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【幕間】雲の上

「19.挑発する風」で登場した寄宿舎対抗試合「飛翔と走駆」のあとのエピソード。    *  厩舎に一歩入ったとたん独特の匂いに包まれる。竜の匂いは犬や猫や他の獣の匂いとはちがっている。金臭いような、焦げ臭いような匂いだ。竜の排泄物や呼気に含まれる物質のためで、来るたびに異質さを実感させられる。 「エシュ?」  アーロンが呼んでも友人の応答はきこえなかった。  厩舎の中は薄暗い。夜はまだ明けたばかりだ。それでも友人はここにいるという確信があった。いちばん近い囲いの中で竜の羽根がバサッと動く。止まり木からぶら下がる一匹の光る目がアーロンをみつめ、ゆっくりまばたきする。  この生き物は何を感じて――考えているのだろう。アーロンの胸中をいつもの疑問が通りすぎる。友人の気配は竜の存在感のなかでは感じとれなかった。士官候補生の騎乗竜にすぎなくても、竜の一頭一頭が醸し出す雰囲気は匂いとおなじくらい独特のものがある。  はじめて竜に触れたときから何年たっても、アーロンはこの異質さに慣れなかった。しかし友人には竜が苦手だと思われたくない。場数を踏んでこの違和感が消えるのなら、早くそうなるにこしたことはない。友人はアーロンとは逆で、しょっちゅう厩舎にいりびたっている。放課後や早朝にエシュを探したければ厩舎にいけばいい。士官学校の一年目が終わるころ、アーロンはそう悟っていた。  竜の異質さが苦手だといっても、アーロンは士官候補生の大多数よりは竜に慣れている。父のヴォルフは予備学校へ入る前から息子のために竜の調教師を雇い、騎乗を覚えさせた。はじめて一人で竜の背に乗ったのは十三歳の頃で、自分で鞍を乗せることもすぐにできるようになった。  しかし竜を扱えるようになっても異質な感じは消えなかった。獣や、他の生き物全般が苦手というわけでもないから、自分でも不思議だと思う。帝都生まれだから仕方がないのか、あるいはエシュの方が特殊なのかもしれない。彼は辺境の山地の出身で、生まれた時から竜と一緒だったという。  友人が竜を愛おしそうにみつめる視線はその事情によるものにちがいない、とアーロンは考えることにしていた。軍人の多くは多かれ少なかれ竜と関わることになるが、父をはじめ、アーロンの周囲にいる大人たちは自分の竜にもそこまでの思い入れはしない。士官学校で候補生に竜の騎乗を教えているサデク教官は軍人ではなく竜の調教師だ。  おそらく竜への思い入れに通じるものがあるのだろう、サデク教官は明らかにエシュを気に入っていた。エシュがよく厩舎にいるのはそのせいかもしれない。それについこの前の寄宿舎対抗試合「飛翔と走駆」でエシュは全員をふりきって圧倒的な勝利を獲得したから、気に入られるのも不思議はない。  実をいうと、エシュがそんな風に自分以外の人間と親しくしているのをアーロンは心の底から喜べなかった。そんな風に感じるのが理不尽なのはわかっている。エシュは他の士官候補生と出身が異なるし、言動もすこし変わっていて学内では悪目立ちした。予備学校にエシュが編入した時から、アーロンは他の生徒がエシュに妙なちょっかいを出さないようそれとなく周囲を牽制していた。強く意識してやったことではなかった。単にエシュに不愉快な思いをさせたくなかっただけだ。  それなのに、アーロンはエシュが自分以外の誰かと楽しそうに話していたり、自分がひそかに苦手にしているものへ強い興味を抱いているとなんとなく面白くなかった。それでもエシュが興味を持つ対象に自分が嫉妬しているとは認めたくなかった。エシュはアーロンが知るほかの誰にも似ていないから、きっとそのせいなのだ。このごろアーロンはそう考えるようになっている。  厩舎の奥で竜が鳴いた。クワッゴロゴロ、という響きはアーロンをぎょっとさせたが、続いて笑い声が響いたのでエシュの居場所がわかった。 「ここにいたのか」 「お、アーロン」  竜の首がにゅっと伸びてエシュの顎にかすっている。噛まれるのではないかとアーロンはハラハラしたがエシュはケラケラ笑っただけだった。 「拗ねるなよ。ご褒美はそのうちやるよ。