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【第1部 竜の爪を磨く】26.灰の歌声
なにが即効性の栄養剤だ。
立ち上がり、歩けるようになるまでどのくらいかかったのか。驚いたことに、まともな服に着替えてイヒカの部屋を出られたのは深夜になってからだ。どうやら俺は時々意識を失っていたらしい。
数時間も経ったとは信じられなかった。いまだに体はとほうもなくだるく、手足は砂のつまった袋のようにいうことをきかない。
ドアを押し開けると「あ!」と焦った声があがった。
「ここで何してやがる。フィル」
俺は愛想のかけらもない声でいった。
「どこへ行くんですか!」
「おまえこそ、どうしてそんなところにいるんだ」
「副官の具合が悪くなった時、すぐ対応できるようにしておけと、団長が」
「団長だと?」
俺の口調にフィルは何を感じたのか、首をわずかにすくめた。
「俺は本部へ行く。そこをどけ」
「もう夜中ですよ!」
「アーロンに話しに行く」
フィルは俺をまじまじとみつめ、ドアから退いた。俺はふらつく足で薄暗い廊下を進んだ。たぶん他の連中はその辺の隙間か覗いているにちがいないが、頭から締め出して外に出る。湿っぽい風が吹いている。
兵舎から本部の方向へ向かったが、廊下に面した窓はどれも暗く、夜間灯の緑色がぽつぽつ見えるだけだ。イヒカは尋問室にいるわけじゃないのか。
俺はため息をつき、アーロンの宿舎を思い出す。深夜に襲うにはちょうどいい。以前も通った入口のドアに手をかけたとたん、見覚えのある顔が俺の行く手を遮った。
「エシュ殿。どうしてこんな夜中に?」
アーロンの部下だ。
「おまえらのボスに用がある。開けろ」
「こんな時間に、無茶な」
「誰が無茶をさせてる。通らせろ」
無意識に指輪を回したとたん、〈法〉を使おうにも自分の力がからっけつになっているのを悟った。仕方なくまた前にいる男をにらみつける。
「アーロンに用があるといってる」
士官は奇妙な表情で俺をじっとみて、後ろに下がった。俺は精いっぱい胸を張ってその前を通り、記憶にあるアーロンの部屋へ向かった。ドアは半開きで、すぐそこにみえるのに、俺の足はうんざりするほど進みが遅い。ふいにドアが全開になり、影が伸びて俺に触れた。両腕をつかんだ手の圧倒的な力で、俺はなかばひきずられるように部屋の中へ押しこまれた。
「エシュ……何をしてる。座れ」
どしんと椅子に押しこまれるが、頭を起こす間も惜しんで俺はいいはなつ。
「アーロン、俺の団長をどこへやった」
アーロンは顔をぴくりとも動かさず「おまえの団長か」といった。支給品のズボンとシャツ一枚の格好だ。寝るところだったのか、もう寝ていたのか。
「イヒカはどこだ。尋問したのか?」
「帝都から緊急召喚命令がきた」アーロンはぶっきらぼうに答えた。「今回の件もあわせて報告した結果だ。三時間後に特別輸送される」
「特別輸送だって?」
俺はオウム返しにつぶやいた。これは捕虜を帝都へ送る方法と同じだ。棺桶のような装置で眠らせて運ぶのである。
「俺の報告や帝都の決定について詳細は話せない。ついでにいうが、おまえには〈黒〉軍団長代行命令が出ている」
アーロンの淡々とした声を聞いて、俺の中で怒りが爆発した。
「だからってあんな風に連れて行くか! 俺たち――〈黒〉の都合や士気も考えろ!」
「俺は警告した!」アーロンは即座に返した。「おまえこそ、あの状況を作ったのが彼かもしれないと疑わなかったのか? もしイヒカ殿が――反帝国のシンパなら、彼はおまえを殺そうとしたも同然だ」
「イヒカはちがう!」
「どうしてそういいきれる。ここで警告しただろう。この部屋でだ! 立場上俺は――あれしか話せなかった。だがおかしいと思わなかったか? これまで一度も?」
これまで一度も?
