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【第1部 竜の爪を磨く】25.旋回の速度

 あの時もここと似たような谷だった。切り立った崖とえぐれたような深い谷。前を歩く父がふいに立ち止まる。前方に黒い翼がひらめいている。 (とうさん?) (黒鉄(くろがね)竜だ。大きな音を立てるな。そのまま下がれ……ゆっくり……)  父は指で警告のしるしをつくり、俺は即座に従う。父はほとんど声を出さず、俺はその唇を読む。 (あの竜の交尾は生涯に数度。邪魔をしたら……)  しかし父の警告はその場の全員に伝わらない。前方で誰かが悲鳴をあげ、竜の首が鞭のようにしなり、地の底から耳をつんざく音がわきあがる。  我々はいまだに竜種の全貌を知らない。  養父のルーは数年前そういった。状況は今も変わらない。  竜のなかには、たまに目撃されてもすぐ人間の手に届かぬ場所へ行ってしまい、生息地や生態、外見すらほとんど知られていない種類がいくつもある。〈法〉を用いた探知機や分析装置があるにもかかわらず、竜の全貌が謎に包まれているのは、彼ら自身が人が使うのと似た〈法〉を使うからだ。竜はみずからの〈法〉で、人間から身を隠す。  俺が育った谷では、竜は世界の裂け目に隠れるといわれていた。一方帝国は〈法〉を使って竜が姿を消すことを間隙(かんげき)に入る、と呼んだ。  神が世界を支配するために人間に与えた〈地図〉とこれをつくる〈法〉で、人間が支配すべきとされた竜が、どうして独自の〈法〉を持つのか。  帝国の神話は説明しない。  しかし俺が育った場所では、死者は巨大な竜の背に乗って世界の果てへ行くと信じられ、そこへおもむく竜は神と同等の存在だった。辺境で竜と生きる人間にとって、竜のもつ〈法〉は身近で、現実のものだった。  その力は竜の体内で育ち、竜石に宿る。 『エシュ!……どうなって……』 『副……官』  雑音まじりではあったがやっとティッキーの声が、つづいてフィルらしい反応が通信機に入った。俺はしぶるツェットを本隊が向かった場所の真上で旋回させていた。山狩りの目的地だった谷は鉄色の翼に覆われている。地鳴りのような音とともに樹々が揺れ、逆立つ棘を生やした切り株のような脚が地面を踏む。鉄色の翼が谷を覆い、羽ばたきの鱗が光を反射する。  竜の細長い胴体は途中で丸くふくらみ、その両端から伸びる尾と首には同じ形の棘が生えている。ちらりと見ただけではどっちがどっちなのかわからない。というのも、尾の尖端に頭部にそっくりな三角の瘤がついているからだ。細く光る白い眼をさがし、ようやく頭を判別できる。大きさ――遠目にも、飼いならされた地竜や騎乗竜の数倍あるようにみえる――もその姿かたちも、おそろしく禍々しく、神話に登場する悪の眷属そっくりだ。  黒鉄(くろがね)竜が目撃されることはめったにない。ふだん彼らは人間の手が届かぬ場所に棲み、人間に気づいたとたん間隙に隠れる、臆病な竜種だとみなされている。たまに目撃される黒鉄竜は単独個体で、体躯も大きめの騎乗竜程度、翼は胴にそってぴったり折りたたまれている。  しかし彼らはいつも臆病なわけではない。条件がそろった時のみ訪れる繁殖期、黒鉄竜は誰に見られても逃げ出したりしない。子孫を残す可能性をもとめ、邪魔なものをはじきとばす凶悪な存在へ変化するからだ。  わずかな証言から、辺境の住民の一部には、繁殖期の黒鉄竜がどんな姿で、何をするかが伝えられている。  そのとき畏れるのは、目撃した人間の方だ。 『おい、いっ……』  ティッキーの切れ切れの声が耳に飛びこんだ。通信が途切れるのは黒鉄竜が邪魔をしているからだ。彼らに潜在する〈法〉が強すぎて、軍の標準装備を圧倒している。 「おそらく黒鉄竜の繁殖地に誘いこまれた」 『繁殖……だと…?』 「黒鉄竜は条件がそろったときだけ交尾する。