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【第1部 竜の爪を磨く】29.片翼崩壊

「エシュ。あなたは、生まれ故郷の山地の共同体との関係がよくなかった、といいましたね。なぜでしょうか?」 「わかりません。父が――実の父が死んだあとのことです。父の死後、共同体の指導者になった男は俺を気に入らなかった、としか」 「あなたの産みの親と指導者は仲が悪かった?」 「いいえ。父と彼は……親友だと思っていました」 「ルーがあなたを保護した時、どうしてあなたはひとりだったのですか? 他の住人は?」 「彼らは……集会中でした。俺は入っていけなかった」 「生まれ故郷には親しい関係の人間は他にいなかった?」 「いなかったわけではありませんが……帝国軍が来たときは、そうでもなかった」 「あなたはどのように〈異法〉を習得しましたか? 故郷の共同体には〈異法〉を学ぶ方法がありましたか?」 「〈法〉は父から教わりました。〈異法〉については……わかりません。故郷で誰かに〈異法〉を教えられたわけではありません」 「ではどうやって習得を?」 「山地では……定めにある者が竜の法を獲る、と伝えられるのみです」 「あなたの竜石はどこで手に入れたものですか?」 「竜が俺に与えました」 「竜が?」 「はい」 「……。ルーがあなたを保護した理由は何でしょうか?」 「俺が〈法〉を使えたからです。それに山地の情報源にもなる」 「あなたは実際にルーに情報を提供しましたか?」 「ある程度時間が経ってからなら」 「なぜです?」 「それで問題ないと思ったからです」 「ルーはその後、あなたの故郷の地図化と再教育について話しましたか?」 「はい。帰りたいかと聞かれましたが、断りました」 「なぜ?」 「ルーのように軍人になるつもりだったからです」 「ルーはなぜあなたを養子にしたと考えていますか?」 「彼には子供がいなかったし、俺には〈法〉能力があったからです。待ってください。なぜルーについて聞かれるんです?」 「質問に答えてください。イヒカとの初対面はいつですか?」 「士官学校を卒業したあとのパーティです」 「通称『狩りの夜』ですね。イヒカの名前や所属は知っていましたか?」 「いいえ。でも軍のOBか関係者だと推測しました」 「イヒカとはどの程度親密でしたか?」 「どういう意味の質問でしょうか。俺は〈黒〉の副官です」 「肉体的な関係はあった?」 「初対面のときは……それからはありません。彼の所属と階級を知ってからは」 「あると思われていたようですが?」 「ありませんでした。イヒカのふるまいが思わせぶりだったのは認めます」 「〈黒〉も含めた周囲の人間があなたとイヒカの関係について誤解しているとわかっても、あなたは否定しなかった?」 「その方が都合――俺は困らなかったからです」 「イヒカと特に親しかった人物、遠隔的な手段でやりとりをしていた人物に心当たりはありますか?」 「直近では、ヴォルフ将軍から私的な荷物が届きました」 「他には?」 「……いいえ」 「質問に答えてください。心当たりは?」 「親しい――ことはないはず……」 「誰ですか? 名前をいえますか?」 「皇帝陛下です」 「……」  軍の委員会による査問は長かった。  アーロンの竜で帝都へ戻り、軍の委員会へ出頭してから三日間。査問を受けた人間の話など聞いたことがないから、これが標準なのか、そうではなかったのかもわからない。三日間といっても、俺の反応を逐一読み取る装置が〈法〉で作動する部屋に閉じこめられての三日間だ。  俺は山地での子供時代から、ルーに拾われて帝国臣民になったいきさつまで事細かに問いただされた。