俺は怒鳴り返そうとしたが、急に、何をいうべきかさっぱりわからなくなった。アーロンは苦いものでも飲みこむような表情になった。
「とにかく、もう決まったことだ」
「アーロン」
ふいに全身から力が抜ける。情けないことに、蚊の鳴くような声しか出ない。
「エシュ……」ため息と、呆れたような声が俺の頭の上に落ちた。
「どうやってここまで来た」
「二本の足で歩いたにきまってる」
「その状態で? へらず口だけは一人前だな」
「文句あるか」
「大ありだ」
眼の前が暗くなり、アーロンの匂いに覆われる。心臓が早鐘をうった。肩を他人の体温が覆い、ゆっくりと背中をさすられる。俺は長い吐息をつく。
「エシュ……休んでいけ」
「いやだね」
またため息が聞こえ、視界を覆っていた影が離れた。部屋はさっきよりも薄暗く感じられた。俺が押しこめられた椅子は執務机のすぐそばにあって、俺はまっすぐ座っていることもできず、今はきちんと整頓された机の表面をにらむのでせいいっぱいだ。
板目の地平線の彼方に写真立てがある。何が映っているのかはみえなかった。頭の中でいいたいことをまとめられても、まともな声が出てこない。
「イヒカは特別輸送。アーロン、俺はどうだ? 査問にかけられるのか」
「予想しているのか」
「俺は〈異法〉を使い、おまえの命令にすぐに従わなかった。イヒカが疑われるなら俺だって」
アーロンは淡々といった。
「仮にそうなっても、査問はここではひらかれない」
「そうだな。帝都か。イヒカを送るのは三時間後だって?」
「〈黒〉は二日後、城壁都市へ移動だ」
はじめて聞く情報に俺は顔をあげた。
「二日後?」
アーロンの眉のあいだに皺が寄っている。
「帝都の本部はすぐといったが、伸ばした。正解だった」
「なぜ」
「今の状態でおまえを出発させるわけにはいかない」
どいつもこいつも、俺をなんだと思っているのか。無意味とわかっていたが、むらむらと反抗心がわきあがる。俺はアーロンをにらみつけ、むっつりといった。
「二日後だろうとツェットは飛べない」
実はいまのいままで自分の竜のことを忘れていた。何しろ飛翔台から担架で兵舎へほうりこまれただけ、ツェットがどうなったのか誰からも聞かされていない。だが、今日の出動で翼の一方が折れたのは確実だ。最悪、飛べなくなるかもしれない。
「置いていくことになるな」アーロンは静かにいった。「おまえはエスクーに乗れ」
「おまえの竜を? 俺にくれるのか」
「俺も行くんだ」
「黒は黄金の舎弟じゃない」
「団長は敵に通じた疑惑で帝都へ召喚され、代行はこのありさまだ。俺は帝都の本部から、城壁都市で〈黒〉が次の任務につくまでサポートするよう命令されている」
サポート。サポートね。体の重みが増していくようだ。視線を固定しているのが難しい。俺はアーロンの顎から首、シャツの襟をぼんやりみつめる。
「次の任務……」
「あれから行ったことが?」
アーロンが何の話をしているのか、俺にはすぐにわからなかった。おかげで何秒か反応が遅れた。
「城壁都市に? いや、六年ぶりだ」
「そうか」
何を確かめたかったのだろう。アーロンは軽くうなずいただけだった。
〈黒〉の兵舎へ戻るのは一苦労どころではなかった。
ありがたいというべきか、建物の入口でシュウとフィルが待ちかまえていた。「団長不在で、副官が倒れちゃどうしようもないだろ?」というシュウの小言を聞きながら俺はイヒカの部屋のベッドに押しこまれる。明かりを落とされる前に俺は急いで彼に告げた。
「シュウ、全員に連絡だ」
「ああ?」
「二日後に移動する。城壁都市だ」
「わかった。エシュは休め」
城壁都市はその名のとおり、帝都を広域でぐるりと囲む円環状の巨大な構造物だ。石と金属とガラスのかたまり。もっとも帝都を囲む環全体が居住区になっているわけではない。真上からみた様子はさしずめダイヤモンドが連なるリングのような形で――こう感じるのは前世の記憶の影響だ――ダイヤモンド部分が人のいる都市、それ以外の細い環は帝都を支えるエネルギー変換装置となっている。都市部は帝都の優美な装飾こそ欠けるが、見方によっては帝都よりずっと壮大な建築物だ。
暗闇で俺は六年前にみた風景を思い出している。横になってから飲まされた錠剤のせいか、こんなに体がだるいのに、眠ることができない。
あそこはとても眺めのいい場所だった。城壁都市と帝都のあいだには大きな川が流れ、のどかな田園風景が広がっているのだ。空にひらいた最上層部の見晴らしはどこにいようと抜群だし、もっと下の層でも外部に向く窓の近くに立つだけで、眼にここちよい景色を楽しめる。高所にずらりとならぶ飛翔台は格別だ。晴れた夜明けや夕暮れには、ピンク色に染まった背景のもと、竜が飛ぶ姿を堪能できる。城壁都市が帝都の砦となるために作られたという味気ない事実も、ここに立てばかすんでしまう。
