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【第2部 飲みこまれた石】17.アーロン―湖の底に沈む
「反帝国の制圧、今回もうまくいったそうですね。〈黒〉が帰還したと話題になっていました」
「ああ」
生返事をしたアーロンに向かって、セランが困ったような表情で眉をあげた。
「アーロン?」
「ああ、すまない。考え事をしていた」
花びらのかたちにカットされた果実が白磁の皿に盛りつけられている。表面にまき散らされた透明なゼリーが昼間の光をうけてきらめく。セランは銀器を優美な仕草であやつり、果実の花びらを一枚一枚口に入れた。たたずまいはいつもとおなじく美しかったが、うわの空のアーロンはほとんどみていなかった。
今日のセランは私服だが、アーロンは軍服である。皇帝陛下の私的な謁見のためにこのあと宮殿におもむくことになっていたためで、そのまえに昼食でもと誘ってきたのはセランの方だった。従姉妹の令嬢たちの観劇に同行したあと、アーロンはろくに彼と連絡をとっていなかった。そればかりか、自分から連絡をとらなかったことに気づいてすらいなかった。
庭園をみおろすレストランは満席である。高級ブティックや画廊といった瀟洒な建物がならぶ区画は宮殿からも近く、テーブルについているのは上流の身なりをした人々ばかりだ。
「〈黒〉の新団長は陛下のおぼえめでたいようですね。戦果を聞くたびにたいへん喜んでおられるとか」
さらりといったセランにうなずきながらアーロンはデザートの皿に手をつける。しかし内心はこの話題になるだけで動揺する自分自身に苛立っていた。
「それは使者のあいだでも噂に?」
「僕たちのあいだでは噂というより事実の確認です。陛下が左側に人を置くのはしばらくなかったことだそうで、意外ではありました。でも、あの方に驚かされること自体はめずらしくもありませんし」
「そうか」
「彼はあなたの古い友人ですから、僕の個人的な印象はともかく、陛下の寵も悪いことではないのでしょう? それにしても、帝都にいない人物がこんなふうに噂になるのも珍しいですね」
「陛下のなされることだからな」
自分の苛立ちの核心に触れられないよう、アーロンはさりげなく話を終わらせようと試みる。デザートの果実は甘かったが、胸の内は苦々しい気分でいっぱいで、それをセランに悟られたくなかった。
ちかごろ〈黒〉とその団長は目立ちすぎている。
士官学校時代からエシュに良い印象を持っていないセランが話題に出すくらい、軍本部も宮殿でも〈黒〉の団長であるエシュの噂は途切れない。セランがいったとおり、本人はほとんど帝都にいないというのに。
新編成の〈黒〉を投入した作戦はどれもうまくいき、反乱者に手を焼いていた地域も鎮静化しつつあった。〈黄金〉の参謀本部としては喜ばしいことだ。〈黒〉が帝国の七軍団に格上げされたにもかかわらず、エシュはすべての出撃に同行している。他の軍団長ならありえないことだが、特殊な竜で組織された部隊はエシュが先頭にいなければいまだに統率がとれない、というのが理由である。
いつもなら辺境を転々とする――させられている――軍人は出世コースからはずれているとみなされる。帝都での影響力を持たず、話題にものぼらないのがふつうだ。
帝国軍だろうが行政庁だろうが、帝国を維持する組織は巨大な歯車が噛みあった装置のようなものである。歯車になるのは個々の人間で、ひとりひとりが権力の階層をかたちづくる。個人の思惑や欲望は潤滑油のように歯車のあいだを流れ、接触が頻繁なほど他者への影響を大きくする。だから人々が集まる帝都から離れて辺境を転々としていれば、自然に歯車機構の隅に追いやられ、忘れられる。
〈黒〉の前の団長、イヒカはこのような仕組みに熟達していた。彼は歯車の影でうごめく謀略から距離をとり、〈黒〉を軍団の外れ者として、ある意味で安全な場所に置いていた。皇帝陛下の直轄部隊とはいえ、実質的に〈黒〉のありかたを決めていたのはイヒカだった。彼の采配はアーロンの注意をひき、〈黒〉という部隊の過去を調べる契機になった。
しかしアーロンが指揮した作戦をきっかけにイヒカは行方不明になり、エシュは〈黒〉の団長に据えられた。そればかりか、|黒鉄《くろがね》竜を撃退したエシュの〈異法〉は皇帝陛下を惹きつけ、陛下はエシュに特別な寵を――晩餐会で授与した青珠が示す、陛下の左側に座る寵を――与えるようになった。
エシュはこの事態を喜んでいるだろうか。
宮殿に向かいながら、アーロンはこれで何度目かになる問いを胸のうちで繰り返した。あの男はむかし何度かアーロンを「くそまじめ」と呼んだものだが、呼ばれたアーロンからみれば、エシュは不器用そのものだった。