十年に一度とか、そんな間隔で」 『エシュ、よく聞こえ……うわぁああああっ』 「ティッキー!」  俺は無意味な大声をあげそうになり、あわてて言葉を飲みこむ。ツェットが逃げ出そうと翼を傾けるのを、俺は強引に急旋回させる。周囲で雲がどんどん増え、他の〈黒〉の連中が見えない。パニックに陥った〈黒〉の竜が乗り手を振り落としていないのを祈りながら指輪を回す。いま谷に落ちれば興奮した黒鉄竜に踏みつぶされるだけではない。裂け目を超えて集合した彼らは途方もない空腹で、動くものはなんでも喰う。  俺の手のひらに細い鎖があらわれる。〈法〉の格納装置(ストレージ)である指輪におさめられていたものだ。鎖にぶらさがる丸い石は氷のように冷たい。そいつを胸の内ポケットへ落としこんだとたん、心臓のうえにぬくもりがかぶさった。  俺のものではないゆっくりした鼓動が体の中に響いた。  いったいどのくらい長い間、この石をしまっていただろう?  ツェットはすぐに石の気配を感じ取ったらしい。眼をくるくる回して俺の制御を受けいれる。俺の胸の上では故郷の竜石がゆっくり鼓動を刻んでいる。たちまち俺の視界が明るくなり、黒鉄竜の翼に覆われた谷の様子もくっきりと見える。  崖にちかいところで〈法〉のきらめきが走った。本隊の一部はあそこか。  俺は指で宙に円を描き、ツェットの周囲に遮蔽を張る。これで彼は黒鉄竜の咆哮から守られる。あの竜の叫び声は人間をパニックに陥らせるだけでなく、体内に竜石を持たない竜を不安定にする。クリアになった視界では竜と人がはっきり見分けられた。  俺は黒い翼の上でツェットを旋回させ、どこから手をつけたものか一瞬迷った。本隊は八割がたちりぢりになり、兵士たちはやみくもに逃げようとしているから、まず道を作らなければ。すでに黒鉄竜の邪魔をしたあげく喰われている兵士がいる。そう、あのとき俺の父が静かにしろといったのは、繁殖期の黒鉄竜が人を喰うからだ。その現場を目撃した兵士はさらにパニックに陥り、兵士を守るはずの帝国の竜は黒鉄竜のまえでこうべを垂れている。竜の〈法〉に制圧され、従属させられているのだ。  べつの光がきらめいたのはその時だった。うすら寒く暗い中に金色の光の筋がさしこむ。黒い翼のあいだから高速で飛びだしてくる――アーロンの竜だ! 黒い翼が光に撃たれてひとつ落ち、また落ちる。俺はあわてて腰をさげ、竜鞍におさめたままになっていた銃をとる。アーロンは黒鉄竜の翼のあいだすれすれを飛びながら、竜鞍に立って杖を振っている。俺は銃をかまえる。左胸の竜石が大きくひとつ脈うつ。アーロンの狙いは俺の位置からはよくわかる。黒鉄竜を一ヵ所にひきつけ、帝国軍の道をつくるのだ。  俺の弾丸は青く輝きながら大気を分けるように一直線に飛び、アーロンの〈法〉の光に合流して、黒鉄竜の群れを裂いた。通信機ががなりたてるが、意味をなす言葉はひとつも聞こえない。俺はつづけて狙いをさだめ、撃つ。風が吹き、ごうっと鳴る。黒鉄竜の金属音ではない、よく知った羽ばたきをすぐそばに感じたと思ったら、アーロンの声が耳元で明瞭に響いた。 「エシュ! 竜の群れを地図化しろ! 全部だ!」 「は?」  俺は怒鳴り返す。アーロンが杖をふり、俺とふたりで切り開いた道ぞいに黒鉄竜を退ける。わらわらと兵士が退路をゆくのをみつめながら俺は内心呆れかえる。なんてやつだ、竜石もないのに。 「無茶苦茶いうな! あいつらは繁殖期で荒れてるんだ。退避が先だ!」 「黒鉄竜の〈地図〉など、帝都ですらみたことがない」アーロンの声は冷静だった。「エシュ。おまえはいま、何を使ってる?」 「は?」 「その光だ。おまえを守ってる。あいつらはおまえに気づいていない。群れの一部みたいに」  耳元でブンと風が鳴り、アーロンの竜、エスクーの翼が俺の頭をかすめそうな勢いで抜けていった。俺は口を半開きにして竜の背にいるアーロンをみつめる。アーロンは俺をにらみつけている。