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【第2部 飲みこまれた石】13.アーロン―苦い歌を背負って運ぶ

 夜になっても軍本部は完全に眠らない。  反乱者の動向を監視する〈碧〉や〈灰〉は遅くまで稼働し、その他の軍団も辺境の基地と常時連絡をとっている。皇帝陛下の晩餐会がひらかれている夜であっても、帝国軍が静まりかえることはない。反帝国宣伝を広め、隙あらば〈地図〉を奪って蜂起をこころみる者たち――「虹」をはじめとした反乱者の組織や、そのシンパへの対策を続けているのだ。  しかし〈黄金〉は当直の兵士を数人残すだけで静けさに包まれていた。アーロンは正装のまま執務室のドアをあけ、後ろ手で叩きつけるように閉めた。入室に応じて足元に灯った明かりはわずかで、室内のほとんどは闇に包まれているが、歩幅で空間を記憶するアーロンには何の問題もない。執務机の椅子を引き、どさっと腰をおろす。  皇帝陛下の晩餐会でエシュは青珠を賜った。  飾りピンの宝珠の色に気づいた者は何人いるか。青珠は特別な寵を意味することくらい、アーロンも知っている。宮殿のなかで噂はすぐ広まるだろう。宮廷人にとって、青珠をつけた者は皇帝の次の者としてかしずく対象となるからだ。むろん皇帝の意向により扱われ方は異なるし、帝国史をふりかえると、青珠をつけた者が増長して混乱が起きたこともある。しかし現皇帝は一度たりともそんな隙はみせなかった。  そういえば皇帝陛下は以前、イヒカにもかつて特別な寵を与えたと話したが、どのくらい昔の話なのだろう。彼が〈黒〉の団長となるより前のことなのは間違いない。宮廷人の養子であるイヒカには謎めいた点が多かった。士官学校を出たとされているものの、具体的な記録はほとんど残っていない。宮廷人と帝国軍部は昔からそりがあわず、同じく皇帝陛下に忠誠を誓っているのに、対立することもあった。情報が欠落する原因のひとつだ。  エシュは今どこにいるのか。  決まっている。宮殿だ。緑服の侍従のあとについていくのをアーロンはみた。予想されたことでもある。晩餐会に現れたエシュの身なりも手がかりのひとつだが、何よりも皇帝陛下自身が以前アーロンに告げていたのだから。 「皇帝陛下は帝国の支配者にして為政者、神の憑坐(よりまし)。神の声をもって竜を退ける英雄の行く手をしめし、帝国全土に君臨する」  執務机に肘をつき、うつむいたままアーロンは帝国神話の一節をつぶやいたが、心は晴れるどころかさらに昏く塗りつぶされた。帝国と皇帝陛下に忠誠を誓う立場として、本来なら唾棄すべきみずからの欲望と嫉妬で腹の底がふつふつとたぎる。何年も前、二度と会わないと誓ったはずの相手に対し、竜のごとく悪しき執着が消えないとはどういうことか。  今ごろエシュは何をしているだろう。皇帝陛下が寵を与える以上、彼の意思がどうあるかは問題ではない。そもそも陛下の寵は、エシュにとっては歓迎すべきことにちがいなかった。〈黒〉は皇帝直轄部隊といいつつも、ずっと他軍団の影として扱われてきた。他の軍団のように行き届いた拠点もなく、優遇されてきたとはいいがたい。それが変異体の竜たちを従えたいま、ようやく日の目をみたのである。  エシュは〈黒〉と竜のためなら何だって差し出すにきまっている。  アーロンは歯を食いしばった。そもそも、昔あれほどアーロンを裏切ったエシュ――肉体の快楽に弱いエシュのことだ。むしろ進んで……。  脳内にあらぬ像が思い浮かびそうになり、アーロンは思わず執務机を拳で殴りつけた。室内に響いた音で我にかえった。  慌ただしく立ち上がる。ここにいたところで無駄というものだ。明かりをつけ、正装を脱いで予備の私服に着替えはじめた。ボタンをとめ、上着に袖を通し、正装はロッカーへ納める。鏡をのぞきこんだとき、背後の壁に掛けられた絵に目がいった。帝国神話の一場面「神の降臨」だ。よくある古典的な題材だが、正面中央で戦う若者はアーロンの顔に似せてあった。〈黄金〉に配属されることがきまったとき、アーロンの母が肖像画のかわりに描かせたのである。 「神がこの世に訪れたとき、地上には〈地図〉なき事物、〈法〉なき人間しかいなかった。神は世界に〈地図〉を与え、次に〈法〉をもたらした」  これも子供のころから親しんだ帝国神話の一節だ。この世に神が現れる前、人間は地上の覇権をめぐって竜と争った。争いによって世界が滅亡寸前に追いやられたとき、神があらわれ、人間の行くべき道を示した。 (神に理不尽なことを告げられたら、おまえはどうする)  唐突に脳裏にエシュの声がよみがえった。これを聞いたのはいつだったか。  昔から「神」についてエシュは冷笑的な態度をとっていた。ときおりアーロンが神への祈りを口にしたときも――帝国臣民ならふつうのことだ――不敬な、あるいは馬鹿にしたような目でみたものだ。エシュが祈りを口にするところなどただ一度――黒鉄(くろがね)竜をまえにした土壇場のときしか見たことがない。  それにあの時も、エシュが祈ったのはアーロンの神ではなく、別の何かのように思えた。  物心ついたときから信仰に親しんでいたアーロンには、エシュのそんな態度は気にもならなかった。みずからより大きな存在、世界そのものを救うような存在を畏敬し、その声に従うのは当然のことだった。自分の信念を疑う必要もなかったので、エシュがどれだけ「神」の話題に反抗的でも、あまりきちんと考えたことはなかった。 (筋の通らない無茶苦茶な命令、予言、なんでも)  そうだ、あの時エシュはこういった。彼にとっての「神」は、アーロンが信仰する超越者ではなく、軍の上官レベルであるかのように。まるでエシュみずからが神の声を聞いたかのように。  自分は何と答えただろう?  アーロンにとって運命は神の与えるものだった。神の意思はすべてを包含する。真に神が命じられたのなら、いずれ為される。たしかそう答えたはずだ。  それでは自分の腹がこのように煮えたぎるのも神の意思なのか。  嫉妬や敵意をもてあますのも、皇帝陛下自身に対抗心を燃やすのも、そうなるようにエシュと再会した運命も、神の意思なのか。 「……神、か。」  アーロンは音を立ててロッカーを閉じると、執務室の明かりを消した。

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