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【幕間】回り道
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薔薇園での最初の出会い、十四歳のアーロンの目線から。
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「アーロン、退屈しているな?」
所在なく壁のレリーフを眺めていたアーロンは、背後から不意打ちのようにかけられた声に飛びあがりそうになった。ふりむくと愉快そうにきらめくルーの目と目があった。
「アーロン」
たしなめるような父の声がルーの向こうから響いたが、ルーはにやっと口元をあげ、アーロンの肩をぽんと叩いた。
「そういうな、無理もないさ。我々の話など面白くないだろう。屋敷の中でも庭でも、好きに見て回りなさい。そうだ、あとで辺境の土産を見せてやろう」
「おい、ルー。甘やかさんでいいぞ」と父がいう。
「甘やかしてなどいないね」
「おまえはまだ子供がいないから……」
「おまえの口うるささも変わりないぞ、ヴォルフ」
母のクスクス笑いがその声に重なった。アーロンの父とルーは親しい友人同士で、知り合ったのは今のアーロンと同じ予備学校時代だという。さらに父が士官学校生だったころ、このルーの屋敷で母と出会った。ふたりとも、帝国軍関係者が集まる小さなパーティに両親とともに招かれていた。
アーロンが父母とルーの屋敷を訪れるのは初めてではなかったが、今日の訪問がこれまでとちがうような気分がするのは、そんな出会いの経緯を母に聞かされたせいかもしれない。あるいは予備学校の寄宿生活を通してアーロン自身が成長したせいかもしれなかった。
もっとも屋敷についたあと、そんなふうに「ちがう」印象を受けたのは最初の数分だけで、その後は大人たちの話に集中するのが難しかったのはたしかだ。
アーロンの父が咳ばらいをする。
「アーロン、規律と節度を守れ」
「はい、父上」
アーロンはテラスから庭園へ出た。
父のルーへの信頼は厚かった。自分に万が一のことがあった時はルーを頼りにしろ。軍の任務で帝都を長期で留守にする前に父はよく母にそう告げていた。
今日の訪問はルーが辺境任務を完遂して帝都へ戻ったのを慰労するためだ。ルーの帰還は数週間前のことだが、そのころはアーロンの父も多忙だった。春の終わりの休日のころやっと時間ができ、アーロンも寄宿舎から一時屋敷に戻ったので、父は訪問によい頃合いと判断した。
もっとも近ごろのアーロンは父の行動を通して権力と情報の力学を学びつつあった。このような訪問でかわされる会話がただの「慰労」に終始するものではないことにも、うすうす気づきはじめていたが、しかしそれは未だ、大人の世界の話だ。
十四歳のアーロンにとって、予備学校と寄宿舎の外にある世界は遠かった。最近は〈法〉の基礎を学ぶことが面白く、習得しつつある技能をためすのに夢中だ。予備学校の成績は上々で、クラスの学友や後輩に慕われているものの、休暇をともにすごしたいと思うほど親しい友はいない。
父とルーの親しさはアーロンにはいささか不思議なものだった。父と母の出会いに至っては、実感どころか想像もできないようなところがある。
自分には何か大きく欠けているものがあるのではないか。アーロンはたまにそんな気分に陥ることがあった。といって「足りない」ものがある――とは思わない。いや、仮に足りないものがあるとしても、何が足りないのか見当もつかないのだ。
今やりたいことはあり、この先の目標もある。アーロンは父のようになりたかった。高度な〈法〉を習得し、竜を駆り、父のように尊敬される軍人になりたい。その過程で、両親のような出会いがあれば――もちろんそれには憧れる。
きっとそんなことをぼんやり考えていたから、薔薇園へ入りこんでしまったのだ。
アーロンの母はルーの薔薇が好きだった。ルーはそれを知っていて、一家がルーのもとを訪問することはめったになくても、切りたての薔薇がときどき母に届く。父はもちろんそのことを知っているが、三人の長いつきあいのおかげか、彼らにとって薔薇は特別な意味をもたないらしい。
ルーの薔薇園は広く、満開の花が咲き乱れる様子はうるさいほどだった。余分な花を切って送っているだけと説明されればたしかに納得できる。いつものアーロンなら手当たり次第に花を手折るようなことには興味をもたない。そんな彼すら、これだけ咲いていれば、多少花びらをむしってもわからないだろう――と考えてしまいそうなくらいの薔薇が咲いている。
アーロンに先回りするかのようにハナバチが耳元をかすめて飛んだ。目当ての大輪の中央で花粉にまとわりついている。
アーロンはふらふらと小路を歩いた。薔薇園をめぐる道は庭園の他の部分とは異なり、迷路じみている。蔓薔薇をからませた垣根でところどころ視界が遮られ、似たような大輪に囲まれて方向感覚が狂う。薔薇園の外へ出ようとしたはずなのに、同じ場所をぐるりと回っていただけと気づいたのはこれで二度目だ。
出口はどこだろう。
ふいに強い風が吹き、蔓薔薇の葉をゆらした。これまで気づかなかった生垣の切れ目にアーロンは足を向ける。抜けたところはやっと通り抜けられるくらいの狭い踏み固められた道で、庭師が薔薇の手入れをするためのものかもしれない。
