34 / 111

【幕間】消去

城壁都市のサバティカルから帝都へ戻った後、〈黄金〉への配属がきまったころのアーロン(22歳)のひとこま。両親の屋敷にて。    * 「アーロン、本当によくやった。私はおまえが誇らしい」  父のヴォルフが何度目かのグラスをかかげる。アーロンも笑顔でこたえたが、父は酔いが回りすぎていないだろうかとすこしだけ気になった。しかしすぐ隣で母も満面の笑みをうかべているし、なにより今日はアーロンの〈黄金〉配属が決まったばかりの、家族水入らずのディナーである。父がいつもより杯を重ねているのも嬉しさのあかしだ。  知らせが来たのは昨日のことだ。城壁都市のサバティカルが終わり、軍大学の学期も残りわずかになっていた。アーロンは透明な皿で揺れる真紅のジュレをみつめる。竜石をイメージしたとシェフが告げ、ヴォルフは満足そうにうなずいた。給仕が静かにテーブルをまわり、温めた竜蜜を垂らしてデザートを仕上げた。  アーロンは金色のスプーンでジュレをすくいながら、ふと、こんなに上機嫌な父をみるのは久しぶりかもしれないと思った。ヴォルフは現在、帝国軍で最も重要な指揮官のひとりである。歴代の辺境制圧作戦のなかでもヴォルフが主導した作戦はたぐいまれな戦績を誇っている。以前の帝国軍にはもうひとり、ヴォルフと並び称される軍人、ルーがいた。ルーはヴォルフの盟友でもあったが、今は帝国軍を去っている。  ルーが軍籍を離脱する前、辺境に関する皇帝の意向をめぐって父とルーのあいだに激しい緊張があったことをアーロンはすこしだけ知っていた。この件について父は終始ルーに批判的で、母も含めて長年のあいだ親しい友人だったのに、ルーが軍籍を離脱した後は一切の関係を断ってしまったほどだ。あれから二年ちかくすぎたが、いまだに父はルーの名前を聞くと不機嫌に黙りこむし、以前より険しい表情になることが多かった。  ルーが去ったからそうなのか、他に原因があるのかと、すこし前までアーロンは父のそんな態度をいぶかしく思っていた。しかし今はそんな父に対して別の印象を抱いているし、自分がそう考えるようになったきっかけもわかっている。すこし前なら想像もしなかっただろうが、苦い別れは人を変えるのだ。  つまり自分もすこし変わってしまったのかもしれない。城壁都市から帝都へ戻ったあと、アーロンは一度もエシュに会わなかった。占拠事件のために各所から呼び出されたが、エシュの姿を視野にいれないよう注意深く行動した。  おかげでうっかりエシュをみかけ、胸の内側がつぶれるような、黒々とした感情に苛まれることは避けられた。ヴォルフとルーが断絶したために、軍大学を卒業したあとエシュがどうするつもりなのか、アーロンの耳にはすこしも入ってこない。このまま二度と会わない、そう決めたのだから、知る必要もない。  それなのにアーロンの中には大きな空虚が生まれていた。近頃は自分がエシュをどう思っているのか、自分でもよくわからなかった。それでも城壁都市から戻ったばかりの、あまりにも苦しかった時期は去ったとは思う。  なぜ、いつからこんな風になったのかを考えるのも最近は飽きたが、上機嫌な父に目をやると、エシュとの関係がこじれはじめた時期を思い出さずにはいられなかった。あれは父とルーが対立しはじめた頃だった。  エシュと意見があわないこと、それ自体はべつに珍しいことではなかった。  士官学校時代も軍大学も、戦略や政策をめぐってエシュとは意見がくいちがった。もともとエシュはアーロンには思いもかけない論点をもちだして、他の連中とはちがう話をする男なのだ。それでもアーロンはエシュの意見を聞いたうえで自分の見解を主張することを楽しんでいたし、有意義だとも思っていた。これはより深い結論へたどり着くための知的なゲームなのだ。  ところがいつからか、それはまともな議論にはならなくなった。さらにエシュは、アーロンを裏切りはじめた。  そのことを考えると、ふたたびどす黒いものが胸のなかに浮かんでくる。ぽっかりとあいた穴を埋める黒い感情を憎しみと呼びたくはなかった。すべては竜が悪い、近頃のアーロンの思考はそんな風に動きがちだ。士官学校でも軍大学でもエシュは竜のことになると目の色をかえた。騎乗竜や竜に関する〈地図〉や〈法〉でも、竜が関係していればエシュは興味を惹かれるのだ。  