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【幕間】花束
士官学校進学を目前にしたエシュに、養父のルーが命じたのは……。
*
「エシュ、涼しいうちに庭園の薔薇を選んで、花束を作ってくれ」
夏の朝、朝食を食べながらルーがさらりと命じた。
俺は予備学校を卒業したばかりで、士官学校入学を控えルーの屋敷に戻ったところだった。休暇が明ければまた士官学校の寄宿舎に入るわけだが、これは帝国軍人になるための正式な一歩だから、予備学校に入る前に色々仕込まれたようにこの夏もいろいろ詰め込まれるにちがいない――と多少身構えていたのだが、最初の注文がこれなのは予想外だった。
俺はぽかんと口をあけ、オウム返しに答えた。
「花束?」
「パティに贈る花束さ。そろそろ本格的に暑くなるから、その前に」
パティというのはヴォルフの奥方で、つまりアーロンの母上だ。しかし俺はまだルーの話の意味を理解していなかった。
「どうして?」
きっとわけがわからないという表情をしていたのだろう。ルーは合点したらしく、にやりと笑った。
「そういうものだからさ。帝都 では上流 は友人や恩のある方へまめに花を贈る。親しい友人にも機会があれば贈る。代々受け継いだ屋敷に立派な庭園をもっているのに、花をひとりじめしているのは野暮だと思われる」
上流の作法。そう聞くと納得はして、洒落た習慣だとも思ったが、すぐに次の疑問が生まれる。
「でもなんで俺が?」
「パティは私の花束にはいいかげん飽きている。おまえが用意したとカードに書きたいんだ。きっと喜ぶ」
「でも俺は花束なんて作ったことないし……どうやればいいのかもからきし……」
「ずいぶん臆病じゃないか、エシュ」
ルーはにやにやと意地悪い笑顔を浮かべた。
「私について帝都に来て、編入試験を受けることになった時の、あの勢いはどうした? 花束の作り方くらいすぐにマスターするさ。パティはずっと、私の息子から花束をもらえる日が来ると期待しているし、私はあの二人の息子から前に花をもらっているから、そろそろお返しをしないとな」
「それ、まさか……」
俺はおそるおそるたずねた。
「アーロンが花を?」
「ああ、そうだが?」
ルーは変なことでもあるのか、といった様子で俺をみた。
「予備学校に入る前にもらったんだ。なかなか良い趣味だった。どの薔薇ならいいか、庭師が要領を知ってるから聞きなさい。きれいな花束が作れるかが将来を左右することもあるからな。エシュも慣れるにこしたことはない」
「将来だって?」
俺はますます驚いてたずねたが、ルーはこともなげにいった。
「もちろん求愛のためだが……おっと、山地にはその習慣はないかね?」
求愛に花束を贈る習慣だって? まったく、上流のたしなみというやつは。俺は首をふったが、ルーは平然と「山地にも花は咲くだろう?」という。
「それは……そうだけど、ここの庭みたいな薔薇は咲かないし、花束なんて……」
ルーはまたにやにや笑いをうかべた。
「だったらなおさら学ばなければ。エシュもいずれ、私に一生の相手を紹介しにくるだろうからな」
帝国の上流階級――貴族や代々続く軍人家系――には、独特の伝統だか習慣だかがあるらしい。
たしかに俺が帝都へ来てからルーに連れて行かれたいくつかの屋敷は、すべて独自のコンセプトを貫く庭園を誇っていた。ルーの屋敷が薔薇を誇るように、百合やクレマチスが専門だとか、水生植物に凝っているとか、日の当たる中庭にガラスのテラリウムがずらりとならぶとか。
自慢の庭園がなくとも、花屋で生花を注文して自分で花束に仕立てるのは男女問わず帝都の上流階級にとって必須の教養だなんて、その時まで俺はまったく知らなかったが、つまり生け花の免許を持っているようなものだろうか。
俺が育った環境には観賞用の花を育てる習慣はなかった。
というわけで、薔薇園で庭師が俺にひととおりの説明をして去ったあとも俺は途方にくれていた。切って水につけるとか、棘を切るといった細かいことに加え、どんな花を選ぶべきなのかも教えてもらったが、その上で好きな薔薇を――色だの形だの、何種類もある――選べといわれても何もかもぴんとこないのだ。