耳骨に彼の声が響いた。 「すべての〈地図〉は帝国のものだ。おまえならやれる」 「無理だって! 数が多すぎる」 「援護する、急げ!」  おまえひとりでか? 怒鳴り返そうとしたときだった。俺の足元ががくりと傾いた。 「ツェット!」  俺は竜鞍にしがみつく。後方斜め下から電撃のような圧力がのび、ツェットの左翼にからみついている。黒鉄竜がこれを? と思ったとき、正体がわかった。谷底でうごめく黒い翼のあいだに人間の姿が見えたのだ。膝をついたような恰好で伸ばした手の先にあるものに俺は眼を瞬かせる。  ――剣? 「エシュ!」  声とともに金色の光が地上に伸び、ツェットの翼にかかる圧力は即座に消えた。しかし片翼はだらりと垂れている。 「おい、ツェット、しっかりしろ! 噴射だ!」  俺が怒鳴ると同時にブンと空気が鳴り、よじれたツェットの翼の下に影が回りこんだ。竜鞍の傾きがもとに戻る。アーロンの竜、エスクーがツェットを支えているのだとわかった。ツェットの体に誰かが飛び乗り、あっという間に俺のもとへ来て、肩をつかむ。触れたとたん、火花が散ったような気がした。アーロンが叫んだ。 「やれ! あいつは俺がどうにかする」  彼は杖を高くふりあげ、まだ地上からこっちを狙う人間へ、精髄を抽出する〈法〉を放った。  空に銀色の光が舞った。さっきツェットを狙った剣が宙を飛び、放物線を描いて黒鉄竜の群れへ落ちていく。アーロンの〈法〉の直撃がもういちど剣をはじきとばし、そいつは虹色の光に包まれた。俺はアーロンの体温を背中に感じる。彼は背中合わせでツェットの背に立っている。 「エシュ、黒鉄竜を!」  はっと気がついた。谷を埋めた黒鉄竜から鳴き声が消えている。アーロンが地上にいた男を倒したとたん、嘘のように静まったのだ。エスクーに支えられたツェットが大きく旋回するにつれ、無数の眼が俺をみた。何かを待ち受けているかのようにすべての竜の首がのび、うねうねと波打ちながら俺を凝視する。俺の左胸で竜石が脈打った。 「エシュ、今だ」 「アーロン」 「早く!」 「アーロン……」俺は喉の奥から言葉を絞り出した。「駄目だ」 「なぜ」 「なぜって……」  脳裏に父の言葉がきこえていた。 (あの竜の交尾は生涯に数度。邪魔をしたら……)  彼らは待ったのだ。ここに集まるのを。 「エシュ! 帝国に必要なのは竜ではなく〈地図〉だ。それにあいつらは、人間を喰った!」  アーロンがそういったとたん、黒鉄竜に踏みつぶされた地表が見えた。俺は退避した部隊の痕をたどり、竜の頭から垂れさがる血をみつめた。俺の左胸では竜石の鼓動がますます早くなっていく。俺の竜石と同じような石があの竜たちの体内にもあり、彼らの〈法〉が共鳴しているのだ。  だがひとたび〈地図〉になると、竜石は残らない。地図化されるとあの竜の中に息づく〈法〉は消滅する。  アーロンが俺の肩をぐいっと引いた。 「エシュ、おまえは自分が竜だと思ってるのか?」  黒鉄竜の群れがざわめいた。ツェットが片方の翼を羽ばたいたとたん、その真下にいた一匹の尾がツェットの胴をはたきおとそうと伸びてくる。アーロンがすかさず杖を振る。尾は一度ひっこんだが、それほど堪えた様子もない。別の尾と首がのびる。アーロンの杖は一匹の首をはじきとばしたが、光はわずかに薄くなっている。  俺は左胸をさぐり、鎖をひいた。鎖の先に下がる石を片手に握りこみ、そのまま銃を構えた。  空へ向けて。 「エシュ?」  アーロンの声は無視した。この〈法〉を俺はずっと、忘れたことにしていた。竜石の力が銃口に流れこむ。閉じた花のつぼみのように力が収斂する。俺の口は勝手に動く。体にしみついた記憶とは恐ろしい。 「かの者の大いなる翼に乗って、われらは世界の果てに赴かん」  銃口の先で力をまとった光の花びらが開花する。花びらは黒鉄竜の上に散り、遅れて到来した衝撃で俺の体は揺れ、ツェットの背中を離れて、虚空に飛んだ。 