サデクに頼んでみるからさ」  話しかけているのは竜に対してだ。 「褒美?」 「おまえに勝った褒美だ」  エシュは竜の頭を囲いの内側へ押し返し、アーロンに向かってにやっと笑った。ぼさぼさになった髪を両手でかきあげる。色のないひと房がエシュの指を逃れて目の上へ垂れた。 「おまえと競ってたとき、手ごろな熱気泡が近くにあった。あれに乗ったらもっと高いところへ行ける。でも試合の途中にコースを外れられないからな。それでこいつに約束したんだ、勝ったら飛ぶってさ」  寄宿舎対抗の「飛翔と走駆」は竜の騎乗技術を競うものだ。竜に乗って地上の迷路から空中の飛翔へ、そしてまた地上へ降りて疾走へと続くコースが決まっている。ルールに沿った競争だから、先着すればよいわけでもなく、審査には技術点も加わる。そうはいってもエシュの飛翔タイムは圧倒的で、誰もかなわなかった。  しかし今アーロンが気になったのはべつのことだ。 「熱気泡だって?」 「ああ、少しあがるだけで、いい感じのが」 「エシュは……」  思わずためらってしまったのは、そんなことができるなど信じられなかったからだ。 「ほんとうに風が見えるのか?」  あいつは風が肉眼でみえるように飛ぶ。飛翔の授業でそういったのは教官のサデクだった。彼の言葉をきいた生徒が声高に話しているのをアーロンは聞いたのだが、今のエシュの口調を聞くと本気にしたくなってしまう。  熱気泡は太陽に温められ急速に上昇していく空気の塊だ。騎乗竜をはじめとした高所を飛べる竜は、上昇気流に乗るまでこんな熱い空気を足掛かりにする。羽ばたきと噴射で熱気泡をつかまえ、階段を上るように大気を駆け上がるのだ。 「アーロン、何をいってるんだ」  エシュは一瞬目をみひらいたが、すぐにまたケラケラと笑った。 「空気が見えるわけないだろうが。勘っていうか、わかるんだよ。太陽の高度とか、風向きとか、そういうやつで。俺は山地生まれだからな。風が読めないとあそこじゃ暮らせない」 「風を読むのか」  アーロンは素朴に聞き返した。帝都の人間は口にしない言い回しだった。 「ああ、まあ――そんなふうにいう」  どうしてなのか、エシュは急に居心地悪そうな表情になった。 「それはそうと、アーロンはどうしたんだ? せっかくの休みなんだからこんな時間に起きなくても」 「エシュを探していたんだ」 「俺?」 「窓から見えたから」  アーロンの寄宿舎は白群(びゃくぐん)で、エシュの紅鳶(べにとび)と中庭をはさんで向かいあっている。夜明けの薄明かりのなか、エシュが厩舎の方へ歩いて行くのを寝起きのアーロンはたまたま見かけた。せっかくの休日にとエシュはいったが、それはこっちもいいたいことだ。たまには他人がいないところで友人とゆっくり話をしたかった。とはいえ何の話をしたいというわけでもなかったので、逆にたずねられると話題に迷った。 「一昨日の試合」  最初に頭に思い浮かんだことを口に出したとたん、エシュは親指を立てる。 「再対決はなしだ。舎長がトサカを立てる」 「ちがうちがう、そうじゃない。そうじゃなくて……」  アーロンは囲いの竜をみあげる。エシュと話しはじめたとたんに竜は興味を失ったようで、止まり木に戻って水を飲んでいた。 「試合は楽しかったけど、一度は勝負と関係なくエシュと飛びたい。教官に許可をもらって」 「お、それはいいな」たちまちエシュは輝くような笑顔になった。 「おまえは優等生だし、一緒ならサデクも許可してくれそうだ。こいつで飛んでいいなら褒美にもなるし。おまえの竜はどうする?」 「俺は……まあ、とにかく許可をとってみよう」  アーロンはあいまいに濁した。アーロンはエシュのようにそれぞれの竜の個性をつかめていない。早まったかもしれないと思ったが、エシュの本気の笑顔をみると嬉しくて、何もいえなくなってしまう。 「二人乗り(タンデム)?」 「ああ、タンデム飛行として許可を出す。役割を決めておけよ。時間外飛翔研修にしておくから報告書も書くように」  教官が告げた条件にエシュの眉があがったが、すぐに片手をあげ、アーロンと同時に敬礼をする。 「了解いたしました! ありがとうございます!」  正午までまだ二時間はあった。風にはすこし湿り気があるが、空は高く晴れている。