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【第2部 飲みこまれた石】2.エシュ―自分の船に乗る

 キイイイイッ  頭上はるか遠くの空で竜が鳴いた。  俺の足元でべつの竜の灰色の頭がぴくりともちあがる。剣のような棘が即座に立ち上がり、赤い眸の内側でぐるぐると渦がまわる。俺はなだめてやろうと手をのばすが、背中まで棘に覆われたこいつは簡単にうろこを掻くなんて真似ができない。手袋も突き通す棘のおかげで最近俺の両手は傷だらけだ。しかしここでハーネスを引くのは逆効果だと、こっちもいいかげん学習ずみ。  俺は特別製の鞍にまたがったまま、首にかけた笛をくわえ、ほんのすこし息を吹き込む。灰色の頭がさがり、落ち着いたのがわかった。 「よし、もう一度だ」  俺はハーネスを操って指示を出す。もう二歩前に出ればこいつは空中にいて、翼をほんのわずか広げただけでも宙に浮く。竜の翼や喉の下、尻尾のつけねを覆う金属は俺も好きではない。だが帝国軍でおなじみの標準化された竜種ならこれは訓練中の竜の補助としても機能する。まして今は、先導者がわりの竜が飛び立ったばかりだ。  しかし鞍にまたがった俺の両足が感じたのはゴロゴロ震える竜の背中だった。  ち、またか。震えているといっても、竜の中にあるのは恐怖ではない。俺は即座に身を伏せ、ハーネスを強く握って矯正ギアを作動させる。そのとき竜はもう蹴爪のある両脚をどしどしと踏み鳴らしながら真後ろへ大幅に後退している。でかいので移動速度は半端じゃないが、次の一歩の前に矯正ギアが衝撃を与えた。竜の体躯が硬直し、脚がもつれるようにとまった。  ますますよくないと思った時、竜は訓練用飛翔台を不格好に転がり落ちた。俺はとっさに鞍にしがみつき、竜もろとも地面に落ちる。デカい上におそろしげなみてくれをしてもこうなると無様だが、周囲からは笑い声など一切きこえない。ともかく俺は素早く立ち上がる。手袋を棘がひっかいている。  灰色竜にたいしたダメージがないのはわかっている。むしろこいつは空中へ飛びだすことを免れてほくそえんでいるかもしれない。もう一度矯正ギアを使えばしぶしぶ起き上がるにちがいないが、俺はそうしなかった。かわりに息を飲んで見守っている厩舎員二人に「早いが、休憩だ」と告げた。 「離れていい。午後まで戻るな。必要なことはこっちでやっておく」  ベテラン厩舎員のジェイクが顔をしかめた。 「しかし……」 「大丈夫だ。アンジュも行っていいぞ。俺はちょっと――」  俺はヘルメットをかぶったまま同じ姿勢で伏せている灰色竜を指さす。声を出しながらも竜から目は離さなかった。 「こいつに話がある」  ジェイクは呆れた顔をしたが、矯正ギアの威力は熟知しているせいか、うなずいて歩きだした。そのあとを厩舎へ入ってまだ二年のアンジュが追う。女の厩舎員は珍しくないし、アンジュはジェイクよりガタイもよく、竜の扱いも手慣れてきたが、足取りは急いている。  まあ、そうだろう。この灰色竜を実体化させた厩舎からは今までに三人怪我人が出て、そのうちひとりは重傷の部類だ。皇帝の勅命でなければ調教など早々に諦められ、処分されたにちがいなかった。  ため息をつくのをこらえながら、俺はそっと灰色竜から離れた。竜が俺を気にしているのは承知のうえだ。竜は人間よりはるかによい耳と嗅覚で、近くにいる生き物を探っているし、俺はこいつにとっていちばん古い記憶のはず。〈地図〉の中心にたゆたう存在の|精髄《エッセンス》から〈法〉で実体化した瞬間に、俺はこいつの眼をみたのだ。  剣のような形の棘に覆われた頭と背中は他の竜とはあまりにもちがいすぎて、優美とはいいかねた。その後の促成哺育でたちまち巨大に成長したが、こいつは〈地図〉にされる前の生の経験も智慧も、自分自身のからだの適切な扱い方も知らない。