査問官は数回変わり、何度も似たような質問をくりかえされたから、矛盾した応答もしたにちがいない。  俺の生まれ育ちをはじめ、予備学校や士官学校でルーが表に出ないようはからった事柄も明らかにされ、俺は丸裸にされたような気分だった――少なくともこの世界に生まれてから、現実に起きた出来事についてなら。  もし俺が『神』のお告げや前の人生の記憶について話したなら、彼らはどう思っただろう? 俺が前世の記憶に覚醒し、あの声を聞いたことで故郷の人々のあいだに溝を生んだといったら?  もっとも査問官は俺の夢の中の出来事まで追求することはなかったし、帝国臣民として登録されたあとの人間関係で、突っこまれたのはイヒカに関することだけだ。イヒカと最初に会った時のみならず〈黒〉にスカウトされたいきさつまで、重箱の隅をつつくようにたずねられた。  ありがたいことに、なぜルーが俺を養子にしたのかは聞かれても、なぜおまえは〈黒〉に配属されたのか――〈黒〉への配属を受け入れたのかは聞かれなかった。もしそんな問いが出たら、不自然なほど迷ってしまったにちがいない。  城壁都市で〈黒〉の連中に出会ったとき、俺は気づいてしまったのだ。予備学校、士官学校、軍大学――帝国の軍人養成プログラムに、自分がどれほど窮屈な思いをしていたか。   *  ひとたび帝国軍が城壁都市へ突入すると、反帝国はあっけなく〈地図〉を奪い返された。多少の混乱は残ったとはいえ、数日で城壁都市の大半は以前の日常を取り戻した。ふたたび移動に使われるようになった竜たちが都市の周囲を飛び、帝国軍の竜のための臨時の厩舎がつくられた。  軍が事態を収拾しているあいだに俺はペーパーを仕上げて提出し、とたんに手持ち無沙汰になってしまった。軍大学の次の学期にはまだ日数がある。俺は毎日散歩のかわりに厩舎の周囲を歩き回り、帝国軍の竜を見物した。おかげで軍団によって竜の扱いや個性がちがうのに気がついた。〈萌黄〉の竜は短気で喧嘩っぱやく、厩舎の連中を困らせる。〈紅〉の竜は数頭で「仲良し」をつくり、人間にはあまり関心がない。〈碧〉の竜はよそよそしいが、命令にはきっちりと従う。 〈黒〉の竜がおさまった厩舎の一角は、他の軍団とさらにちがうところがあった。ここの竜は自分の乗り手がやってくると眸をぐるぐると回して歓迎する。人と竜が他の軍団よりずっと近いのだ。乗り手もちがった。他の軍団のように竜を厩舎員まかせにしないのだ。〈黒〉の隊員が竜を扱うやり方はどこか、故郷の山地を思わせた。 「竜に慣れてるな。学生のくせに」  そういって俺に話しかけてきたティッキーをはじめとする隊員も、他の軍人とはちがった。〈黒〉は奇妙な部隊だった。面食らった俺はなぜそう感じるのかと考えたあげく、他の軍団とくらべて、隊員のあいだに軍組織の序列が見えないからだと悟った。  懐かしい印象を受けたのは、子供のころ俺のまわりにいた父や父の仲間を思い出したせいかもしれない。それにイヒカが俺を知っていたのもあって、俺はすぐに〈黒〉の連中と彼らの竜になじんでしまった。手持ち無沙汰をつぶすのに竜の手入れはもってこいだ。  士官学校の卒業仮装パーティで出会ったイヒカとこんなところで再会したのは気まずかったが、俺はもちろん、イヒカもあの時のことをほのめかしもしなかった。 〈黒〉の連中のあいだに入り浸っていたのはアーロンを避けるためでもあった。事件が落着したあとはそれまでとうってかわってアーロンと顔をあわせる機会が増えたからだ。幸いあいつはいつも取り巻きと一緒で、ふたりきりになることはなかった。いや、それは偶然ではなく、俺がわざとそう動いていたからだ。  