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【第2部 飲みこまれた石】12.エシュ―湖のむこうに、こちらを指さす男がいる

  *  変異体竜の〈地図〉で部隊を編成するのは、皇帝陛下の悲願だった、という。  晩餐会で俺はそのことを称えられている。皇帝陛下のすぐ近くの席に案内された理由もそれにちがいないが、周囲の人々の視線が痛いほどだ。音楽の演奏のつぎに、出席者が囲むテーブルの上で余興がはじまった。空中にイメージが投影され、物語を綴っている。ストーリーは定番の帝国神話、竜と剣と英雄の物語だ。ラストでは英雄の足元に竜が屈服し、巨大な頭を垂れて英雄に従うのだ。  ごつごつした竜の頭が大きく拡大され、拡散すると同時に七軍団の色――黄金、紅、萌黄、碧、紫紺、灰が点滅した。室内が暗くなり、今度は空中にぽうっと銀の光が浮かぶ。棘の生えた頭と尾をもつ竜のシルエット。ドルンのイメージだ。皇帝陛下の声が響いた。 「今日は良い日であった。〈黒〉のエシュに褒賞をとらす」   *  晩餐会のために軍本部の厩舎まで宮殿の迎えがやってきた時、俺は正直な話、おそれいった。  新調した正装は軍本部に届くものとばかり思っていたが、宮殿の居室を用意したからそこで支度をするという。正面からダミー弾を浴びたにもかかわらずご機嫌ではしゃぐドルンを落ちつかせ、やっと一息つけると思ったのに、今度は見慣れない緑のお仕着せのあとについて自動軌道に乗ることになった。  俺の顔は赤と黄色でまだらになっている。厩舎員がむやみに怖がらないよう、ドルンの相手を優先したおかげで塗料がゴワゴワに固まってしまった。棘まみれのでかい灰色竜は「ご機嫌」だからといって扱いやすくなるとはかぎらない。思い切り飛べたのがよほど嬉しかったのか、仕切りに入りたがらずしばらくごねた。  いったん心が通じてみると、ドルンは予想したより勤勉というか、真剣な性格の竜だった。自分の力を存分に発揮することに喜びをみいだすタイプらしい。気分がのらないとすぐ怠けようとしたツェットとは正反対だが、棘や鱗にくっついたダミー弾の飛沫を気にしないのは助かった。  変異体の新陳代謝は通常の竜体よりずっと速く、鱗の隙間に入った塗料も数日で剥がれ落ちるだろうが、竜の性格も多いに関係している。これがツェットなら、厩舎員にこすりおとしてもらったあとも不満そうに鳴くだろう。  俺は昔の竜を懐かしく思った。すこし前に届いた報告によると、ツェットの翼は順調に回復しているが、また飛べるようになるまで道は長い。〈黒〉の竜であることに変わりはないが、今後も俺が乗ることはないかもしれない。  軍本部から宮殿まで通じる自動軌道はただの軍人には使えない移動手段である。最終的に連れて行かれた先も一介の軍人には不似合いな場所だった。俺は歩いた距離と廊下を曲がった回数を数え、宮殿の北東あたりかと見当をつけたが、扉が開くとそこは豪華な浴室つきの部屋で、窓がなかった。奥には天蓋つきの寝台がおかれ、宮殿の召使らしいお仕着せ姿がふたり、待ちかまえていた。  いったい何のために? 俺の晩餐会の準備のため――らしい。  その後の数時間は俺にとって未知の……いたたまれない時間だったのであまり思い出したくない。風呂で体を洗うのこそ自分でさせてもらえたが、そのあとは他人に髪を洗われ、肘や足の裏をごしごし磨かれ、爪を切ってやすりをかけられ、顔は髭どころか眉毛や鼻毛まで整えられた。風呂上がりにオブラを渡されたのには心底驚いたが、渡した側は当然のような顔をしているので俺はおとなしく尻に入れた(もちろん、自分で)。  二人がかりで背中や腰を揉まれたり香料の効いた何かを塗りたくられたりして、しまいにうつろな気分になった。体を揉まれるのは気持ちよかったが、このまま眠れるわけではないのだ。竜が人間に鱗や鉤爪を手入れされているときに味わう気分がこれなら、嫌がる個体がいるのもわかる。用意された正装は体にぴったりで着心地はよかった。最後に髪をいじられ、顔に粉をはたかれて準備は終わった。  指輪を嵌めなおそうとしたら「おやめください」と止められた。杖も含め、法道具をもつのは禁止だという。