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【第2部 飲みこまれた石】11.アーロン―魚を取り逃がして水を飲む
あけ放たれた扉の向こうは正装の男女で賑わっていた。今日の晩餐会には宮殿でもっとも広い正餐室が使われることになったようだ。御前演習の観覧席にいた貴族や軍の高官が集まっている。出迎えの侍従はぶあつい絨毯をすべるように進み、アーロンを中に導く。
「アーロン」
すぐに声をかけてきたのはアーロンより二歳年長のノーム・ダンである。昔から行政官を多く輩出するキャラトル家の出身だが、ノーム自身は〈紫紺〉の上級将官だ。アーロンの父母はキャラトル家と親交がないが、彼は軍大学のサバティカルでアーロンと同じ時期に城壁都市にいた。つまりノームは「城壁事件」の際、アーロンの計画に従って動いた学生のひとりである。現在のアーロンにとっては、兵站を管轄する〈紫紺〉の内情を知るために重要なつてだった。
「今日の演習、父は腰が悪くて行けないというので代わりに見せてもらった」
ノームは笑顔でいった。正装の飾緒は〈紫紺〉の名の通り紫。剣帯に下げられているのは正装用の装飾剣である。
「忙しいのに悪いな」
「いやいや、俺には役得だったよ。今回の演習、貴族席以外のチケットは争奪戦でね」
別の招待客があらわれ、ふたりは奥の方へ移動した。ノームは御前演習を見物できて幸運だったとくりかえした。
「おかげで同僚に自慢できる。〈黒〉との空中対決、凄かったな。あの竜と一対一で戦えるのはさすがだ」
「残念ながら相討ちに終わったが」
「俺ならあのでかい図体から逃げ出すことしか考えられなかっただろうな。ダミー弾、大丈夫だったか? 洗い落とすのが大変だったろう」
「ああ。辺境で役に立つわけだ」
演習戦闘のダミー弾は地上をマークするためにも使われる。雨風で簡単に消えない上、高所からもくっきりみえるしるしを残すからだ。しるしをつけられた竜の洗浄で厩舎はてんてこまいだろう。
エスクーは落ちついただろうか。ノームと場繋ぎの会話を続けながら、アーロンの意識は自分の竜にむかっていた。演習の直後のエスクーはひどい興奮状態で、珍しく厩舎員を怯えさせていた。アーロンは晩餐会の準備もあって竜をなだめる時間がなかった。
いつものエスクーならダミー弾ごときで動揺しない。らしくないふるまいは弾が命中したショックだけとも思えなかった。エシュの竜――あの灰色竜がエスクーを惑わせたのだ。
「それにしても〈黒〉の竜――情報は多少もらっていたが、あんな空中戦をみせられて〈萌黄〉がどう思ったか」
「〈黒〉は陛下の直轄だからな。〈萌黄〉があれこれ考えても、陛下の御心には介入できない」
「ま、それはそうだが〈黄金〉のアーロンはまた違うだろう。例の反帝国向け宣伝、俺の部署でも話題になってるぜ。あれも陛下の肝いりなんだろう? おっと」
ノームの視線が泳いだ。「今日の花形の到着らしい」
侍従のあとに見覚えのあるシルエットがやってくる。アーロンが〈黒〉の正装をみるのは初めてだった。飾緒は銀で縁取った漆黒で、剣帯にはノームと同じ飾り剣がさがる。
エシュ。
最後に間近で顔をみた日のことをアーロンは忘れていない。帝都にあるアーロンの自宅で、いまだ行方不明の元〈黒〉団長、イヒカの消息について話したのだ。あのとき無造作に流されていたエシュの髪は、今は後頭部で結い上げられている。金色がまじる黒髪の房が顎をかこむように垂れている。
エシュは地面にほとんど足をつけないような、独特のしなやかな歩き方をした。軍服につつまれた体は高山の風で自在に揺れる細い樹木を連想させた。侍従は応接の間の奥までエシュを誘導した。小気味よく動く尻がアーロンの斜め前を通り過ぎる。
「正餐室の準備が整い次第お呼びいたします。お待ちください」
侍従がそう告げて離れ、エシュはとまどったような顔つきであたりをみまわした。しかし今日の話題の中心である〈黒〉の団長が到着したとなると、周囲の人々は放っておかない。アーロンはエシュに近づく数人のなかに、エシュの養父ルーの古い知己を認め、さりげなく視線をそらした。
アーロンの父ヴォルフは軍籍を離れたルーといまだに絶縁状態だ。アーロンにとってルーは長いあいだ、父と共に軍における憧れの存在だったが、いまやルーの名前は軍本部では穏やかでないものを呼びおこす。彼は皇帝の不興も買っており、軍籍を離れてからは一度も宮殿を訪れていない。
正餐室の扉はまだひらかない。宮殿の晩餐会に慣れている者は今日の席順に興味津々だった。軍人と貴族がずらりと並ぶ正餐室のどこに〈黒〉の団長の席が用意されるか、出席者は全員記憶して帰るはずだ。晩餐会の席順は皇帝陛下の意思を如実にあらわす。
エシュはどこまで理解しているだろうか、とアーロンは思う。自分は幼いころから貴族階級のしきたりや宮殿の慣習を教えられているが、エシュはそうではない。養父のルーがエシュに仕込んだのは付け焼刃にすぎなかった。士官学校でも軍大学でもエシュは周囲からすこしずれていた。アーロンにそう思えなかったのは、彼が裸で自分の下にいた時だけで――