あいつの顔をみるとどうしても、最後に衝動的にキスして、体をつなげたことを思い出してしまう。いま考えてもどうかしてる。敵を避けるために〈法〉を使い、何時間も暗闇の中を這ったあげく、アーロンをみつけて……そしてあれだ。  興奮状態だったから? しばらくのあいだ、一人で孤独だったから?  だめだ。俺は心の中でくりかえす。あいつとはやっていけない。何年間も夢でろくでもないお告げを聞かされつづけ、その運命を避けたいから、というだけじゃない。ここ数年のあいだにアーロンとは無理だとわかったからだ。俺もあいつも、おたがいの考えを受け入れられない。顔をみたとたん竜のつがいのようにセックスしてしまうからって…… 〈黒〉はまもなく次の任地へ移動したが、その前日、俺ははじめてイヒカとまともに話をした。夕闇が夜に変わる時刻、最上層の飛翔台の近くで飛ぶ竜をみていると、声をかけられたのだ。  ただの立ち話だった。 「ティッキーの竜はきみを気に入ったらしい」  ふいにあらわれた長身の金髪の男に俺はぎょっとしたが、相手はなだめるように手を振った。 「彼の竜は気難しいので有名なんだが、ティッキーが妬いたくらいだ。いったいどんな賄賂を使った?」 「まさか」  いきなりそんなことをいわれて俺は返事に困った。この人はどうも、調子を狂わせるところがある。 「たまたまでしょう」 「お手柄だったな、エシュ」 「今のは何に対して……?」  イヒカはにやっと笑い、手のひらを上にむける。「全部さ」 「……ありがとうございます」 「前に会ったときから四年か」  前に会ったとき――つまり「狩りの夜」だ。俺はひやっとして隣の男の顔をうかがったが、さしたる表情は浮かんでいない。平然とこう続けただけだ。 「配属希望は出したかね?」 「まだです」 「どこを考えていた?〈黄金〉?」 「ご冗談を」俺は苦笑いする。「〈黄金〉はたとえ希望したってありません。狭すぎる門だ」 「そうかな。ルー将軍――元将軍の息子。軍大学の成績は十分で、今回の事件も考慮に入るだろう」 「俺は養子です。配属希望は、そう――〈萌黄〉を考えていました」 「ふん」イヒカは眉をあげた。「あの程度の竜しかいないのに?」  俺は吹き出しそうになった。おかげで〈萌黄〉の竜をどう思っているかイヒカにばれてしまったにちがいない。唐突に彼はいった。 「きみはふつうの軍人には向かないな」  どきりとした。ここ数日の考えを読まれたかのようだった。返事に困った俺にイヒカはさらに追い打ちをかけた。 「図星だろう?」 「……かもしれません。そもそも軍属になったのが間違いだった」 「帝国は〈法〉を使える者を無駄にしない。それに四年前はどうだ? そんな風に思っていたか?」 「軍属をやめたくなるとは思っていませんでした」 「ほう」 「あなたは気づいていたんですか?」  飛翔台に戻った竜の力強い羽ばたきが響いた。イヒカの視線が俺を通りこして流れ、また正面に戻る。 「きみは〈黒〉に向いている」  俺は黙っていた。ふいにイヒカが手をのばした。頭を傾けて俺の伸びすぎた髪、金色の混じった毛の束に触れる。 「ここだけ色がちがうな」 「生まれつきです」 「もし髪を伸ばしたまま軍属でいつづけたいなら」イヒカはまだ俺の髪をみつめ、眼尻をゆるめていった。 「私のところへ来なさい。いつでも歓迎する」 「あなたの? でも〈黒〉は――」  配属希望先にあがったこともないし、募集など聞いたこともない。俺はそういいたかったのだが、イヒカは髪をつかんでいた手を離して「誰かがきみを迎えにきているな」という。俺は続けるタイミングを見失った。  迎え? 「失礼します。イヒカ団長殿」  背後からよく知った声がきこえた。いつの間にここにいたのか。 