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【第2部 飲みこまれた石】7.アーロン―折れた木の端を集める
午後の劇場は満員だった。
昼間なので知った顔には会わないかと思ったのに、ボックスシートを出たとたんアーロンは〈紅〉の将校と鉢合わせた。軍服を着ていなくても、まっすぐに伸びた姿勢やするどい視線のために軍人であるとすぐにわかるし、帝都のどこかですれ違ったにちがいない。
アーロンは一度会った人間の顔をけっして忘れなかった。将校の隣には胸を生花のコサージュで飾った女性がいる。ぶつかりそうになったのを詫びてアーロンはそのまま通路を進んだが、小さく自分の名がささやかれるのはきこえていた。
「あの方、見覚えがある」
「ジャーナルだろう。表紙に出ていた」
ロビーでもらった飲み物を片手にボックスへ戻る途中、セランが合流した。彼とおなじラングニョールの姓をもつ従姉妹の令嬢ふたりも一緒である。ひさしぶりの休日だった。セランがふたりに観劇を迫られたという話を聞いて、アーロンはチケットを手配したのだ。
竜退治の古典劇を今ふうに書き直したという作品にアーロンは興味をもたなかったが、人気の俳優が出演しているということで、令嬢たちの世代には大人気らしい。ふたりは英雄のコスチュームと同じ紋章を刺繍したスカーフを入手したという。セランの手にも紙袋があった。意外に思ったアーロンがたずねる前に、彼ははにかんだ笑みを浮かべた。
「母が欲しがっているので」
「母上もお好きなのか?」
「ええ、あの俳優に熱をあげているんですよ。肖像で一部屋を埋めてしまって、父が苦笑いしています。このスカーフは観劇当日にここでしか買えないらしいんです」
「それなら母上のチケットも手配するべきだった」
アーロンはそういったが、セランは整った眉をあげて牽制した。
「とんでもない。母はもう五回も劇場に通っているんです。彼女のスカーフはこれで全色そろいます」
「全色?」
アーロンは聞き返した。そういえばセランの手にあるスカーフは真紅で、令嬢たちは空色と萌黄色だ。
「六種類あるのか」
「ええ。軍団旗みたいでしょう」
セランはクスッと笑った。そういえばさっきから、下の座席に軍団旗に似た色が目につくような気がしていた。しかし民間人に囲まれたなかで軍の話題は出したくなかった。セランと出かけるのも辺境から戻って以来のことである。
「アーロン様はどちらがお好みですの?」
令嬢のひとりが唐突にそういった。色鮮やかな冊子を差し出されても、これから上演される物語の予備知識がないアーロンは返事に困る。
「主要な人物がふたりいるんです」セランが口を出してくれた。「紋章の英雄エリオンと、友人のセインディ。セインディは――」
「セラン様、筋を教えちゃだめです」令嬢がさっと冊子をひっこめる。
「アーロン様はまだ知らないんですから」
「あ、ごめん」
「見た目だけならどちらがいいと思います?」
もう一度主役ふたりが表紙と裏表紙に描かれた冊子を突き出された。舞台用の派手な化粧と衣装に身を包んだふたりの役者は対照的な風貌だった。長身で胸の厚い顎の張った金髪の美男子と、黒と銀の二色に髪を染めた細面の男。
黒髪に何を連想したとしても、アーロンはぴくりとも眉を動かさなかった。
「そうだな……」
「馬鹿ねエミル。アーロン様はセラン様がいらっしゃるから、お好みを聞かれても困るのでは?」
「あら、大丈夫よ。そうですよね?」
「エミルもレオンも、困らせないで」セランが笑いながらいった。「もうはじまるよ」
場内が暗くなり、急に人声がやんだ。隣に座るセランに目で礼を送ると、彫刻されたような美貌に微笑みが浮かぶ。長く細い指が舞台をさし、幕があがる。
続いてはじまった竜退治の英雄と裏切りの物語をアーロンは頭の半分で追いながら、残り半分は別のことを考えていた。頭をよぎる考えはとりとめがなかった。ひさしぶりに歩く帝都の繁華街の印象、軍本部で小耳に挟んだ噂、皇帝陛下に命じられた竜石獲得の予備調査。――と、舞台で照明がくるくる回転し、客席の方までさっと照らした。アーロンは照明の動きを追った。舞台をみつめるセランの横顔がぱっと明るくなる。
美しい男だ。ふとそんなことをアーロンは思った。舞台にいるどの俳優よりずっと美しく、頭も切れる。それなのにどうして自分は彼に何も感じないのだろう?
