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【第2部 飲みこまれた石】1.アーロン―火を熾す材料

 二度と会わないという決意を、軽率に下したわけではない。  たとえ軍務が重なるとしても、二度とあの眸を正面からみつめない。そう決めたはずだった。  もう一度出会えばまた囚われると心の奥底で知っていたからにちがいない。黒髪のなかで揺れる金色の筋、竜の背で鍛えられたしなやかな体躯と、風をうけて顔いっぱいに広がる輝く微笑み。あの眸は風を読み、あの耳は竜の声を聴く。そしてあの手と唇は――  六年経って、ほぼ忘れたつもりだった。それなのに自分はまた、己の愚かさと向きあおうというのか。 「そなたは〈黒〉のと同期なのだな。アーロン」  膝をつくと同時にそう声が投げかけられ、淡い紋がほどこされた半透明の覆いが左右にひきあけられる。アーロンは顔をあげ、透明な御座にゆったりと腰かけた人物を認める。すばやく視線を下げる寸前に白い手が揺れた。御座のそばに置かれた足台が磨かれた石の床を音もなく滑り、アーロンの前で停止する。 「座りなさい」  アーロンはもう一度恭しく頭を下げてから立ち上がり、腰かけた。眼前には軍服を着た皇帝の膝があり、視線が注がれるのを感じて顔をあげる。帝国軍の最高指揮官であり、帝国それ自体の象徴、神の憑坐とも称される皇帝陛下はけっして大柄ではないが、肌にみなぎる活力と玉座の光輝のために二回り大きく感じられる。  皇帝は公式行事以外のとき、軍服と略式のマントで人前にあらわれるのを好んだ。軍服に対する陛下の愛着は周囲のよく知るところである。三十年前、十五歳の皇帝が最初に命じたのは〈黄金〉から〈紫紺〉にいたる六つの軍団の軍服をあらためることだった。  先代は曲線の多い優美な装飾で軍団を華やかにみせるのを好んだが、現皇帝は機能性と〈地図〉のキューブを連想させる直線を組み合わせた意匠を選び、これをもとに軍の装備を一新したのである。アーロンの母がいうには、ファッションの流行もこれに影響されて大幅に変わったという。  皇帝はこれと同時に帝国軍組織をあらため、憲兵と諜報を担っていた組織を〈灰〉として再編成した。さらに帝国軍が誕生して以来〈黒〉と非公式に呼ばれていた、有事の即応部隊を皇帝直属の軍団へ格上げした。軍団と呼べるほどの規模でもなく、参謀本部のような権限もないのに〈黒〉の団長が他軍団と肩を並べるのはここに理由がある。  アーロンが最初に皇帝に拝謁したのは六歳にもならないころだ。ヴォルフに連れられていったのは、きっとこの部屋ではなく大謁見室だったにちがいない。あのとき皇帝は手の中で弄んでいた〈地図〉をアーロンに渡した。手のひらを覆ったメディウムから未成熟な〈法〉の輝きが生まれた瞬間をアーロンはいまだに忘れていない。その次に御前へ出たのは六年前、〈黄金〉に配属されて最初の謁見のときである。  皇帝の肖像は帝国のいたるところにある。しかし本人は宮殿の奥深くにおわすゆえ、謁見など一生に一度かなえばいいところにちがいない――これが帝都の一般市民の感覚である。年に数回(もしくは数年に一度)宮殿の公式行事に招待される上流貴族も似たような感覚かもしれない。  ところが今のアーロンは異なる事実を知っている。皇帝陛下はけっして宮殿の奥深くに鎮座するだけの存在ではないのだ。皇帝には〈使者〉という耳目があり、おまけに気に入った上級将校は頻繁に呼び出す。今のように。  陛下は誰にどのくらい、こういったやりとりを明らかにしているのだろうか、とアーロンのなかにいつもの問いが生まれる。〈黄金〉の古参が一度だけ、誰もいない場所でアーロンにもらしたことがある。陛下は先代よりもけた違いに謎めいて、本心の読めない御方だと。年若い頃から三十年の治世を経てもなお、陛下のなさりように驚くことがある、と。 「報告は受けている。〈黄金〉の塵の悪魔(ダストデビル)も連戦連勝とはいかないようだ」  皇帝は足を組みかえた。アーロンは首を垂れる。皇帝陛下はありがたくも、辺境でのアーロンの失態を口に出しもしなかった。