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【第2部 飲みこまれた石】5.アーロン―左手で掴むもの
皇帝は帝国の支配者にして為政者であるが、同時に神の憑坐 でもある。
遠い昔、神は竜との争いで荒廃した世界に〈地図〉とこれを使う法を授けた。英雄が法をもって竜を倒したとき、神の声を伝えたのは皇帝の始祖であった。始祖は帝国の現身として〈地図〉を保管し、皇帝となったのだ。
それ以来皇帝は神の声により定められた。現皇帝陛下が皇嗣を指名しないのも、いまだ神がそれを必要としないからである。神の声は皇帝を通じて帝国臣民へ伝えられることもある。皇帝の勅書はただの命令ではなく、神の意思なのだ。
しかし与えられるのは〈法〉能力者だけということもあって、勅書のこのような性格は一般臣民や、帝国軍でも末端の兵士には知られていなかった。だからこそ勅書を運ぶ〈使者〉の訪れは、皇帝陛下の単なる寵愛とは異なる意味を持っている。
皇帝の使者は名誉ある仕事だ。セランが使者に任命されたときアーロンはともに喜んだものだった。セランは士官学校卒業後、軍籍に所属せず行政大学へ進んだ。軍大学時代はたまに届く手紙以外は関わりを持たなかったアーロンだが、〈黄金〉へ所属が決まったころに再会し、いまでは周囲に――とくにたがいの両親に――恋人同士であると目されている。
アーロンがセランに対して踏みこんだ感情を持てないまま、六年経っても明確な約束をせず、たまに逢っても口づけ程度の行為にとどまっていることなど、誰も知らない。
それなのに二人の関係は「公認の仲」としてジャーナルにすっぱ抜かれ、それを〈黄金〉の上官も読んでいる。人々は美貌の使者と帝国軍の偶像が共にいる図を好むのだ。
行政官として再会したセランからは、士官学校時代の性急で浅薄な様子はすっかりなりをひそめていた。帝都に戻ったいま、二人は夜に通話で語りあうだけでなく、休日が重なれば外出もした。
際立った美貌と怜悧な頭脳をあわせもつ人物と話すのは楽しいものだ。それ以上の感情や欲望がおよそ動かないとしても。
周囲がなんと見ていようと、アーロンはセランについて、単なる親しい友人にすぎないと考えることもできたかもしれない。しかしアーロンは、士官学校時代から自分に変わらず向けられるセランの想いを知っていたし、知ったうえで逢う以上、純粋な友人でいようとするのはもとより不誠実だと思っていた。
問題は軍大学の四年間――喜びから絶望まで上下する感情をいくたびもくりかえした四年間――を経て、アーロンからそのような情熱――他人に向けられる情熱――が失われてしまったことだ。
アーロンにとっては都合のいいことに、今のセランはアーロンに思慕をつげるだけで、それ以上何も要求しなかった。そんな彼に対して自分が不実な人間だと、アーロンはもちろん考えなかった――先の辺境の作戦で、エシュと再会するまでは。
いや、エシュとのあれは事故のようなものだ。むこうもそのつもりはなかった――はずだ。ただ、エシュが以前とおなじように、あまりにも奔放で、あまりにも……。
アーロンは首を振ってその先を考えないことにした。そもそも今は皇帝の使者のもとへ急いでいるのだ。皇帝の使者からセランへ、さらにエシュへ連想が動くなど馬鹿げたことだ。そうはいっても、辺境の作戦で〈黒〉の副官になっていたエシュと再会してから、アーロンはエシュのことばかり気にしている。
再会する前も、エシュのことを完全に忘れていたとはもちろん思わない。辺境の作戦の前から〈黒〉という部隊の過去をひとり調べていたのは、宮廷と帝国軍をめぐる父ヴォルフの懸念や、〈黄金〉が反帝国に対する作戦を練る上で〈黒〉という特殊な部隊をいかに使えばいいか考えるためだった。
イヒカの行方がわからずエシュが団長となった今も、〈黒〉のことは気にかけておく必要があった。ブランドンに聞かされるまでもなく、皇帝陛下が〈黒〉に変異体の竜を訓練させていることは知っていた。今後〈黄金〉が作戦を考えるうえでも重要な鍵になる要素である。
そう、竜だ。
帝国軍も、辺境の反乱者たちも竜を使う。反乱者たちがどんなふうに竜を利用するのかは|黒鉄《くろがね》竜をめぐる戦闘であきらかになった。厩舎には民間人も所属する。そのなかには反帝国のシンパも潜りこんでいるかもしれない。
アーロンは帝都に戻ってから、厩舎周辺の人員を管轄する〈紫紺〉の上層部に、厩舎の風紀逸脱に注意するよう伝えていた。その通達を送ったとき、アーロンの念頭に〈黒〉のこともエシュのこともなかったのはたしかだ。エシュは辺境の基地で厩舎の人間と親しかったが――
ふたたび連想がエシュへたどりつき、アーロンは歯噛みしたくなった。自分がこんな風にあの男に囚われているなど、絶対に認めたくない。任務が足りないのだとアーロンは自分にいいきかせる。使者が何をもたらすにせよ、広報部の人形になるのではなく、軍人として打ちこめる対象を与えられるなら本望だ。