バン、と舞台で大きな音が響いた。物語の主役、エリオンとセインディが言い争ったあげくもみあいになり、和解する――既視感を受けてアーロンは目を細めた。こんな状況なら何度も覚えがある。
いや、だめだ。考えるな。
一部を銀に染めたセインディの髪が照明をうけてきらりと光った。アーロンは物語を追うのをやめ、劇場の外のことを考えようとした。街は賑やかで、路上にはみ出したカフェのテーブルは人で埋まっていた。
平和な街の光景には裏側がある。〈黄金〉では帝都に浸透する反帝国のシンパがひきつづき問題にされていた。帝都の繁栄とは裏腹に辺境の反乱規模は大きく、また頻繁になりつつある。しかし皇帝は反乱者の目先の動きからは気をそらしがちのようだ。陛下はエシュの変異竜部隊に期待しすぎている。
気配を感じてアーロンは横をみた。セランが何でもないように顔をそらした。
以前一度だけ、セランがアーロンの家に来たことがある。庭の薔薇をみながら話をし、いつのまにかどちらからともなく手を握っていた。静かに口づけをした。
それだけだった。
あの時のようにいま、手を伸ばせばいい。ふとアーロンのうちにそんな考えが浮かんだ。手を握り、家に彼を連れて帰り、そのまま夜を過ごす。それから……。
舞台では一幕目が終わろうとしていた。竜の財宝をめぐり、セインディがエリオンを裏切って、英雄は悲嘆にくれている。アーロンの意識はセランからそれた。俳優が演じる人物にも、固唾をのんで俳優を注視する人々にも共感はできなかった。黒髪のセインディは大袈裟な演技で高笑いを発し、エリオンがうなだれる。
エシュは別れるときあんな表情はしなかった。逆だ。罪悪感のにじむ眸で自分をみつめて、黙って去ったのだ。
アーロンは怒りに震えそうだったし、エシュのことを卑怯だと思いきめた。ところがあれから何年も経って、竜の背でエシュと再会したアーロンの中にわきあがったのは、こともあろうに情欲だった。セランにも他の誰にも覚えたことのない、おまえは俺のものという圧倒的な感情だった。
夜闇の迫る空に白い小さな雲が浮かんでいる。黒い影が動くのは竜の翼のようだ。軍本部の方角である。
自動軌道から自邸までの道を歩きながら、急使だろうかとアーロンは方角をたしかめる。帝都の市民は近隣の移動に竜を使うことがないから、上空を飛ぶ竜は少ない。移動にはすみずみまで整備された自動軌道が使われる。動力源は帝都を囲む巨大な環の中にあり、中心へ向かって〈法〉で制御された力を送りこんでいる。環の一部をなすのが城壁都市で、全体で帝都の守備を担っている。
母に強引に勧められ、アーロンがこの家をかまえたのは昨年のことだった。しかし内装は業者だのみで、薔薇とクレマチスで彩られた庭も定期的に訪れる庭師にまかせきりである。庭と草花をめぐる教養は帝都の上流階級には必須だから、少年の頃は他家への訪問の折りに花束を作ることもあったが、今はコツもろくに覚えていないありさまだ。
芝居が終わったあとに軽い食事をしたおかげで空腹ではない。セランは従姉妹ふたりと共に帰った。ラングニョール邸はアーロンの両親の屋敷と同じ、帝都の中心地区にある。
夜の庭で薔薇が香った。家は静かで異常は感じられない。それでも習慣になった動作でアーロンは防諜装置を確認する。ここ数年、反乱者、ことに「虹」の諜報工作があいつぎ、〈黄金〉は神経質になっていた。
まだ休日は終わっていないのに手持ち無沙汰だった。アーロンは書斎へ行き、持ち帰った書類に目を通すことにした。この家の防諜を完璧にしているのはここで仕事をすすめたいからでもある。皇帝陛下の勅令の意味をいまのアーロンは完全に理解していた。辺境の反乱者を最終的に制圧するには〈異法〉が必要で、帝国軍のまとまった部隊が〈異法〉を使えるようになるには大量の竜石が必要なのだ。
使者にやつした皇帝の忠告に従って〈黒〉に――エシュではなく――公的に情報提供を求めたところ、時間は多少かかったが、探索すべき対象である野生竜の資料は届いた。文書をまとめたのは〈黒〉の解析官だろうか。アーロンが知るエシュの文章ではなかった。要点はまとまっているが、いささか無味乾燥である。
文章にはそれ自体、筆跡、あるいは指紋のような性格がそなわっている。エシュがどんな報告書や論文を書くかアーロンはよく知っていた。軍大学時代に読みこんだからだ。筆跡や指紋が変わらないように、エシュが書いた報告書はアーロンにはわかる。この文書はちがった。
三分の一ほどざっと目を通したあたりで飽きがきて、やめることにした。家をかまえてもアーロンの生活は兵営とさほど変わりがない。両親や、それにブランドンのような男は味気ないというかもしれない。あるいは面白くない男だと。それでも困ることはない。アーロンは清潔なシーツに横になり、目を閉じた。
すぐに眠りにおちたはずだった。ところが、気がつくとアーロンはベッドに体を起こし、腕の中に囲い込んだ男の黒い髪をさぐっていた。
黒のあいだに混ざっている金色の房を指にからめ、唇をうなじから耳朶へ這わせる。男はくすぐったそうに震え、小さく笑った。アーロンは耳を舌で弄りはじめる。こりこりした骨を甘噛みし、舌で濡らす。さっきまで笑っていた声が喘ぎに変わり、アーロンの全身が期待と緊張で昂る。
もっと啼かせたい。
アーロンはきつく抱きしめようとする。そのとたん、手のひらと腕が空を切る。
愕然として声もなく叫んだ、まさにその瞬間に目が覚めた。
部屋は暗く、時刻をみると夜明けにはまだ遠い。ただの夢だった。〈法〉の幻影よりもリアルに思えたが、ただの夢にすぎない。
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