 「灰が? 彼らは見てすぐわかるものでもないだろうに」 〈碧〉は帝国内で警察の役目を果たしている軍団組織だ。陸の紅や空の萌黄、海の青藍とは任務の性格がちがうが、いつも制服で街中にいるから帝国臣民には身近な軍団である。その一方〈灰〉は皇帝直属の憲兵組織で、情報――諜報活動を任務とするから、一般人にわかりやすい存在とはいえない。 「一部の研究機関ではそうでもなくてね。皇帝の意向を盾にウロウロしてるのさ――ともかく僕のいたところはそうだった。ひとりでも過去に内部から反帝国が出るとそんなことになって、機密機密ってうるさいったらありゃしない。こっちの方が気楽でいいよ。今回は〈黒〉だから関係ないだろうけどさ。あ、エシュもあそこにいたんだよね?」 「すこしなら。軍大学のサバティカル……城壁事件の時だ」 「ああ、そういってたな。だったらわかるだろ? あれ以来いろいろ、きつくなった」  いったいシュウは城壁都市のどの機関にいたのだろう。聞きだしたいのはやまやまだったが俺は我慢した。シュウの食欲は話しているあいだに復活したようだ。それでも俺が行こうとすると片手をあげ、口の中に食べ物を残したまま喋ろうとする。 「エシュ、あっちへ行ったら皇帝のコレクションをおがみに行こう。僕なら許可をとれる」 「コレクション?」 「変異竜の〈地図〉さ」  俺はうなずいた。地中に閉じこめられていた灰色竜と、その憎しみにみちたまなざしが脳裏に浮かぶ。完治しない刺し傷のような痛みが胸の奥で疼くのを無視して、食堂を出た。  人間どもがどれほど明るい気分でいようとも、竜にはあまり関係がない。  この日は天候がいまいちで、ツェットはご機嫌ななめだった。おまけに通信機の調子が悪かった。飛翔台に飛び乗るとブーツが小石をけちらす音がやけに大きく響き、ツェットの尾がひゅっと立つ。灰色の雲が上空を流れた。俺はツェットの首に手をまわし、装具を調整する。なんともいえない不吉な気分がのしかかるが、他の飛翔台周辺は陽気な雰囲気だ。兵士が冗談をいいあって、笑う声が聞こえてくる。  天候不順も通信機の不調もありがたくはないが、緊急編成された部隊の大規模行動に多少の不備はつきものだ。俺は骨に響くノイズに顔をしかめながら離陸の合図を送る。今回〈黒〉は本隊とは別行動で、空の高みで控えている役目。地上でなにがあろうとも、竜の翼の上では忘れられる。  ――はずなのだが、竜鞍に座っていても俺の注意は散漫になりがちだった。こんなに「気が散る」と感じるようになったのはいつからだろう。何気なく竜の首ごしに周囲を見たとたん、黄金の輝きが一瞬視界を横切った。他の竜の装具が反射しただけなのに俺の腹の底はきゅっと締まった。  アーロン。あいつがこの基地に来てからだ。こんなに集中に欠けるようになったのは。  雲がどんどん増え、俺は本隊が展開する山肌へむけてゆっくり降下するよう手信号を振った。ティッキーの竜が先頭をきって降りていく。風は不穏な湿っぽさをおび、通信機の音はざらざらしたノイズでいっぱいだ。  俺はティッキーの竜の斜めに位置をとり、眼をすがめて本隊を確認する。地上では計画通り〈紅〉の地竜が展開し、〈萌黄〉の竜は崖の向こうへ回りこんでいるはずだ。雲がどんどん山肌に集まり、視界は最悪になりつつある――いや、すでにそうなっている。もっとも帝国軍の竜は、この程度の気候はものともしない。完全に地図化された彼らは従順で、可能なかぎり人間の要求にこたえてくれる。  しかし、何かがおかしい。  違和感に顔をしかめたそのときだった。キン、と骨を刺すような大きな音が俺の耳殻を貫いた。体の底を揺るがすような、金属音まじりの巨大な響き。  俺は思わず首に手をやり、通信機を弾き飛ばした。ツェットが怯えた声で鳴き、俺の命令を無視して大きく旋回しようとしている。あわててまわりをみると、他の〈黒〉も大混乱だ。俺は竜鞍にたちあがり、ツェットのハーネスを強く握る。 「落ちつけ!」  強い風が体の周囲で渦を巻く。俺は竜の背で無意識にバランスをとる。鞍にひっかかった通信機を拾うと指にびりびり振動が届いた。まだあの音が続いているのだ。焦りながら俺は目視で確認できる〈黒〉へ手信号を振ったが、どいつもこいつも混乱した竜を制御するのに必死にみえ、どのくらい届いているのか心もとない。空で怒鳴っても聞こえるわけがない。  俺は片手でツェットを抑えながらもう片手で通信機を首にひっかけ、中途半端な姿勢でチャネルを片っ端からひらく。イヒカのいる本部ともつながらないし、アーロンの本隊ともつながらない。  しかしあの音の正体なら、もう思い出していた。辺境で生まれた俺ですらただ一度しか遭遇したことがない音――いや、声。  たった一度で十分だ。  ――繁殖期の怒れる巨大な竜――黒鉄竜の群れが突進しながら放つ咆哮の、ど真ん中に踏みこむなんて。  ファビガンの話はうますぎた。  俺たちは罠にかかったのだ。

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