「アーロン、といったね。エシュと同様に今回の活躍、たいしたものだ」 「ありがとうございます。お邪魔をして申し訳ありません。友人を探していたので」  そういいながら俺の横に並んでくる。アーロンの体と、彼の存在がかもしだす雰囲気を意識したとたん、俺の体もなぜか緊張する。  イヒカは鷹揚にうなずいただけだった。 「いいや。きみたちがいてよかったよ。私は行こう。エシュ、考えておいてくれ」  俺たちは帝国軍式の礼でイヒカを見送ったが、彼が建物のなかに見えなくなったとたん、アーロンは俺の腕をつかんだ。 「エシュ」 「なんだ?」 「あの方と……会っていたのか? 今まで……あのあとも?」 「あのあとって?」  俺は驚いて聞き返し、アーロンが何の話をしているかを悟った。あわてて首をふる。 「いや。四年ぶりだ」  アーロンは眼を細めた。なんだか怒っているようだった。 「軍属をやめたいと聞こえたぞ。どういうことだ?」 「アーロン。立ち聞きしてたのか?」 「聞こえたんだ。おまえと話をしたいのに、いないから探した」  俺は隣の男をみあげ、肩をすくめて視線をそらす。十四歳のころは俺とたいして変わらなかったくせに、いつのまにこんなに背が高くなったんだ。 「アーロン。おまえまだ、俺と話をしたかったのか? 俺にはうんざりしてるのかと思ったよ」 「なぜ」 「俺はおまえの期待に応えられない。会えばいつも喧嘩になる」  そうでなければセックス。そう続けてもよかったが、やめておいた。アーロンが俺をにらみつけたからだ。 「今はその話はいい。それより軍属をやめたいという件だ。そんなことを考えていたのか?」 「俺の父親は帝国軍に追われて死んだ」  言葉はぽろりと口から飛び出した。はっとして俺はアーロンをみつめる。視線ががっちり俺をとらえた。 「もちろん生みの親だ。そのあとルーに拾われた。俺が軍人になろうと思った理由は――だいたいはそれだ。いまはもうルーに義理立てする必要はない」  アーロンの視線は俺を串刺しにするようだ。どうしてこんな風に俺をみるんだろう。いつからこいつはこんなに強い視線で俺をみるようになったのだろう。それとも俺がそう感じるだけなのか。 「やめない選択肢もあるみたいだが」俺はイヒカの提案を頭の中でくりかえした。あれはただの口約束か、それとも本気の勧誘だったのか。 「〈黒〉なら、まともに配属希望を出すより面白いかもしれない」  アーロンの眼が細められ、顎が締まった。 「エシュ、正直にいってくれ」 「なんだ?」 「おまえは軍が嫌なのか? それとも」  アーロンは言葉を切り、俺はどんどん暗くなる空のしたでこいつの眸を見つめていた。この男はいったい何なのだろう? 友人? 恋人? それとも……未来の敵?  その全部のような気もしたし、どれでもないような気もした。  ひとつだけわかっていること、実感していることならある。  この男が近くにいると、俺はおかしくなってしまう。 「アーロン、俺は……」  眼が痛んだ。まばたきを忘れていたからだ。 「おまえと一緒にはいられない。十分、わかっただろう」  これで終わり、とも、さよなら、ともいわなかった。アーロンの顎がかすかに動いた。 「そうか」  アーロンはゆっくり――ゆっくりと体の向きを変えた。空は暗く、竜の姿もみえない。黙ったまま俺に背を向けて歩いていく。俺はその背中をみている。  ずっと前もこんなことがあったような気がする。誰かと別れを告げることなく別れた。  それっきりだった。あれはのことだったか?    * 「査問の結果が出た」  そうして六年前に別れたはずの男の顔を、俺はまた見ている。 「どうした? エシュ」 「いや。