35 / 111

【幕間】果汁

軍大学卒業後〈黒〉へ加わったエシュのとある日常。辺境の湖沼地帯にて。    *  湖沼地帯の気候は人間にとって快適とはいいがたい。夏の晴れた昼間は強い日差しが水の上を照りつけるから、低空飛行する竜の背にいる俺たちはむっとする空気の中で汗びっしょりになる。日が暮れると気温は徐々に下がるものの、肌にまとわりつく湿った空気はなんとなく人間の機嫌を悪くする。これが湖沼地帯の夏の晴天である。  ところが低気圧が近づいてしとしと雨が降りはじめると、一転気温はぐんと下がる。たれこめた雲のおかげで太陽は何日も隠れたまま、灰色の水の上を飛ぶのは辛気くさくてかなわないし、妙にうすら寒くなる。やっと雨があがっても水面は静かで、他の生きものを感じられないせいか竜もなんとなく落ち着かない。あげくのはて、水面から突き出した枯れ木にびくついたりする。これもまた湖沼地帯の夏だ。 「まったく、ここは魚が旨いくらいしかとりえがないぜ」  ティッキーがカウンターの前にいる俺の隣にのしのしとやってきて、いきなりそんなことをいう。ここは小規模な基地なので食堂もこじんまりしているが、明るくて清潔だった。ずらりとならぶ大皿に盛られているのは数種の魚のフライで、形も色もさまざまだ。  この地の特産は湖の魚と、その魚を餌に育てられる巨大な水竜だが、竜の主な用途は人に食われることではなく乗用と娯楽(レース競技)用。そのせいかここの名物料理は竜のおこぼれの魚のフライだ。ひとくちにフライといっても単調なものではない。素揚げ、分厚いコロモがついているもの、濃いソースで煮こんだものと、見た目と匂いだけでもバリエーションは多い。  俺が迷っているあいだにティッキーは手慣れた様子でちょいちょいと自分の皿へ料理を取り分けている。〈黒〉で各地の遍歴が長いティッキーは何度もこの基地に来ているが、俺にとっては初めての土地だ。ここでの任務は飼育されている水竜の何頭かをサンプルにして〈地図〉の汚染や変異を確認するだけで、今は反帝国が出没したという報告もない。以前の任地より気楽といえば気楽だ。そのはずだが……。 「よう、。調子はどうだ。まあ、ここも湿っぽくなければ悪くないんだがな」  皿の前で迷っている俺の横でティッキーは嬉しそうに表情をくずし、新しい役職を強調した。礼がわりに顔をしかめてみせると、ますます楽しんでいる顔つきになる。 「嬉しそうにいうなよ」 「嬉しいんだからしょうがない。若いやつに仕事を振れるのはいいもんだ。俺はもともと〈副官代理〉だったしな」」  フライを皿に積んだ副官は今度はつけあわせの根菜を山に盛っていた。彼が副官だったというのは俺もつい最近知った話だ。俺が〈黒〉にはじめて対面したのは城壁都市での例の事件のことだが、その出動の直前にイヒカは以前の副官を失っていた。 「あんたのままでよかったのに」 「どうして、団長じきじきの希望だぞ。そもそも俺じゃやっぱり――おっと、噂をすれば」  あーあ、噂なんかするもんじゃない。長身の影が食堂の戸口にさし、ランプの光に金髪が揺れる。 「エシュ、私にもとってくれ」  金髪の下から繰り出される、快活だが一癖も二癖もありそうな声に、俺は仏頂面でこたえた。 「嫌ですね。俺は副官に任命されたばかりで、忙しいんで」  ほかの軍団ならとんでもない発言だろうが〈黒〉はちがう。みるとイヒカはにやにや笑っている。 「つれないなあ、私ときみの仲なのに」 「エシュ。取ってやれよ」  ティッキーがわずかに視線を下げ、俺にめくばせした。イヒカは俺のとなりで大皿をのぞきこんだが、左肩が不自然に下がっている。俺は別の意味で顔をしかめる。さては湿気で膝が痛むのか。  俺は自分の皿の横にもうひとつ皿を並べた。 「まったく、さっさと座っててください、団長。どれが好きなんです?」 「私は魚は好きじゃない」 「そうですか。どうぞ飢え死にしてください」 「エシュ、頼むよ」  イヒカは俺の肩をぽんと叩き――さらに頭まで撫でていった。