だいたい俺はこの世界では山育ちだし、前世の記憶も中途半端な地方出身者のもので、ありきたりのセンスしか持っていない。作法や話し方は詰め込み教育でなんとかなっても、こいつは……
「竜ならすぐ選べるんだがな。いいやつを」
俺は薔薇園のベンチに座っていた。庭師が用意したお道具一式を前に、鋏を握ってぼやいたときだ。
「エシュ?」
すぐうしろから声をかけられ、俺は飛び上がりそうになる、いや、実際にすこしばかり飛びあがった。
「アーロン! なんでこんなところに?」
「ルー様に、士官学校へ進学が決まった報告にきた」
「そんなのわざわざ来なくても、ルーにはわかっているだろう」
「ルー様には小さい頃からお世話になってるし、父も報告くらいひとりで行けというんだ」
今日のアーロンは私服姿だった。俺と一緒に予備学校を卒業したのだから当然ではある。私服のジャケットもズボンもぴしっと折り目が効いている。
「エシュはいるかと聞いたら屋敷の人がこっちだと。薔薇を摘むのか?」
アーロンが手元をみているのに気づき、俺はあわてて道具箱の上に鋏を置いた。アーロンはすっと俺の隣にくると、何のためらいもなくベンチに座った。予備学校でもそんな感じだった。アーロンは自然に俺に距離をつめてくる。
「花束を作れってルーがいうんだ」
アーロンが目で催促するので、俺はしぶしぶ答えた。
「ルー様が?」
「おまえの母上に贈る花だよ」
「ルー様の薔薇は母のお気に入りだ。エシュが作った花束ならなおさら喜ぶかも」
アーロンまでそんなことをいうのか? 俺は頭を抱えそうになった。
「アーロン、俺は花束なんて作ったことはないんだ」
「どうして?」
今度はしらっとそんな返しをするな、都会育ちの上流野郎め……なんてことは口に出さなかった。俺の頭にはりついていたのはルーのにやにや笑いだった。俺はいまだに時々、ルーに対する自分の感情や態度を整理しかねていた。
あの時ルーに拾われなかったら俺は帝国軍に無茶な歯向かい方をして、実の父のように死んでいたかもしれない。でも父が死んだそもそもの原因は帝国が山地へ侵攻したからで、ルーもその作戦立案に関わっていた――かもしれない。
そんなことを考えてしまう一方で、俺はルーに認められたかった。ルーが俺を拾ったのはちょっとした気まぐれかもしれないが、まぐれあたりの拾い物をしたと思われたいとか、とにかく俺はできるんだといいたいとか……そんな気持ちが竜の目のようにぐるぐる回ってしまうのだった。
「予備学校へ入る前にアーロンが持ってきた花束は良かったって、ルーがいってたぞ」
「え?」
意外なことにアーロンは視線を明後日の方向へそらした。
「都会育ちは趣味がいいんだろうな。俺はどうしたらいいのかわからなくて、困ってる」
「でもあの時はちょっと……」
アーロンは口ごもった。これも珍しい。
「ちょっと?」
「母にかなり手伝ってもらったから、本当にルー様がそう思っているのなら……」
居心地悪そうに頭をふっている優等生をみて俺はすこし安心した。上流生まれ、都会育ちでも、子供のころから何でもできるスーパーマンじゃないらしい。俺は薔薇のしげみに目をやった。
「それでも俺よりはずっとコツがわかってる」
「そうかな」
「当たり前だ、俺は山地から来たんだぜ。おまえはどの薔薇を選ぶ? どんな組み合わせにする? よかったら手伝ってくれ」
「手伝う? いいけど……」
アーロンの表情が急に真剣になり、大輪の薔薇の上を泳いだ。
「エシュ。どの花を切っていいか、知っているか?」
「ああ。さっき教えてもらった」
「それなら」
アーロンは立ち上がり、薔薇のしげみへと歩いて行く。しめたと思いながら俺は彼の横へ並んだ。アーロンは淡いピンク色の花が咲いている薔薇の木からまだ堅い蕾がついた花枝を何本かえらび、次にいくらかひらきはじめた別の薔薇――花びらのふちが紫がかった濃いピンクの花を選んだ。
俺はほっとしてアーロンに従った。ズルをしたことになるのかもしれないが、アーロンだって「はじめての花束」ではズルをしたといえなくもないし、ルーにはいわないでいてくれるだろう。
ひらきはじめた薔薇からなまなましい甘い匂いが流れ出た。朝の涼しい風の中に夏の日差しがさしこんでいる。
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