煌びやかな小箱をさしだされ、俺はしぶしぶ指輪をそこへ入れた。  帝国に来る前から肌身離さず身に着けていたものを置いていくのは気が進まなかった。俺の小刀もイヒカが持って行ったきり、行方がしれない。正装のひとつである飾り剣は切っ先のまるい、柔らかくしなる材質のものだ。  やっとそこを出て宮殿の廊下を歩き(今度はおそらく北方向へ)人でごった返す広い部屋へ入ったとたん、周辺がわかりやすくどよめいた。案外顔を覚えられているものだ――なんて呑気な感想を持てたのはほんの一瞬だった。腕章をつけた記者とほかの出席者に囲まれたからだ。 「空の戦い、素晴らしかった!」 「あんな風に棘が生えた竜にどんな風に乗るんだね? 鞍は既製品か?」  俺を囲んだ顔には見覚えのあるものも初対面のものもあった。ルーの屋敷で何度か会ったことのある貴族は挨拶だけですぐに離れた。ルーはもちろんこの場にいないし、演習にも現れなかった。記者が明日のジャーナル掲載用のイメージを撮りたいというので、促されるまま奥へ歩いていくと、アーロンがいた。  ダミー弾の飛沫はかけらもみえないし、竜の背にいたときと違ってにこりともしない。俺も似たようなもので、仏頂面でアーロンの横に立ったが、記者は「表情が堅すぎる」といった。 「笑顔とまでいかなくても、もう少し――」  肩でも組むかとぼやいたら、アーロンは適当に立っていろ、といった。さすが取材慣れした男だ。明日のジャーナルを〈黒〉の連中がみたら何をいうことか、シュウにこきおろされるんじゃないか。そんなことを思いつつも、結局おとなしく撮られた。記者がその場を離れると、なしくずしにすこし話をした。  アーロンは俺の髪をみつめている。こんな髪型は生まれて初めてだし、珍しいと思われても仕方ない。そういえばこいつは、俺の髪を弄るのが好きだった――突然そんな記憶がよみがえり、俺はむずがゆい気分になった。学生のころ、規則ぎりぎりの長さまで放置していた俺にアーロンはよく小言をいっていた。そのくせ夜は逆で……。  話しているとやっと晩餐の広間へ人々が動きはじめた。俺の名前が呼ばれたのは最後で、着席後まもなく皇帝陛下がお出ましになった。  余興と褒賞授与のあとはじまった正餐について、俺はろくに料理の味がわからなかった。コースが進むあいまに皇帝陛下が臣下へ言葉をかけていく。声をかけられるのは御座の近くにいる者だけで、つまりこれが皇帝の寵をあらわすということか。  陛下は十代で帝位についてから三十年、いまや壮年となっているが、それでもルーやヴォルフより若い。御座のまえにひざまずいて褒賞のブローチを受け取ったときは、見下ろす姿がひどく大きくみえた。気圧された俺は数秒しか陛下の顔をおがめなかったが、きりりと上がった眉と彫りの深い顔立ちは帝都や基地のいたるところに掲げられている。  俺と反対側のテーブルではアーロンが顔をあげ、皇帝からねぎらいの言葉を受けている。俺に直接声がかけられることはなかったが、実をいえばほっとした。皇帝陛下を人々がみつめるのは当然としても、自分に向けられる視線が不可解だったからだ。ひとりやふたりではなく、しかも値踏みされているような、無遠慮な印象を受ける視線だった。  しかし軍人ならともかく――彼らは〈黒〉が軍団でどんな立ち位置にいるかを知っている――あきらかに軍と無縁な装いの貴族たちが俺になぜ興味をもつ? 変異体の竜部隊をもつことが皇帝陛下の悲願だったとしても、俺は編成に貢献しただけの一将校にすぎない。  気疲れのする時間が経過し、やっと晩餐がおわったとき、俺は心底くたびれていた。すべての料理の皿に手をつけたにもかかわらず、なぜか空腹も感じていた。体の内側に熱がこもっているかのようで、足りないという気がして仕方がない。  俺のとなりでお仕着せの召使が膝をかがめた。 「エシュ殿。おつけいたしましょう」  俺は黙ったまま、召使が褒賞のブローチを襟にとめるのを他人事のようにみていた。渦を巻く銀のブローチの中央に青い球が嵌っている。これが帝国でどんな名誉を意味するのか、俺にはいまだにわからなかった。 「お部屋までお送りします。こちらへ」  晩餐の広間を出たとき、また誰かに見られていると思った。なんとなく予感がして、ふりむくとアーロンがいた。  