食堂の真ん中へ向かう足取りはたしかにいつもより慎重で、片足をひきずっているのは明らかだ。俺はためいきをついて大皿をみまわし、ティッキーが俺の横でハハハっと笑った。今度はからかったわけではなく、同情してくれたようだった。 「ちがうって、竜卵にコロモつけて揚げたやつ、あれをのせるんだって!」 「はあ? 麺に?」 「そうそう! あ、もちろんツチトビ竜の卵ね。殻がまだら模様の」 「黄味がねっとりして甘いやつだ」 「あれをタネに割りいれて、すくって深い油にぽんって落とす。中が半熟で白身が丸く固まったのを茹で上がりの麺にのせてさ、好みの出汁か濃いめのタレ、あっさりと塩でもいい、ぱっとかけて、まだアツアツのところで崩す。とろっと流れる黄味をまぶして食うわけ。僕が知るかぎりこれがいちばんの竜卵だね」  食堂の真ん中でシュウが唾を飛ばす勢いでしゃべっている。彼が〈黒〉へ来たのはひと月ほど前だ。地図解析員の手が足りないというイヒカの要請にしたがい、城壁都市の研究所から派遣されたのだ。  帝国軍や行政官の〈法〉にも専門分野がある。〈黒〉の団員のほとんどは生粋の地図師だから〈地図〉の精製は得意だが、解析が得意かといえばそうでもない。イヒカは時々帝都へかけあって解析専門官を〈黒〉に派遣させていたが、彼らは俺たちになじまず、短期間で逃げ帰ってしまうのが常だった。まあ、わからないではない。〈黒〉は年がら年中移動続きで、構成員の大半は帝国軍人のルールを大きく逸脱している。  そんななか、シュウは〈黒〉の団員とおなじくらい型破りで、あっという間に周囲に馴染んだ。いや、馴染んだというか――質問されればマシンガンのように十倍速で返してくる口と、もっと速く回っているにちがいない頭脳の働きでまず周囲を圧倒したあと、おまけのように示された飽くなき食への情熱によって、〈黒〉の基準においても相当の型破りだと(暗黙のうちに)認定されたのである。解析能力は申し分ないし、団長のイヒカはシュウを〈黒〉に引き抜くつもりなんじゃないか。俺は内心そう思っていた。 「おお、わかってるじゃないか。これが食べたかった」  そのイヒカは魚に文句をいっていたくせに、俺が皿を運ぶと嬉しそうにそんなことをいう。俺は嫌味のひとつもいいたくなる。 「魚は嫌いなんでしょう?」 「好きじゃないっていったのさ。嫌いとはいって……エシュ」 「なんです?」  俺はイヒカにかまわず青い実を絞った。  目の醒めるような青、宝石のような色をした実は、柑橘の一種だ。味は前世でレモンと呼ばれていた黄色い実に似ているが、すこしちがう。もちろん絞っているのは自分の皿の上だ。素揚げのフライに果汁を絞り、自分の指についたものを舐める。酸味にまじってかすかに苦い味がする。俺はこれが大好物なのだ――が、妙な圧力を感じて目をあげると、イヒカが信じられないという目つきでみつめている。 「エシュは……エシュにはそんな趣味があるのか……」  俺は青い実を皿に置くとフライを一口齧った。骨までポリポリやってから答える。 「何か問題が?」  この実自体は珍しいものではない、ありふれた柑橘だ。シトラリクエ、という。寒冷な地域でもなんとか育つ樹の実で、帝国全土に自生している。故郷では竜と同じくらい人間の役に立った。さまざまな用途に使われた――料理の風味付けだけでなく、十分に熟した実は酵母や触媒に、皮から抽出した油分を虫よけにしたり、軟膏や石鹸の香りづけにしたり、竜とおなじくらい余すところなく使えるものだ。しかしイヒカは不満そうにまくしたてた。 「そりゃあそうだ、そもそもカラッとあがった魚を果汁で濡らすなんて、それじゃ魚の風味も皮の香ばしさも全部飛んでしまう。魚に限った話じゃない、竜肉だってそうだ。肉の風味というのは繊細なものだ。だいたい、昔はフライに柑橘なんか添えなかったし、それがシトラリクエなんてもってのほかだ。酸っぱくて苦くて、しかもその色――」 「どうしてそんなにいきりたつんですか、団長」 「どうして? それは――」  イヒカはふいに口をとざした。とたんに俺も思い出して、ひやっとした。  