ずいぶん豪華な住まいだと思っただけだ」  アーロンは首をふった。「母が家をかまえろといって、引かないんだ」  帝都のアーロンの住居は、都心からすこし離れた地区に建つ瀟洒な一軒家だった。宿舎を転々としている俺には考えられないが、生まれつきの貴族にはありがちなことなのか。  あきらかに庭師が手入れしている庭からは薔薇の香りが漂い、室内も専門業者が整えたような雰囲気だった。アーロンには不似合いな気もしたが、俺はコメントを差し控えた。誰の趣味だろうとどうでもいいことだ。  アーロンは玄関近くの応接セットに俺を追いやり、手で座れと合図する。俺たちは向かい合って腰をおろす。 「おまえに処分はなかった。〈黒〉についてはいずれ皇帝からじきじきのお達しがあるらしい」 「それを伝えるために、わざわざここまで?」 「周りに人の耳があるといいにくいからな。軍の宿舎はどこも騒がしい」  たしかにここは静かだった。ルーの屋敷を思い出すのは庭に面した窓のせいかもしれない。 「イヒカ殿についてだが――反帝国に通じたという嫌疑が晴れないまま捜索中だ」 「そうか」 「私物は没収になった」  それでは俺の小刀はどうなったのだろう。イヒカはあれを胸ポケットに入れていた。眠らされて輸送されたときに没収されたか、それともまだイヒカが持っているのか。  ふいに喪失感がつのり、腹の底がきりきりと痛んだ。俺はうつむいて自分の膝をみつめる。いちいち考えるまでもない。イヒカは何年ものあいだ俺にとって大きな存在だったのだ。死んだ父やルーと同じか、もっと。俺は裏切られたのか、ここにはさらに別の裏があるのか。 「イヒカ殿は〈黒〉を正式に解任された」こころなしかアーロンの口調がやわらかくなった。「捜索については……今後どのくらい情報が手に入るかわからないが、わかれば教える」 「ああ。すまん」 「残念だ。こんなことになって……だが正直にいえば、ほっとしてもいる。すべては……神の思し召しだ」  それはどの神だろう。俺に語りかけた神か? もっと別の存在か? 「神ね」 「エシュ?」  俺はテーブルに肘をつく。アーロンを上目づかいでみつめる。 「神に理不尽なことを告げられたら、おまえはどうする」 「理不尽……とは?」 「その通りさ。筋の通らない無茶苦茶な命令、予言、なんでも」 「神の意思はすべてを包含する。真に神が命じられたのなら、いずれ為される」  正典どおりの回答だった。俺はため息をついた。  アーロンがいった。「おまえが神について話すのは珍しい」 「そうか?」 「俺が知るかぎり、おまえが神に祈ったのは一度だけだ」  一度でもあるのが不思議なくらいだ。俺は苦笑した。 「それ、いつだ」 「|黒鉄《くろがね》竜に〈異法〉を使ったときだ」 〈黒〉の今後について通達するので出頭せよ。そんな命令がきたのは翌日だった。  何日も宿舎で待たずにすんだことに俺は胸をなでおろしたが、命令が軍本部ではなく宮殿から出されているのにぎょっとした。宮殿など、士官学校時代に見学に行ったことしかない。アーロンのような貴族の子弟は出入りの機会もあるらしいが、俺は皇帝陛下が来臨される式典もろくに見物したことがないのだ。  命令通り、最初に帝室庁舎に出頭すると、丁寧な物腰の職員に奥の通路へ導かれた。レリーフのある壁と緋色の絨毯の敷かれた廊下を延々と歩き、椅子がふたつあるだけの小部屋へ通されて、すこし待たされた。現れたのは〈使者〉の服装をした人物だった。 「エシュ殿。よく来てくれました。私はレシェフ」  レシェフはセランのような美貌の持ち主ではなかった。ハンサムというよりも人好きのする顔立ち、というべきか。俺は作法通りにひざまずき、礼をする。イヒカもここに来て、同じように〈使者〉と会ったのだろうか。 