エシュのことを考えまいとすればするほど、アーロンの中に生まれるどす黒いものは「竜」へ行きつく。竜は人間の身近にいて人間に利用される存在であると同時に、ある種の悪の象徴でもある。人間のために存在するはずなのに、人間の意図を超えてしまうという悪。だからこそ帝国の神話は竜を退治し、支配することからはじまる。  自分自身の内側がだんだん硬く、強張っていくように最近のアーロンは感じていた。柔らかく繊細な部分が燃え尽きてかたくなで強い意思がそこに入りこむ。その意思が何をしでかすのか、今の時点ではまだわからない。 「そういえばアーロン、士官学校の後輩がいま行政大学にいるらしいな。サン・バトモスの……」  父の声にアーロンは我に返る。母がすばやくいった。 「セランのことでしょう?」  セランは士官学校のころ学生会の一員だった。卒業後は他の同期とちがい行政大学へ進学したが、たしかに最近のアーロンはセランと何度か会っている。城壁都市から戻ったあと、調べたいことがあって行政大学を訪れた時に再会したのがきっかけだった。つい先日この屋敷にも来た。  彼は士官学校のころも学生会の面々とここへ来たことがあったが、数年ぶりの再会に母はずいぶん感銘を受けたようだ。今のセランは怜悧な美貌とすらりとのびた肢体で、士官学校時代の印象とはかなりちがう。 「ええ、それが?」  アーロンは慎重に問い返した。ヴォルフはテーブルの向こうから、新しい酒を吟味するような目つきで息子をみつめた。 「いい関係なのか? サン・バトモスでは時々おまえのことが話題にあがるらしい。それとも知らないのは私だけか?」 「そう――いや、親しいとまでは」 「あら、そうなの?」  歯切れの悪いアーロンの返事に母が艶っぽい声で口を挟む。士官学校時代のアーロンにとって、セランは自分を慕う後輩以上のなにものでもなかった。だが、久しぶりに会った彼にはいささか驚かされたところもある。加えて、再会に驚いたのは向こうも同じだったようだ。  自分の雰囲気もまた変わったとアーロンが自覚したのは、きっとセランと話したせいだ。だからお互いに変わったことを確かめあい、あらためて友人になるくらいの関係ではあった。 「サン・バトモスなら何の問題もないな」  もちろん父はアーロンのそんな内心など知らない。 「とっくにつきあっているのだとしても反対はせんぞ。先方はどうもその気らしい」  アーロンは反射的に首を振ったが、両親の笑顔をみて、照れていると受け取られたのがわかった。どうも奇妙な感じがした。アーロンは父にも母にも、エシュとどんな関係なのかたずねられたことは一度もなかった。  アーロンは少年のころから何度もルーの屋敷を訪れていたし、エシュもここへ来たことがあった。それでもアーロンとエシュが友人以上の関係ではないかと詮索されたことは一度もなかった。ふたりきりになる場所をのぞけば、自分とエシュはあまりにも、横にいて当たり前の友人同士に見えたのだろうか。  セランはエシュとはまったくちがった。  今の関係では「つきあっている」など、アーロンもセランも到底いわないだろうに、周囲が勝手に思いこむのはどういうことか。いささか苛立ちつつもアーロンはすばやく分析した。セランは目立つし、自分もまあ、そうだろう。時々並んで歩いて話をする様子をみれば、人は勝手に計算するものだ。  城壁都市から戻って以来、失ったものに自分がどれほど打ちひしがれているのか、アーロンは誰にも告げなかった。城壁都市での活躍は大きな評価を受け、今回の〈黄金〉配属にもつながったが、その影で何が起きたか知る者はいないのだ。エシュ以外。  また胸がずきっと痛んだ。自分のなかにあって当然のものがなくなってしまっても、この空虚は他の誰にも気づかれない。そう考えると孤独が雷を孕む雲のように暗くアーロンの中に垂れこめる。この空白を埋められる人間などいるはずがない。もっと別のもの――別の目的――別の意思を探さなければ。 「まあ、何も急ぐことはないさ」  黙ったままのアーロンをどう思ったのか、ヴォルフはゆったりした声でいう。 「おまえはまだ若く、すべてはこれからだ。ひとまず、おまえの前にあるのは〈黄金〉の栄誉だからな」  アーロンは今度こそ力強くうなずいた。消えたものは二度と戻らなくとも、人生は支配できる。そう信じたかった。

ともだちにシェアしよう!