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【幕間】雨傘
軍大学に入ったばかりのアーロンとエシュ、十八才。
*
空は雲に覆われて真っ白だ。凝視していると白の中にグラデーションがあらわれ、ゆっくり動くのをとらえられる。雲に覆われていても北の空は明るい白色だが西には灰色の雲の層がある。俺が感じる風はまだ弱い。でも北を向いて吹き、たぶん上空ではもっと速い。灰色の雲はこちらへ向かっている。
それが図書館へ入る前に俺が見た空だった。思ったより手間取って、出た時は空は灰色一辺倒、これはいつ来るかと思ったのも数秒で、ポーチから出たとたん舗道にぽつりと濡れ色が落ちた。つづけてぽつりぽつりと雫がおちる。やれやれ、どうするか。荷物は肩にかけた防水鞄におさまっているが、誓ってもいい、この雨はだんだんひどくなる。そしてそこそこ長く続く。
「エシュ、どうした?」
アーロン。俺は屋根のあるポーチに一歩さがり、同じ軍大学の制服を着た男を見上げた。
「いや。雨だ」
「そんな予定だったか?」
アーロンは呑気な顔でいった。そう、帝都出身の連中は天候について「予報」といわず「予定」ということが多い。帝都の天気は〈地図〉のおかげでほぼ外れない細かい予報が出るし、皇帝陛下がおなりになる式典がある場合は部分的に制御することもあるからだ。あくまでも帝都の中に限るが、おかげでこんな言葉を使うようになる。
「予定はしらないが、もっと早く出るべきだった。やまないぞ」
俺がそういっている間にも舗道の濡れ色が増え、はっきりした雨になった。
「そうか?」
アーロンはまた呑気に雲をみている。これだから帝都生まれは、天候に対する緊張感がまったくない。もちろん帝都ではこれが普通で、俺の方がおかしいのだが。
「大学寮まで濡れるくらい、かまわんさ」
「おまえはな。俺には傘がある」
やっと鞄の底から折りたたんだ雨傘をひっぱりだして、俺はぱちんと音を立ててひらいた。すでに舗道に雨粒が跳ね返るほどの降りになっている。布に雨が跳ね返る音を聞きながら俺はさっさと歩きはじめる。大学寮までの距離はそこそこある。傘がなければ走っていたかもしれない。アーロンはどうするか?
俺としてはクールに構えたかったのだが、くだんの男は急ぎ足になるわけでもなく隣を歩きはじめたので、俺は傘を斜めに傾けた。
「濡れたいか? それとも傘を持ちたいか?」
「悪いな」
アーロンはひょいと頭を下げ、俺の手から傘をとった。
「エシュが傘を持ち歩くなんて意外だ」
「どうして」
「どうして?」
自分からいいだしたくせに、アーロンはきょとんとした表情になった。
「なんとなく。おまえ竜に乗っている時なら濡れても気にしなかっただろう? だからかな」
「そんなの当たり前だ。あいつらに傘がさせるかよ」
「山地では傘をさすのか?」
「いや、山地でもささない。傘をさすのはとうきょ……」俺はそこまで喋ってはっとし、話を変えた。
「――竜に乗ってもいないのに雨傘をささないなんて、不合理だ。アーロン、おまえけっこう濡れているぞ」
傘のふちから落ちたしずくがアーロンの肩に散っている。前世の記憶が自然によみがえったのはたぶん雨の匂いのせいだ。俺が雨傘を持ち歩くのもこの記憶のせいなのか。ビルに囲まれた灰色の道にひらく透明な傘の列を思い浮かべ、俺は無意識に身震いする。
「寒いか?」
勘違いしたらしいアーロンがいった。
俺はそっけなく首をふった。案の定雨はけっこうな勢いになってきたし、この傘はひとり用サイズだ。舗道を跳ねる雨粒をピシャピシャ踏みならし、俺たちは黙々と歩いた。大学寮にたどりつくと俺はアーロンから傘を奪い返す。バサバサと水滴を払う俺をアーロンがじっとみている。
「なんだよ」
「いや……こうしてみると雨傘は竜の羽根みたいだと思って」
「そりゃ、こうもりって呼ぶくらい――」
俺はまた口をつぐむ。この世界では雨傘とは呼んでもこうもり傘とはいわないのだ。
どうも今日は口が滑る。雨のせいか。
「エシュ?」
俺はアーロンにこたえず、濡れた傘をぶらさげて自分の居住ユニットをめざした。なぜか頭の中でメロディが流れはじめたが、題名が思い出せない。これも前の人生で俺が知っていた歌か。雨にかんする歌だ。何かがしっくりこない、この世界からずれている、そんな違和感を歌っているくせに、メロディは呑気で前向きな感じで……ああ、気になる。
どうやら前世の記憶は体の記憶に結びついているらしい。前の人生でもこうして雨の中を歩いたことがあったのか。そりゃあるだろう。あるにきまってる。夏になる前の東京は雨の日が多いのだ。この季節をそう、梅雨という。居住ユニットの扉の前で俺はようやく歌の題名を思い出した。
「雨にぬれても」
うしろからアーロンの腕が伸びた。こいつはずっとうしろにいたのか。アーロンは俺の肩越しに重い扉に手をかけた。彼の髪からしずくがたれ、俺の首筋で跳ねた。
「エシュ、震えているぞ」
「ちょっと寒い」
俺はアーロンの腕を押しのけるように扉を引いた。他の居住者は今日もいないか個室にこもっているらしく、ユニットの中は暗かった。扉が閉まる音と同時にアーロンの腕が俺の肩にまわる。温もりにたしかな現実を感じて俺はほっと息をつき、支える腕によりかかったが、傘は俺の指をすり抜けて床に落ちた。俺のものでない呼吸がきこえる。唇までの距離が近すぎて、俺たちは手探りでキスをする。
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