左右の薔薇の木の棘が袖をひっかきそうだ。真紅や橙の大輪がアーロンをみつめていて、道をたどるうちに息苦しいような、どこかぞっとするような気分が押し寄せてきた。虫の羽音も消えて、ひどく静かだ。アーロンは急ぎ足になった。薔薇の棘につかまることを恐れるように道の出口をめざす。
また風が吹いた。風は前方の通路の切れ目からふわりと流れてアーロンの前髪を揺らす。薔薇とはちがう匂いがする。数歩でアーロンは通路の出口に立っていた。ベンチに座る背中に気づいたのはその瞬間だ。
白薔薇の花びらを思わせるシャツがまっすぐ視界に飛び込む。その上に伸びた首はしなやかで、黒髪が風に揺れた。またふわっと風が吹き、何かが香った。はっとしてその場に立ち尽くしたのと、ベンチに座る背中がふりむいたのが同時だった。
アーロンと同じ年頃の少年だった。指を風の中につきだしている。また風が吹き、白い顔のまわりで黒髪が舞った。一瞬きらりと金色がみえたような気がして、アーロンはまばたきをした。少年はアーロンと同じように困惑した目つきでこちらを凝視している。
アーロンの口の中は急に乾き、耳の中で血流がどくどく鳴った。どうしてこんな風に心臓がどきどき鳴るのか、自分でも理由がさっぱりわからない。少年の方もまばたきをした。信じられないものをみたような目つきだった。
どのくらいみつめあっていたのか。
「すまない。誰もいないと思ったんだ」
アーロンがやっと口に出すと、それが合図かのように呪縛が解けた。少年が唇の両端をあげ、小さく笑ったのだ。
「いや。俺も逃げてきたんだ」
アーロンは眉をひそめた。
「逃げて?」
「おっかない連中から」
ますます怪訝に思ったとき、離れたところから「エシュ! こんなところにいたんですか!」という声が響いた。ずっと先から声をあげたのはお仕着せ姿のルーの使用人だ。のしのしと少年の方へやってくる途中でアーロンに気づいた。
「これはアーロン様。失礼しました。エシュ、こちらはヴォルフ様のご子息です。あなたが編入する予備学校に進んでおられます」
「ヴォルフ――ああ、帝国軍のか。ルーの友達だろ」
エシュ、と呼ばれた少年はアーロンの方へなかば体をむけ、さらりといった。高くもなく低くもない心地よい声だった。ベンチから両足をおろして立ち上がり、腰に両手をあてて伸びをした。たったそれだけなのに奇妙に惹きつけられる動きだった。
「ヴォルフ様もルー様も、呼び捨てにするような方じゃありません!」
使用人はこちらへ向かいながら眉をいからせて大声を出す。
「ハイハイ」
「エシュ!」
足元で小石が鳴った。少年がアーロンの方へ一歩足を踏み出した時に砂利が飛んだのだ。不敵な笑みと眸の輝きに惹きつけられて、アーロンは自分でも気づかぬうちにまたも相手をみつめ続けていた。
「俺はエシュ。山地から来た。ルーに引き取られたんだ」
少年がいった。引き取られた? それでは養子になったのだろうか。配偶者がいないルーに父が養子をとるよう勧めていたのは知っていた。
「……そうなのか。俺はアーロン」
やっと名乗ることができて、ほっとした。
エシュはかすかに眉を動かした。
「アーロン」と名を繰り返す。「モーセの兄か」
「え?」
「悪い、ひとりごとだ」
エシュはにやっと笑った。愉快そうな、人の悪そうな、いたずらをたくらんでいそうな笑顔だ。またベンチに座り、横を叩く。
「座るか? アーロンはここで何をしてる」
「ああ、その……ルー様に好きに見ていいといわれて」
「じゃ、このあたりを案内しようか?」
「エシュ、何をいってるんですか」
ついにここまでやってきた使用人がふたりの前で呆れたようにいった。
「逃がしませんよ。編入まであと少しなんですからね!」
編入とは? 話の見えないアーロンの前で少年は快活な笑いをあげる。
「マール、マナー講習ならさんざんやっただろ」
「まだまだです。そんな言葉遣いでは予備学校や士官学校で上流の方にどう思われるか」
アーロンは使用人とエシュを交互にみた。
「予備学校?」
「そのうち編入するんだ」エシュが答えて、小さくため息をついた。
「山だしの俺が軍人になるには予備学校から士官学校へ行くしかないって、ルーがいうんだよ」
「今のままだと試験の成績がいくら良くても面接で落ちますよ」
「へーい」
「まったくもう……」
使用人は腕を組んでエシュをじろっとにらんだが、きつい口調とは裏腹に愛情のこもった視線なのをアーロンは見逃さなかった。マールと呼ばれたこの使用人にアーロンはこれまで何度か会っている。ルーの屋敷の家政を取り仕切る者のひとりだ。
「仕方ありませんね。アーロン様をご案内するというのなら、その後でもいいでしょう。そのようにルー様にお伝えします」
とたんにエシュに笑顔がうかぶ。
「え、ほんと? ご配慮くださってありがとうございます」
唐突に礼儀正しい言葉に切り替えた少年へ使用人はしぶい表情を向けた。
「逃げたら今度こそ容赦しませんから」
「逃げませんって」
使用人は太った体を揺らしながら一礼し、行ってしまった。アーロンはまたエシュとふたりきりになり、静けさが戻ってきた。背後から薔薇の香りが漂ってくる。気づくと目の前の相手はしげしげと自分をみつめていた。薔薇の木のあいだをぬけて最初に彼をみつけた時とおなじくらい、長い凝視だ。
アーロンはみじろぎした。エシュの唇がかすかにうごいた。
「おまえが『彼』なのか?」
「え?」
アーロンはみつめかえした。何のことだろう?
しかしエシュは言葉を打ち消すように首をふった。
「悪い、ひとりごとだ」
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