城壁都市は〈地図〉と〈法〉がもたらされたあとに建設された。研究開発都市であり、帝都のエネルギー供給施設であり、その名の通り帝都を守る壁である。全体にのっぺりと平面に広がる静穏な帝都とくらべれば人工的で騒々しい。遠目には都市部もなめらかな円環に見えるが、近づくとモジュール構造の巨大なビルディングに似ている。高層、中層、下層にたくさんの飛翔台が設置され、帝都では決まった場所にしかいない竜が、ここでは普通の乗り物として使われている。
人工物のあいだを竜がひらひら舞っているのは、俺にとっては珍しくも嬉しい光景だった。岩山のあいだを飛ぶ竜とはまったくちがう、新鮮な眺めだ。しかし軍大学四年目の|自由研究休暇《サバティカル》で、飛翔台から降り立ったアーロンはどう感じていただろう。
もともと彼がここへ滞在する予定はなかった。父親のヴォルフの辺境地区視察についていくと聞いていたのに、皇帝の行幸日程が変更されたことから急に中止になり、研究計画を変えたという。
あの頃俺とアーロンは、うまくいかなくなってかなり経っていた。
それでもこの都市へ同時に到着するくらいの、だらだらした関係は続いていた。ふたりきりで顔を合わせて話しはじめればだいたい喧嘩になり、そのくせ最後はセックスして終わるという、どうしようもない関係だった。俺はアーロンに対して、例の『神』のお告げを抜きにしても、行き場のない、解消できない矛盾した気持ちを抱えていた。
アーロンだって、俺がどうしようもない尻軽なのはいいかげん骨身にしみただろう。さっさと離れていけばいいのだ。俺もアーロンも頭では、お互いに避けるのがいちばんとわかっていた。幸い軍大学の寮とちがい、サバティカルでは宿舎も別で、研究計画もまったくちがった。
もうすぐ軍大学修了後の配属希望を出さなければならない。アーロンは〈黄金〉にちがいない。たいていの志願者はあっさり跳ねのけられる配属先だが、アーロンなら問題ないという確信があった。
では俺はどうするか。〈萌黄〉に行けば空と竜が主戦場になる。軍属でいるなら妥当な道だ――軍属でいるのなら。
そもそも俺が軍人を志願したのはなぜか。〈法〉が使えたから。行政官になるのは嫌だったから。もっといえば、ルーに拾われたからだ。
ルーが軍籍を離脱したいま、軍属で居続けなくてもいいのかもしれなかった。俺が軍人でなくなれば、アーロンとの縁はすっぱり切れるだろう。
そして俺はどこへ行くんだろう?
個人的な悩みはつきなかったが、サバティカルは楽しかった。
飛翔台の近くに行けばかならず竜に出会えたし、アーロンと毎日顔をあわせることもない。俺の主たる研究計画は、受け入れ先の研究所で〈地図〉精製時の成功率と精度を高める条件を検討すること。サブテーマは竜と人間の協同を進める環境研究で、参謀本部の戦略エリートが求めるものではなかったが、そんなことはどうでもいい。
宿舎の狭い部屋で目覚め、窓をあけると、田園地帯の緑の縞の彼方に帝都の影がちいさくみえる。宿舎の壁の向こうでは換気装置や動力装置が唸るかすかな音が響く。
城壁都市の内部には保守用の小さな通路が張りめぐらされ、到着したあとのガイダンスで俺はその一部に立ち入っていた。保守通路は通常の街路とおなじように、人が立って歩ける規模のものから、機械監視のみの狭い通路まで多様だった。非常時に街路が封鎖された時はどれも緊急用として機能する。
サバティカルの学生全員が集まるミーティングの時だけ、アーロンに会った。あいつはいつも誰かと一緒だったし、俺は眼をあわせもしなかった。それなのにあいつのいる空間だけが明るく浮き上がったように感じられるのが腹立たしかった。
とはいえ、苛立つことといえばそのくらい。帝都にいた時とちがい、盛り場で寝る相手を探しもしなかった。娯楽がわりにときおり飛翔台へ竜を見に行く以外の時間、俺は研究資料に没頭した。研究所の教官以外とはほとんど会話もしなかったが、満足していた。
サバティカル期間が残り十日となった朝、俺は奇妙な雰囲気を感じて目覚めた。
最初は何がおかしいのかわからなかった。窓をあけると地平線に朝もやがけぶり、ぼやけた朝日が浮かんでいる。竜がいない、とは思った。いつもなら飛翔台は早朝から活発に活動している。起きたとたん窓の外に竜の翼がひらめくのをみるのは珍しくなかったからだ。
静かだ。静かすぎる。
壁の向こうの換気音が止まっているのに気づいたのは、その直後だ。
この都市のいたるところに設置された音響装置から、聞き覚えのない男の声が流れ出したのも。
『城壁都市の諸君にお伝えする』
そして大きなノイズ。さらに叫び声がひとつ。
『我々はたったいま、この都市の〈地図〉を奪取した』
あとで簡潔に「城壁事件」と呼ばれることになる、都市占領のはじまりだった。
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