瓶の底にいたときの――俺が撃ったときの――憎悪もなくなったのはありがたい。しかしこの竜は辺境にいた竜とも、狩られた野生竜とも、帝国の竜ともちがう。  俺はいまだにこいつと気持ちを通わせることができなかった。怒りや空腹といった衝動的な反応はわかるが、俺がこれまで他の竜に感じていたような、細やかな心――そう、心としかいいようのないものが感じられない。どうしてこいつが飛ぼうとしないのかわからない。  いくら皇帝の勅命でもこいつを実戦配備なんてできるのか。  矯正ギアをつけたまま起き上がらない竜を尻目に飲み物を取りに行った。訓練場は半透明の仕切りで区切られた即席のものだ。〈黒〉があらたに編成する部隊のために特別に作られた。勅命というのはたいしたものだ。俺は他人がしれば不遜に思いかねないことを考える。俺が団長になった〈黒〉はいま、皇帝陛下の勅書のもとに行動中だ。  イヒカはどんな勅書を持っていたのだろうか。  以前の団長を思い出したのは一瞬のことにすぎなかった。俺が戻ってこないと悟ったのか、灰色竜が首をもたげ、でかい図体からは予想のつかない敏捷な動きで体をひねり、尾をたてるようにして座りなおしたからだ。  俺はカップにそそいだモカが冷めるのを待ちながら、灰色竜の翼にはめられた金属の装具に顔をしかめる。世界に一匹しかいないこの変異体のために大急ぎで作られた鞍や装具はどれも大袈裟で権威的だった。実際そのために作られたのだ。人間の権威を竜に教え、服従させるため。  俺は口輪も好きではなかった。しかし訓練中の竜が口輪を嵌められるのは一般的なことで、人間の安全を確保する手っ取り早い方法だし、人間を乗せて空を飛べるようになれば口輪は外れる。  モカのポットの隣にあったジャーナルをめくって、灰色竜に関心のないふりをする。ジャーナルは厩舎員が持ってきたのか、ポットを置いて行ったのは仕切りの向こうで別の竜を訓練しているフィルだから、あいつが持ちこんだのかもしれない。めくると二面にアーロンの顔が大きく載っていた。  ここ半年の反乱者、反帝国主義者との戦況解説だったが、悪い記事ではなかった。むしろ提灯記事だ。軍の広報部に書かせたんだろうか。俺はぬるくなったモカをすすった。  アーロンが指揮をとった作戦により、帝国軍は当初、帝都で反帝国活動を行う組織「虹」の正体をあばく手がかりを得たかと思われた。だが反乱者に|黒鉄《くろがね》竜の繁殖地へ誘いこまれた帝国軍は混乱し、さらに、せっかく手に入れた捕虜の逃亡を許してしまった。  逃亡には〈黒〉の元団長イヒカが関わった容疑があるが、帝都へ送られる途中でイヒカも行方が知れなくなっている。拘束され、特別輸送される途中で謎の部隊に襲われたのだ。いつものように帝国と反乱者の戦いは、駒をひとつ進めればひとつ取られるのくりかえし。だが今回帝国は|黒鉄《くろがね》竜の〈地図〉を手に入れた。俺が帝国軍人として〈異法〉を使ったからだ。  どうやら俺は帝国にとって新しい要素らしい。皇帝陛下は帝国軍に〈異法〉を導入したいと考えている。反乱者の武器で反乱者をつぶそうというのだ。今日もどこかの軍団は辺境へ出動しているのに、〈黒〉の俺たちが城壁都市にとどまっているのもこのため。変異体の竜で部隊を編成させているのにもたぶん象徴的な意味がある。しかし〈異法〉となると……。  灰色竜が首をあげている。どこへ注意を向けているのか。俺は目をこらし、半透明の障壁の向こうで竜の翼が舞うのをみた。あの区画を使っているのは誰だ、フィルか。変異体だからといって、みんながこの灰色竜のように手こずらせるとは限らない。促成哺育を終了して一ヶ月、他の竜は軍用の訓練に入っている。フィルの竜はもう口輪を外せるだろう。  俺はすべての竜の実体化に立ち会ったし、哺育の時も訓練開始のときも最初の指導をやっている。灰色竜だけ遅れているのは俺のせいってわけでもない。 