「顔をあげてください」  レシェフはひざをついたままの俺の方へ手を伸ばした。手のひらの上で白いキューブが光る。みるまにそれが宙に浮き、ぱっと四方に輝きを放つ。 『そなたを〈黒〉団長に任命する』  空中にするすると文字が描かれた。書体も文体も正式な任命状のもので、皇帝の署名がそのあとにつづく。文字は輝きながら空間にとどまり、上方へ移動した。別の書体で別の言葉があらわれる、勅命書だった。  俺は眉をひそめて文字を読む。城壁都市に保管された変異竜の〈地図〉を実体化し、これらの竜を使役する部隊として〈黒〉を再編成すること。団長は〈黒〉の全員に〈異法〉を習得させること。必要な竜石を獲得すること。  俺がすべての言葉を理解したとたん、空中の文字は輝きながら崩れはじめた。きらきらと粉雪のように舞いながら落ち、集まって、宙に渦を巻きはじめる。俺は渦の中に巻きこまれた。レシェフの周囲で光る文字の粉が回転し、彼の表情が変わっていく。もっと尊大で、もっと冷たく、もっと―― (ひさしぶりですね)  声がきこえた。何度も聞いた声だった。俺は反射的に立ち上がろうとしたが、動けなかった。これは眠っている時の夢じゃない、そんなふうに俺の中で抗議があがる。この部屋を訪れたのが夢であるはずがない。 (おやおや。長いあいだ話しかけなかったものだから、おまえは焦っている。私を忘れたか?)  口調が以前とちがうような気もした。しかし声色は全くおなじ、さらにこの雰囲気も――尊大で冷たく、俺がただの道具にすぎないといいたげな言葉の調子も、全部おなじだ。 (おまえがここまでたどりついて、ほんとうに嬉しい。手をかけた甲斐があるというものです。竜の爪は磨かれ、準備は整いつつある。おまえには為さなければならないことがある。覚えていますね?)  俺は唇を動かそうとした。これに続く言葉を止めるためだ。そうしないとこいつは、あれを告げてしまう。いつものあれだ。止めなければ。  焦った俺を眼の前の白い顔が嘲笑った。渦を巻く光る粉が筋となり、また文字をかたちづくる。文字は横に展開し、俺のひたいにはりつき、両眼を覆った。俺は眼を閉じようとした。俺を呪うあの言葉、何度も繰り返し意識に刷りこまれた言葉を見ないように。 『彼を殺して英雄になりなさい』  俺は両手を広げ、顔を覆った。とたんに文字は剥がれ、輝く粉はまた渦になり、蛇のようにくねくね動きながら一直線に前方へ飛んだ。みつめるうちに差し出された白い手のひらへ吸いこまれ、元あったような、白いキューブの形になった。 「以上です」  レシェフがいった。俺はまばたきした。人好きのする顔が俺をみつめ、にこりと笑う。俺はひざまずいたままだ。 「勅書はあなたの指輪に格納してください。その法道具、いいですね。指輪型とは珍しい」  俺はうなずき、立ち上がって白いキューブを受け取った。レシェフの手は白く細く、赤ん坊のように柔らかだった。このキューブ以外ろくに物を持ったことのなさそうな手だ。 「〈黒〉という部隊の性格上、あなたの大々的な任命式典を行えないことを陛下は残念に思っておられます。陛下は〈黒〉がお気に入りなのです。先代の団長は残念でした。ですがいま、陛下はあなたを任命できたのをたいへんお喜びです」 「ああ……」  俺の喉はからからに乾いていた。〈使者〉の顔におかしなところなど何ひとつない。さっきの「声」の気配もみじんもない。  俺は指輪を回し、他の〈地図〉と一緒に勅書を格納した。レシェフはにこやかにいった。 「またお会いしましょう。今度は城壁都市で」

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