記憶の底に隠していた光景が脳裏に再生され、体が思いがけず火照った。誰かが呼ぶ声で我にかえると、以前アーロンを取材したジャーナルの記者だった。公式取材班の腕章をつけている。明日の紙面を飾るためにエシュと並んだイメージがほしいという。
アーロンはいわれるままにそちらへ向かった。正餐室の扉の前に立つとエシュが肩をすくめて「よう」といった。撮影機をかまえながら記者が笑った。
「おふたりとも表情が堅すぎます。笑顔とまでいかなくても、もう少し――つきあいは長いんでしょう?」
エシュが小さくため息をついた。
「それなら肩でも組むか?」
「そこまでする必要はない」アーロンはぼそっとつぶやく。「適当に立っていればいい」
「さすが、慣れてるな」エシュは皮肉っぽくいった。
「反帝国キャンペーンで、帝都じゅうおまえの顔が貼られているじゃないか。驚いたぜ」
「俺が頼んだわけじゃない。広報部の指示なんだ」
「〈黄金〉の花形でいるのも大変なことで」
「おまえも人のことはいえなくなるぞ」
「なんだって?」
「……そうそう、ふたりともいい感じです。そんな表情で、では撮ります」
パシャパシャっと撮影機の音が響いた。記者はアーロンからコメントは取らず、礼だけ告げて離れた。正餐室の準備はまだ整わないようだ。エシュは居心地悪そうに首をめぐらしている。アーロンはエシュの結われた髪をみおろした。
「珍しいな」思わず口に出していた。
「何が」
「髪だ」
「これな」エシュは苦笑した。
「厩舎にドルンを入れてやっと一息つけると思ったら、宮殿から迎えがきたんだ。洗われたり揉まれたりで大騒動だった。おかげでダミー弾の飛沫はきれいになったが、ここの晩餐会ってそういうものなのか? ルーのところじゃ、こんな大げさなことはなかったぞ」
「宮殿に部屋を与えられたのか?」
「ん?」
エシュは質問の意味がわからないといった様子でアーロンをみた。
「〈黒〉はいま城壁都市にいる。おかげで帝都の軍本部には宿舎が割り当てられていないんだ。ルーの屋敷にいこうと思っていたが、宮殿に準備があるといわれた。イヒカにはこんな話きいたこともないし、正直、途惑うことばかりだ」
「――そうか」
アーロンの頭はめまぐるしく回転しはじめ、頬の筋肉がこわばった。対照的にエシュの口元には屈託ない笑みがうかんだ。
「おかげでおまえが帝都に家をもった理由がわかった。こんな時に屋敷が必要になるわけだな。ルーがいくら教えてくれても俺は結局、生粋の上流じゃない」
エシュがルーの養子になったのは十四歳の時で、アーロンがはじめてエシュに会ったのはルーの屋敷の庭だった。屋敷をあげてエシュに帝都市民と上流育ちが持つべき常識を叩きこんでいた頃である。予備学校に編入した当時も、アーロンにとっては当たり前のことをエシュはまったく知らなかった。
一度は花束をつくるのを手伝ったこともある。ルーの薔薇園で咲いた薔薇をアーロンの母に届けるためだ。エシュには驚くほど花束のセンスがなく、結局ほとんどをアーロンがやって、エシュは仕上げにリボンを巻いたくらいだったか。
あのときエシュはアーロンが渡した薔薇を嗅いで「いい匂いだ」といった。
「そういえばおまえの家も薔薇がきれいだったな」
エシュの言葉はアーロンの心を読んだかのように響いた。
「まさかとは思うが、庭園趣味もはじめたのか?」
「それこそまさかだ。庭師まかせだ」
「でなければ他の誰かの趣味だろう」
そういったエシュのまなざしが自分を探っているように思えて、アーロンは顔をそらす。
「べつに。近くに用があったときは来るといい」
「帝都の自動軌道を使う用事なんて〈黒〉にはないぜ。やっと変異体の準備ができたってんで〈萌黄〉がしびれをきらしているし、そのあとは」
エシュが何かいいかけたとき、正餐室の扉が内側へひらいた。出席者の名がひとりひとり呼ばれ、案内されて席にむかう。正面奥にしつらえられた皇帝陛下の御座から遠くにある席ほど先に埋まる。席順はいまの皇帝陛下が臣下をどうみなしているかを表している。アーロンが御座にごく近い右側列に座ったときも、エシュはまだ呼ばれていなかった。
アーロンは表情を変えないよう努力しなければならなかった。御座の左側列の先頭、前回の晩餐会では席がなかった場所に、今回は席がつくられている。さりげなくあたりをみまわすと、事情に明るい宮廷人や貴族がやはりその席を気にしていた。
アーロンが座る右側列は皇帝が寵をかけていることを意味するが、左側列の先頭には別の意味がある。あそこに座る者は陛下の特別な寵をうけているとみなされる。
エシュの名が呼ばれた。案内の者が椅子を引き、〈黒〉の団長は左側先頭に腰を下ろした。
アーロンの唇はからからに乾いていた。水を飲むのをかろうじてこらえ、皇帝が御座にあらわれるのを待った。
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