「よう、異端の英雄」  眼をあけるとティッキーがにたにた笑いながら俺を見下ろしていた。 「ティッキー! 作戦はどうなった」 「落ちつけ。もう戻ってる」  俺は眼を動かした。見慣れた基地の飛翔台が横を通りすぎていく――いや、俺の方が移動していた。  担架に乗せられて運ばれている。 「墜落したのさ。すごい技だった。あれが〈異法〉というやつか」  俺は体をねじろうとしたが、ティッキーは手のひらで俺の肩を担架に押しつけてくる。 「あの黒い竜どもの地図化は完了、撤収も完了だ」  俺の担架を運んでいるのは作業服姿の男たちだった。厩舎の連中だ。周囲の雰囲気が妙に慌ただしく、遠くで警報が鳴っている。俺は眉をひそめた。 「何が起きている?」  横を歩いていたティッキーが眼だけ動かして俺をみた。 「悪い知らせがある」 「例の捕虜の自白は罠だった――って以外に?」 「まあな」ティッキーは鼻の頭をこすった。「そいつは輸送中に脱走した」  俺は担架の上で歯を食いしばった。 「そもそもの狙いはそこか。団長は?」 「おまえを兵舎へ寝かせろとさ。動こうとするな。いや、動けるのか?」 「うるさいな――」俺は首をあげようとして、体がぴくりとも動かないのにやっと気づく。「無理らしい」 「だろうな。あの妙な〈法〉でへとへとなんだよ」ティッキーは無慈悲にいいはなった。「エシュ、鏡をみたいか? 死人よりも青いぞ」  兵舎へ寝かせろというイヒカの指示が意味していたのは、いつもの狭いベッドではなく、イヒカの部屋のベッドを使え、ということだった。ありがた迷惑だと思ったが抵抗もできず、俺は弾力のあるマットレスに転がされ、まちかまえていた医療部員に栄養剤を投入された。即効性のやつだ。 「エシュ」  イヒカの金髪が俺の顔をかすめ、つめたい手がひたいを覆った。 「〈異法〉か。リスクが大きいものらしい」 「……失敗しました」  投入された薬のせいか、体じゅうがかっとほてる。イヒカの手は気持ちよかったが、俺は首をゆらし、腕が動くのを確認して、その手を払おうとした。 「失敗? なにが。きみは黒鉄竜を〈地図〉にしたんだぞ」  イヒカは無表情にそういった。俺はやっと彼の手を追いやるのに成功する。上官の部屋は前にみたときと同じだ。 「俺たちは罠にかけられ、捕虜は逃げたと聞きました。どうやって?」 「黄金が調べている。この竜石は」  イヒカの手から鎖が垂れた。俺は反射的に拳をふりあげようとしたが、腕に力が入らず、途中でおちた。 「返して下さい」 「その指輪にしまっていたのか。古いものだな。強い」 「故郷の石です」 「きみの出身は鉱山の周辺か。竜石から最大の力を引き出せる法術師は辺境の一部にしか生まれない。竜を〈地図〉にせずに操れる者たちがいる……」 「もういない」俺はイヒカを遮るようにつぶやいた。「いまは帝国の一部だ」 「紅や萌黄の兵士も目撃したらしいが、〈異法〉を使うことすなわち反帝国ではない。心配するな」  反帝国。そう聞いたとたん俺はひとつの可能性に思い至った。今日の悲惨な出動が捕虜の逃亡のために仕組まれたのだとしたら、俺も疑惑の対象に十分入るだろう。他の部隊の連中は黒鉄竜のこともろくに知らない。俺は知識を持っていて、遭遇経験もあった。それなのにアーロンの指示にすぐ従わなかった。さらに帝国では異端とされる技を使った、となると…… 「俺は査問にかけられますかね?」 「心配するなといった」  イヒカは椅子をひき、ベッドの横に座った。体の内側で熱がぐるぐる回るような感覚をおぼえる。力が戻ってこないかと、俺は首をすこしだけ持ち上げた。 「かりに査問があっても心配はいらない。現陛下は〈異法〉を疎んじてはおられない。むしろ〈異法〉を帝国軍に標準化したいと望んでおられる」 「そんな」俺は笑いそうになり、逆流した唾液に軽くむせた。「まさか」 「道は遠そうだがな。