安堵と同時に物足りなさを覚えるのは己の自負心のせいか。  うつむく視界は皇帝の御座の内部から放たれている柔らかな光で照らされていた。御座は〈地図〉を模した立方体を組み合わせて作られている。光は立方体の中心、本物の〈地図〉なら|精髄《エッセンス》があるべきところから発せられていた。 「アーロン。面をあげよ。傷のない英雄など存在しない――逆だ。英雄とは傷あってのもの。余にとっては、知らぬ間に異法の法術師がわが掌中にあったと知るだけで十分。まして黒鉄(くろがね)竜の〈地図〉が手に入ったとあれば、成果は十分にあった。これで反乱を永久に終わらせる道ができた」  アーロンはつい眉をあげてしまう。永久に、とはどういうことだ。帝国に対する反乱は潮の満ち干のように絶えまなく起き、多少鎮まる時期はあっても終わることはないように思えていた。むかし軍大学でエシュがレポートしたように――その名を頭に思い浮かべたとき、皇帝もまたその名を口に出している。 「それにしてもかのエシュは余の耳目から完全に抜け落ちていたぞ。辺境出身の異能とは。同期にあのような者がいたなら、どうして余に教えなかった?」 「同輩の異能については私も知らなかったのです」  アーロンは平静に答えた。 「士官学校や軍大学では頻繁に討論したものですが、〈黒〉へ配属された後は接点がありません。エシュはイヒカ殿の行方には関与していないとのことですが、その点はどうなのでしょうか」 「イヒカには余の特別な寵をあたえたこともあるのだが」  皇帝は感情の読み取れない声音でいった。 「いまどこにいようが、死んでいようが、彼は余のもとへ〈異法〉の術師をもたらしたとはいえるか」  特別な寵。イヒカをめぐる宮廷の噂話におなじ言葉は何度もあらわれた。この場で自分に話されるのならたいした秘密ではないのだろう、とアーロンは思った。おそらく上流階級なら知る者は知っている、そんなことなのだ。  イヒカは宮殿奉仕を伝統とする家系の出身――養子――で、〈黒〉の団長になる前から宮殿の周辺ではちょっとした有名人だったらしく、表面的な交友関係は広かった。帝国の上流階級で重要なのは贈呈物のネットワークだ。帝都に屋敷をかまえるほどの貴族や軍人は頻繁に贈り物を交換する。イヒカはアーロンの父、ヴォルフともその程度の交流はあったらしいが、それだけだ。  その一方で、皇帝陛下の特別な寵、となると――  陛下は十五歳で即位してから五人の側室とのあいだにそれぞれ子をもうけている。しかし、そのうちのひとりに特段重い寵を与えたことはなく、いまだ皇嗣も決められていなかった。先代皇帝が皇嗣を決定したときと同様に、皇位継承の時が迫らなければ神が語らないからだ、といわれている。皇帝は神の|憑坐《よりまし》なのだ。  皇嗣が決定するまで、側室が生んだ子は生母の家系へ下賜金とともに養子に出され、成人すれば独立して一家をかまえるのが慣例である。生母にとってもその家系にとっても恥ずべきことはまったくなかった。そもそも神は血統で皇嗣を選ぶとは限らない。もっとも養子となった子が次の皇帝に立ったことは何度もある。  陛下は男子に寵を与えることもあった。男であろうと女であろうと皇帝の寵はいつも三年で終わったが、神の教えの通り、その関係はつねに一対一で、汚れたところは何もない。帝国の道徳は一対一の関係を裏切ることを許さないが、終わることには寛容だ。  そう、すでに終わったのだから―― 「アーロン。余の前でうわの空か?」  アーロンはひやりとしたが、皇帝の視線は厳しいものではなく、口調もからかうような調子だった。たしかに自分は、ジャーナルの連中が憶測で書きたてるように皇帝の寵愛を受けている。それは一部の男女が受けているような親密で特別な寵ではなかったし、セランのような〈使者〉に対するものともちがった。自分にむけられる皇帝の寵愛にアーロンはときおり困惑する。たとえば次のように皇帝が語るときだ。 「辺境でのそなたの活躍を臣民は知らなければならない。そなたは余の英雄、帝国の英雄なのだから」

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