タンデムの鞍は重く、ふたりがかりでければ竜に装着できなかった。しかしエシュはコツをつかんでいて、いったん鞍を置くとすぐ、てきぱきと竜のハーネスを締め、安全装置を確認した。 「アーロン、どっちにする?」  エシュは竜の頭と尾、それぞれへ向いた鞍をさす。頭を向いた方(トップ)が竜に指示を出し、尾を向いた方(ボトム)はナビゲーターとしてトップにいる者に指示を出す。 「エシュは?」 「俺はどっちでもいい。トップの方が竜に指示しやすいが、ボトムの方が竜の気分がわかるときもある。あとは……そうだな、ケツのほうが風は読みやすいか」 「じゃあ俺がトップだ」  アーロンの答えにエシュの眸が挑発的に光った。  士官学校の飛翔台から帝都の郊外をめざして飛び立つ。二人を背に乗せても竜の翼は元気よく羽ばたき、なめらかに空中へ飛びだした。エシュは細かく方向の指示を出した。教官ですらここまで細かくないとアーロンはいぶかしく思ったが、エシュのいった方向へハーネスをひくだけで、竜は自然と従おうとする。その方が飛びやすいからだ。 『いい風だし、いい眺めだ』  まうしろにいるエシュの声が通信機から流れた。耳に直接ささやかれているような気がした。竜がこたえるように翼を動かし、大きくゆるい旋回に入る。 『いい子だ』  エシュがちいさく口笛を吹く。竜の機嫌はこれでもっとよくなったようだ。自分ひとりで飛ぶより、今の方がずっと楽なのにアーロンは少し驚いていた。タンデムの授業でこんなことは思わなかったからだ。 『帝都の道は面白い』エシュがぼそっといった。 『全部たどりたいな。楽しそうだ』 「たどるって、歩いて?」アーロンは聞き返し、エシュの返事を耳の中で受け取る。 『こうして見下ろした道を歩くのが好きなんだ。地図を片手に……征服した気分になれる』 「〈地図〉は支配の〈法〉だ。征服はもとより――」 「アーロン!」  いきなり肉声が聞こえた。エシュが首をねじるようにしてアーロンの方へ顔をおしつける。耳のした、うなじに近いところで彼の声を感じる。 「熱気泡がある。上に行くぞ」 「え?」  エシュがまた口笛を吹いた。竜の目がぐるりと動き、鞍を置いた体が一度うねって、急激に角度を変え、上昇をはじめる。翼が下から持ち上げられたようにふわりとひらめいた。上昇にともなってアーロンの頭はうしろへ倒れる。 「うわぁっ」  思わず声をあげてしまったが、竜はまだ上へ向かっている。竜の体が震え、軽く噴射して得た推進力と暖かい空気に支えられて、あっという間に上へ、上へ―― 『ヒュー!!』  通信機からエシュの口笛がきこえたが、今度はただの感嘆らしい。アーロンの頭の角度は元の水平に戻り、みおろした帝都はさっきとはくらべものにならないほど小さかった。風圧が頬を叩き、うすい雲の層が竜の翼をかすめるのがみえた。  アーロンはぶるっと身震いした。飛翔服や帽子に包まれた部分は温かいが、むきだしの皮膚が触れる大気は冷たい。さっきエシュが「たどってみたい」といった道は、この高さからみるとレース編みの模様のように細かかった。 『気に入っただろ? ここまで来たかったんだな』  エシュは竜に語っているのだった。竜が上機嫌きわまりないのはアーロンにもわかった。感情の動きが鞍の下やハーネスからも伝わる。  なるほど、エシュはこんなふうにやっているのか――不意にアーロンは何かを納得、あるいは体得したような気持ちになった。これまで異質でよそよそしいと感じていた竜の本質に、ほんのすこしだけ触れたような気がしたのだ。  アーロンは首をまわし、エシュの方をうかがった。友人も横を向いていて、うまいぐあいに目があった。だがエシュの眸はアーロンを通りこして、先のなにかを捕まえているようだ。  いったい何を?  エシュの視線がかすかに動いた。竜の翼と、アーロンの首筋へと。突然友人が見ているものをアーロンは理解した。皮膚を覆う雲の湿り気、斜め上からさす日の光、産毛を揺らす空気の動き。  エシュは風を見ているのだ。  友人の眸の焦点がゆっくり戻り、アーロンをみつめてにやっと笑った。 「いい風だな、アーロン」

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