そういえば帝都で会う人間の一部はこの実をみると妙な反応をするのだった。辺境でこの実はよく食卓に上るのだが、帝都でそれをやるのは田舎者以前に野蛮人めいた捉え方をされる。だからシトラリクエを飲食にそのまま供する店は「それなりの」店だ。思いっきり粗野な店、あるいは粗野を売り物にする店――といっても、むろん帝都の基準で、だが。  十年以上前、帝都へはじめてきたときも、ルーの屋敷で「常識」を叩きこまれていた最中に「シトラリクエの宮廷タブー」について教えられたものだった。かつて帝都の貴族にとってシトラリクエは「忌実」だった、という話だ。そのためいまだに宮廷ではこの実は必要がある時ですら裸のままでは使われない。色を塗るとか覆うとかして青を隠すという。  あのとき家庭教師はこういった。「非合理とされる習慣だが、宮廷でこの青を隠すのは今も行われているから、相応の場に出た時は気をつけろ」と。  しかしこの基地は「宮廷相応の場」とはいいがたく、〈黒〉の他の連中も俺の見える範囲ではイヒカのような反応はしなかった。もっともシトラリクエの果汁には独特の苦みがあるから、生で使う場合の好みがわかれるのは事実だし、俺がこうして半欠けを持っているのも、厨房にわざわざ頼んで切りっぱなしをもらったからだ。  俺は怪訝な表情をしすぎていたのかもしれない。上官はまた何度か瞬きをした。ついで気まずくなるほどじっと、絞ったばかりのシトラリクエをみつめた。 「ああ……そうだな。私の反応は過剰だ。きみがその実を絞っていると変な気分になった」 「変な気分?」 「聞かぬが花だ」  イヒカは目をそらし、その隙に俺は青い果実に空いたコップをかぶせた。まったく、副官になるとこんなことまで気をつかわないといけないのか。しかしイヒカはそれ以上文句はいわなかったし、その後は黙って皿の中身を口に運んでいる。イヒカの食べ方は規則正しい。飲み物、魚、つけあわせ、穀物、この順番をきっちり守る。帝国軍人らしいといえるかもしれない。さらにいうと「魚は好きじゃない」とはとうてい思えない。 「湖沼地帯ははじめてなんだろう。どうだね?」  食事が一段落した上官はそんなことをいう。俺も最後のひと口を飲みこむと「ツェットは楽しそうですね」と答えた。 「この湖では水遊びができるからな」 「水竜を追い回したくて仕方ないらしい」 「ツェットはまだ若いんだ。頼むよ」 「どうして俺にあの竜を押しつけたんです?」  俺はぼそっとつぶやいた。ツェットにはいささか手を焼いていた。何かと規格はずれなのだ。  イヒカは俺の顔をちらっとみて、ふふっと笑った。妙に腹の立つ笑い方だった。 「そんな顔をするな。ツェットをきみに頼んだのは、あれがいい竜だからだ……いや、きみならあの竜を極上に仕上げられるからだ。副官」 「俺を買いかぶりすぎですよ」 「私の目は外れたことがなくてね」  イヒカは立ち上がるときまた足を引きずっている。俺は上官を制して皿を重ねた。食堂の中央からはまだシュウの声が響いている。 「そりゃ、竜のスジでいちばん旨味があるのは踵の腱の部分だよ。だけど噛みごたえがあるのは内臓肉につくやつだし、朝粥を赤身のスジを煮たスープで炊くとこれまた最高……」  イヒカはちらっとシュウの方をみた。話に夢中でいるシュウは気づいたかどうか。 「今日も解析官は絶好調だな」 「引き抜くんですか?」と俺はたずねる。 「どう思う? 副官」  問いをそのまま返してくるとはこれいかに。俺は肩をすくめ、本人に悟られないようにシュウをみる。答えはわかっていた。シュウの様子は俺が〈黒〉を知ったときと同じだった。水を得た魚、空に放たれた飛竜、なんとでもいえばいい。 「彼の居場所はここです」  俺はイヒカに視線を戻して答えた。静かにこちらを見返した上官の目つきはどこか竜を連想させた。それも、獲物をたくさん腹におさめて安心している竜の目だ。  早まったかもしれない。なぜか俺の心のなかをそんな思いがよぎったが、自分が早まったのか、考えるまもなく消えてしまった。

ともだちにシェアしよう!