軍人も行政官も〈異法〉に必要なのは竜石と才能と訓練だと思っている。竜石を生み出した竜のことは、考えてもみない。竜の腹を裂いて手に入れた竜石では、最良の結果は得られない。きみの竜石はどこから来た?」  イヒカは鎖を俺の左手におとし、俺は冷たい石を握りしめた。イヒカの顔があがり、俺をみつめてゆっくり、まばたきする。俺は眉をひそめた。イヒカの瞳孔がひらく。  ふいに、横になったベッドごと宙に浮かんだような錯覚をおぼえた。俺は竜石を握った手でシーツを握りしめる。空間がぐるりとまわり、部屋にぼうっとかすみがかかる。イヒカが喋っている。声が奇妙なエコーを伴って響いた。 「帝国、あるいは反帝国でもいいだろう。人間が〈法〉でとある地域をまるごと地図化するとしよう。きみがその地で暮らしていれば、その〈地図〉はきみの意思に影響する。きみは自然に〈地図〉を持つ者の命令に従う。〈地図〉を持つ者の意思をきみは疑わない。それは所与だからだ。しかし野生の竜だけは、〈地図〉所有者の意思を逃れる」 「イヒカ?」俺の声はまともな音にならなかった。空気が喉をしめあげるように重い。 「エシュ。?」 「何をいってるんです?」 「今日まで私はきみを知らなかった。アーロンはもっとも強力な駒のひとつで、この世界の鍵だ。だからいつもアーロンの使い方が最大の問題になる。指し手の力量が問われるところだが、今回はどうも、強引な手を使う指し手があらわれたらしい……」  イヒカの眼は竜を思わせる細長い光彩に覆われている。左眼の虹彩がさらに細く伸び、銀色の刃に変わる。剣の切っ先がまっすぐ俺に向かい、俺の眼を突き刺そうする。 「エシュ。。きみはここに来る前、どこにいた?」 「イヒカ!」俺は声をふり絞った。 「あなたは何です?」 「――エシュ、エシュ……」  揺り動かされて眼をあけると、金髪の上官が俺を見下ろしていた。 「エシュ、大丈夫かね? 顔色は戻ったが、即効性の栄養剤も考えものだな」 「イヒカ……」  俺は息を吐きだした。体がぞくぞくと震えた。  今のはなんだ。夢? 「異法など関係ない。英雄にふさわしい私の副官にはあのとっておきをふるまいたいが、今夜は無理だな」  イヒカの視線の先に、以前飲ませてもらった竜酒の瓶がある。あそこには竜石が入っている。俺の持つ石のような力はない、もっとちゃちな代物だ。それなのにどういうわけか首のうしろが逆立った。俺は瓶から眼をそらした。 「団長。明日以降でお願いしますよ。俺だけでなく、みんなに」  イヒカは俺と眼をあわせ、安心させるような微笑みをうかべる。 「エシュ。神の思惑とは無関係に、我々の生は進んでいくものだ。どれほどちっぽけなものであっても」  からかうような口調だった。俺のよく知っているイヒカだ。城壁都市で〈黒〉の指揮官として出会ったときと同じ。  ドアが叩かれたのはその時だった。 「イヒカ殿。お開けください」  聞き覚えのある声だ。アーロンの部下だと俺は気づいた。〈黄金〉が黒の兵舎へ来るとは、何があった? 「イヒカ殿! 出てこられないなら、こちらで開けさせていただきます」 「おやおや」  イヒカは顔をしかめて立ち上がった。 「せっかちだな。まったく」 「イヒカ?」  ドアを開けたとたん、アーロンの部下を筆頭に数人がなだれこんできた。黄金の士官が肩をいからせて立ち、イヒカに杖を突きつける。 「ご同行願います」 「こっちが願わなければどうなるんだね?」 「連れて行くまでです」  杖の軽いひとふりでイヒカの両腕がうしろにまわる。 「おい、待て! アーロンの命令か?」  俺はベッドの上で体を起こそうともがいたが、イヒカを囲んだ連中はこっちにまったく興味を示さない。アーロンの部下が俺を一瞥しただけだ。その視線はすぐにそらされ、大きな音を立ててドアが閉まった。

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