気に入らない目つきだった。なんだか非難されているような気がした。竜の背にいたときは笑ったくせに。  戻るだけなら一人でも大丈夫だったし、そう告げようとしたのだが、いつのまにか俺のうしろにも召使がついて歩いている。両開きの扉の前までたどり着き、俺は眉をひそめた。召使が開いた扉の左右にわかれ、膝をついたからだ。 「エシュ殿が戻られました」  返事はない。俺は顔をしかめて中へ入った。最初に目についたのは、この部屋を出た時は存在しなかった円卓だ。その向こうに使者がすわっている。円卓には色鮮やかなフルーツを盛った器が乗っていた。 「レシェフ――殿? これは……」  俺は困惑してふりむいたが、扉は閉まっていた。召使たちは外か。 「物足りなさそうな顔をしていたのでな」  声がレシェフのものではなかった。この声はさっき、いや……?  俺はまばたきし、前に出た。レシェフが白い歯をみせて笑った。顔の輪郭がふるふると揺れる。 「そなたは地図師としては稀にみる逸材で、竜を馴らすのもお手のものだが、|幻影《イリュージョン》を破るのは苦手らしい」 「この声は、まさか、皇帝陛下……?」  俺の目の前で使者の顔が溶ける。ぼやけた表面が別の顔――帝国のいたるところにかけられた顔にすりかわる。胸に下がった鎖の先に帝国皇帝の印璽が揺れている。 「〈異法〉の使い手が余の得意を見破れなかったと思うと、余もなかなかではないか?」  俺は顔に血がのぼるのを感じた。レシェフが皇帝陛下本人だと? 城壁都市に訪れていたのも? 「まさか……陛下は……最初から?」 「姿変えの幻影(イリュージョン)ならそなたも使うであろう? レシェフは気に入ったか」  目のまえにいるのは帝国の最高権力者だ。この宮殿の所有者であり、俺どころか〈黒〉全体の処遇をひと声で左右できる人物。俺はあわててひざまずいた。皇帝はあきらかに俺の困惑を楽しんでいた。白い手がこちらに伸びてくる。 「もっと寄れ」  レシェフとおなじ、傷のない手が褒賞のブローチをなぞる。  どうして気づかなかった? いや、皇帝陛下自身が完璧な幻影をつくれる法術師なら俺にわからないのは当然か。幻影の効果を剥ぐのは上級者にとっても簡単ではないし、素質も重要だ。イヒカは得意だったし――そのせいで俺は最初に彼と会ったとき、ひどい目にあった――アーロンもたぶん得意だ。軍大学時代、俺はあいつに何度も幻影を剥がされた。 「むろん、そなたが余に無礼を働いたなどと思ってはおらぬ。そなたの素の顔を楽しませてもらった。余もなかなか芝居がうまかろう?」  ブローチに触れた手は上へ、ひざまずいたままの俺の首をたどり、顎へ動いた。陛下が幻影(イリュージョン)に長けているという事実に俺はまだ驚愕していた。これは途方もない機密事項だ。俺は秘密を知らされたわけだ。  罠が左右で口をひらいているような気がした。唇が渇き、喉がひきつった。 「果物はどうだ」顎から手が離れた。「晩餐は物足りぬもの。そうではないか? 竜ならそうであろう。つねに足りぬ」  皇帝は紅い実を指先につまんだ。 「そなたは美しき余の竜。食べなさい」  俺は丸い果実を唇で受け、飲みこんだ。甘酸っぱい飛沫がはじけ、喉をくだる。果実の水気はたちまち唇から失せた。もう一粒欲しくなる。皇帝がまた円卓の方へ手を伸ばした。今度は果物ではなく、あの箱をつかんでいる。俺の指輪を入れた箱。 「陛下」  俺は反射的に手を伸ばした。 「お返しください」  帝国臣民として、これがどれほど不敬な行為に当たるのかなど、その瞬間は考えなかった。皇帝も俺の言葉を歯牙にもかけなかった。手のひらで箱を揺らした。 「この指輪にはそなたの竜石がある。つまり竜石が……〈黒〉は余の竜部隊で、そなたは余の竜。イヒカが消えたあと、神はそなたを余に与えられた」 「陛下」 「そうおそれるな。指輪はのちほど渡そうぞ。今宵は余の下で余の寵を受けよ。この竜のように」  また指が俺の顎にかかり、俺は上を向かせられる。皇帝の胸で印璽が揺れ、表面に刻印が赤く浮かび上がった。剣のもとに竜がひれ伏している。

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