アーロンは鼻息も荒く執務室へ足を踏み入れた。白のフロックコートを着た使者は壁に沿って並べられた〈地図〉の複製の前に立っていた。肩のラインに見覚えがあるような気がしたが、アーロンを振り向いた瞬間の顔立ちはこれといった印象がうかばないものだった。
使者に取り立てられるのは、セランのように容貌にすぐれた者が多いのを考えると意外なことだった。年齢もはっきりせず、一度はアーロンと同世代に思えたが、まばたきすると四十代にも感じられる。膝を折って礼をしようとするよりも使者の方が速かった。
「〈黄金〉のアーロン」
白い手がのばされた。
「私はレシェフ。ここに――」
手のひらに〈地図〉とおなじ形の真っ白なキューブが乗っている。やわらかそうな肌と細い指がアーロンの記憶をかすった。直後〈法〉が働くのが感じられ、目の前の空間に勅書がひらいた。
『竜石を手に入れよ』
即座に皇帝が頭蓋の内側でささやいた。
奇妙なエコーを伴った声だった。アーロンの目には宙を飛ぶ巨大な竜の幻影が浮かんだ。竜は山々と蒼穹を背景に悠々と羽ばたいている。アーロンはどこかの頂を踏みしめているようだ。ふいに竜は方向を変え、こちらをみた。遠く離れているのに翼が風を切る音が耳にじかに響いてくる。竜はアーロンへ首をのばし、ぎらぎら輝く凶悪な目で見据えた。こんな距離からでもアーロンは竜の巨大さを理解し、同時に皇帝――神の意思を理解した。
俺はあの竜を狩るのだ。
まばたきすると勅書はまだ空間にひろがっており、アーロンに辺境の竜から竜石を獲得するための作戦立案を命じていた。勅書の背後に〈使者〉が立っている。その姿がぶれるように二重になっているのに気づいて、アーロンはまたまばたきをした。
いつも胸元におさめている杖に手が伸びたのは反射運動のようなものだ。法能力を持つ者は、職務に必要な〈法〉のほかに得手とする技をもつものである。軍大学時代にアーロンが習得し、その後得意とするようになったのは〈法〉による幻影を剥ぐ技だった。
あの〈使者〉にも幻影の詐術が働いている。
アーロンの杖の先から〈法〉が放たれたのはほぼ瞬間の出来事だ。〈法〉は宙に浮かぶ勅書をすり抜けた。純白のフロックコートの上を金色の光輝が舞う。金色が使者に降りかかり、その顔がぬるりと変化していき……。
「アーロン。呼吸する時間もおかぬか」
光輝のしたで苦笑まじりの声が響いた。アーロンは愕然としてその場に立ち尽くした。
「……まさか……?」
「さすがわが英雄よ。こう簡単に破られるようでは、お気に入りの遊びも満足にできぬ。〈黒〉のあれは何度会おうと気づかぬのに、そなたときたら」
アーロンの前で純白のフロックコートを着ているのは、この執務室にも掲げられている肖像とおなじ顔だ。白い手のひとふりで空間にとどまる勅書をキューブに戻し、口もとに微笑みをうかべている。
――先日も宮殿で拝謁した、帝国を負う為政者にして、神の憑坐 。
「陛下――いったいこのような場所で、何をされて……」
「近頃、神の意思はこれまで考えもしなかったことを我にさせる。楽しいぞ」
呆然自失の状態から我にかえるのにどのくらいかかったのか。アーロンは椅子をすすめようとしたが、皇帝は薄く笑って腕を組んだだけだった。さきほどアーロンがみた、これといった特徴がない面立ちはいまや、強い意思を示す顎と鋭いまなざしにとってかわっている。あわてて片膝をつきながら、アーロンは皇帝の法能力についてすばやく思考をめぐらせた。
皇帝陛下はもちろん法能力者である。その能力は皇嗣とされるまでほとんど注目されなかった。しかし幻影の〈法〉は簡単なものではない。幻影破りを得意とするアーロンこそ見破れたが、他の誰がこれを知っているのだろうか。まさか皇帝陛下が使者にやつしているなどと。
「アーロン。勅書をおさめるがよい」
皇帝がいった。アーロンは電撃に撃たれたように姿勢をあらため、両手をさしのべて恭しく勅書を受け取った。杖に格納すると皇帝は満足したように目を細めた。
「竜石を手に入れる方法は〈黒〉のエシュにたずねるとよい。あれは愛いやつよ。異能をもつのに余の変装にまったく気づかぬ。正体を教えたあかつきには何を思うことであろうか」
「エシュは〈地図〉の精製を得意とする者です」
アーロンは反射的にかばうような言葉を投げていた。皇帝は口元を緩めた。
「余はそなたの学友を非難してはおらぬ。愛いやつだといったのだ。〈黒〉には余が好む者が集まるようだな。イヒカもかつて余の特別な寵愛を受けていた」
皇帝の言葉にひそむ妖しい気配に、アーロンの腹の底で強い感情が頭をもたげた。おのれの中に潜む繊細なものに爪を立てられたようだった。
敵意――まさか。俺はいま、皇帝陛下の御前にいるのだ。
「あの者が竜どもを馴らしおえたあかつきには、彼にも寵を与えたいものよ。わが帝国に歯向かう辺境の異能をこのようにわが手におさめるとは、楽しいことではないか?」
胸のうちでまたも激しい感情がひらめいた。ほとんど痛みのようなそれをこらえるために、アーロンはひざまずいたまま、気づかれないよう片方の拳を握った。
帝国そのものを象徴する存在に嫉妬するなど、愚かにもほどがある。
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