『フィル』  俺は首の通信機を操作した。 『もう休憩時間だぞ』 『了解――しておりますが……その……』  竜が命令をきかないのだ。俺は思わず笑った。飛べるようになったばかりの竜は遊ぶのが好きだ。あるいは乗り手を下に見てわざと無視しているのか。 『腹が減れば下りるだろうが、おまえの方がさきにへたばるぞ。命令をきけば褒美があると教えこめ。図体はでかくてもまだ子供だからな』 〈地図〉を弄ってつくられた変異体の竜は、野生竜とも人間の目的にあわせて標準化された竜ともちがっている。世界にたった一頭しかいない。突然この世に再生され、他の何者ともつながりがない。  灰色竜が空にむかって首をめぐらせている。おまえも飛べるはずなのに、と俺は思う。何をためらっているんだ。何が怖いんだ。突然口輪を外したい誘惑にかられるが、さすがに俺は自制する。取り返しのつかないことは起きうるし、そもそも団長が違反を犯してどうする。  ふと、存在の精髄(エッセンス)から再構成されるとはどんな気分なんだろうか、と俺は考え、そのとたんにずっと忘れていた夢の感覚が火花のようにひたいの奥で閃いた。俺をこの世界に生まれ変わらせるといった神の夢。ぞっとするような虚無の上に吊りさげられ、脅される夢。  おまえもあそこから来たのだろうか。  そういえば、俺には別の名前があったはずだ。  実は前世の記憶――少なくとも俺がそう信じている、別の世界に生きる「俺」の存在感は、〈使者〉から皇帝の勅書を受け取って以来、急速に薄れつつあった。今でも俺はこことはちがう世界の夢をみるが、その夢には以前感じていたような、現実の存在のはっきりした手ごたえがない。あの世界――ニホン、トウキョウ、この竜のような灰色をした建物がならび、四角い窓に灯る光が夜を照らし、舗装された道を雨が叩く――すこし前までこの記憶にはたしかな手触り、自分がそれを体験した実感が伴っていた。ところが今は、まるで物語を聞いて想像した光景のような感じがする。  俺の名前。エシュ――ではない名前、あれを俺は思い出したはずだ。イヒカが俺に告げたはず……いや、告げたのはイヒカじゃなくて……。  俺は空のカップを置いて頭を振った。灰色竜は俺に背を向けている。この変異体にはまだ名前がつけられていない。帝国軍は竜の命名をリスト順に行う。順番に従えば「イクス」かあたりか。棘に覆われたこいつを呼ぶには迫力に欠ける名前だ。こいつに似あう名は、そう……。 「ソーン――じゃ物足りないな。グレイ・ソーン……いまいちだ。ドルン。これはどうだ?」  頭に浮かんだ言葉をつぶやいた。こんなに距離が離れているのに竜がふりむいて俺をみた。俺はまっすぐ歩いていった。灰色の巨大な首がくいっとあがり、俺に向かって突き出される。赤い眸はもう渦を巻いていない。硬く透明な宝石のようだ。鮮明な血の色をしているが、美しかった。 「ドルン。おまえはドルンだ」  俺は竜の口輪のすぐ近くまで顔をよせる。 「ほんとは飛んでみたいんだろ?」  俺は竜を飛翔台へ登らせると矯正ギアのスイッチを切った。いい風が吹いている。鞍に腰をおちつけてハーネスを握ったとたん、ドルンの翼が大きく広がった。竜の背中が大きく揺れ、一歩、二歩、そして両脚が飛翔台を踏み切る。間髪入れずに後尾から噴射がはじまり、空中で竜は羽ばたきながらバランスをとる。足と腰がふわっと浮く感覚に俺は思わず笑い声をあげた。  灰色の翼は風に乗り、訓練場をぐるりと回るコースをとった。俺はずっと笑いをこらえられない。俺の気分に寄り添うように竜も喜んでいるのがわかる。そうだ、俺はこいつが。  おまえだってもちろんわかっていたさ――俺は心の中で竜に話しかけた。おまえは飛べるんだ。俺と行こう。

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