とびぬけた能力ゆえに逆立つ棘をおさめられず、衝動的に常識はずれな行動に出ることを不器用と呼ばずしてなんという。そのくせイヒカの隣ではきっちり部隊を統制して、他人への義理を果たそうとする。イヒカに対する、アーロンには奇妙にも感じられる忠誠心は、エシュが養父のルーに向けていたものに似ている。
そしてエシュのそんなところが――破天荒なのに合わない型に嵌ろうとする、矛盾した部分が――アーロンを惹きつけたのだ。
惹きつけて――くそ。
考えるたびにたぎってくるものが、エシュがいま陥っているにちがいない状況への怒りと、アーロンの立場では持つことを許されない嫉妬であるのは、疑いようもなかった。しかしいつもの小さな謁見室で御座のまえに膝をついたときには、アーロンはこれらの感情をきれいに拭い去ろうときめていた。
自分が考慮すべきは竜石を獲得せよという陛下の命令と、〈黄金〉の参謀本部の役割、つまり帝国の守備と辺境制圧のために〈黒〉を効果的な戦力として使うことだけだ。その結果につながることだけ考えればいい。
あらわれた皇帝はすこぶる上機嫌だった。竜石作戦の進捗を聞かせろといわれ、アーロンは手短に今後の予定を説明した。反乱者が蜂起した辺境で展開している一連の作戦を終わらせ、〈黒〉の準備が整い次第、実行に移す手筈である。
「余の〈黒〉はよく戦うであろう」皇帝は満足げに微笑んだ。
「ようやく戻ったというので、今宵はエシュを呼んでおる。こたびは面白い土産があるはずだ。神がいわれるには、世界図 を完成させる道具になるものだ」
アーロンはへそのあたりで熱い怒りが首をもたげるのを懸命に無視した。淡々とたずねた。
「おそれながら陛下、世界図 とは?」
「すべての〈地図〉を手に入れた暁に余の帝国が得るものだ。歴代の皇帝の誰も成し遂げなかったものだが、余には完成できると神は告げておる。もちろんまだ時間はかかる。すべての〈地図〉を得るには段階を踏まなければならぬ。竜石に〈異法〉……これをもたらす可愛い竜が手のうちにいるのは楽しいものだな。ひさかたぶりに特別な寵を与えるのもよいものよ。これも神が示さなければ知らなかったであろう」
――神。
アーロンはうつむいたまま顔をあげないように心掛けた。イヒカの姿をした何者かの声がふいに頭をよぎった。
(この世界の人間は、我々によって動かされる者をわざわざ、最高権力者として崇めたてまつる)
陛下を導く神とはいったい何者だろうか。それははたして俺が祈りを捧げてきた神なのか。
その夜はなかなか自宅に戻る気分になれなかった。しかし以前のように街をうろつき、思わぬ相手と不意の遭遇を果たしたくもない。アーロンは周囲が静かになっても軍本部の執務室に座っていた。やろうと思えば仕事はいくらでもある。
ドアが叩かれたのは、このまま朝までいても良いかと考え始めた時刻だった。あらかじめ夜警に邪魔しないように伝えていたから、机を離れてドアへ向かったアーロンの中には不審な気持ちと同時に、自分でも奇妙に感じる、予感のようなものがあった。
「誰だ?」
押しあけたドアの向こうに黒髪がみえた。まさかそんなはずはないという言葉が頑固に頭をよぎった。しかしアーロンの心の一部はとても自然なことのように廊下に立つ相手の顔を受け入れた。
「エシュ」
「よう」
「どうした」
〈黒〉の団長は軍服の襟元をきっちり閉じていた。瞼の下側が黒く影になっている。髪はエシュを知る人間には不自然なほどきっちり梳かしつけられ、首の後ろで結ばれている。
「じつは〈黒〉も軍本部に執務室と宿舎をもらった」
エシュは廊下のずっと先の方を指さした。
「俺たちも軍本部に仲間入りというわけだ。宮殿からの帰り道に探検していたら、おまえの名前があった」
「こんな時間にか」
「おまえもな。入れろよ」
アーロンは後ろに下がった。エシュの足取りは一瞬どこかおぼつかないようにみえたが、アーロンがみつめているとさっと背筋をのばした。
「疲れているな」アーロンは思わずいった。
「〈黄金〉の采配のせいだ」エシュはあっさりと答えた。「しばらく訓練にかまけていたのが、急に辺境をいったりきたりで、俺もドルンも他の連中も大忙しだ」
「ドルン?」
「俺の竜。おまえのエスクーにダミー弾を撃たれたあれだ」
「変わった名前だな」
「あいつにはぴったりさ」
エシュは執務室のなかを物珍しそうに見渡している。椅子を示しても首をふった。アーロンはデスクの向こうにまわり、腰をおろした。こんな夜中に訪ねてきた意図を考えようとしたが、エシュがいつでも予想を裏切ることを思い出してやめた。
「今回の作戦はどうだった」
話の糸口にそうたずねると、エシュは軽く首を振った。
「どうということもないさ。〈黒〉のポテンシャルは高い」
「何かあったのか?」
「なんでそれをきく?」
「おまえがここにいるからだ」
エシュはアーロンをみつめて小さく吹き出した。
「気まぐれだ。まあ、おまえがいたからには……」
また肩が下がった。アーロンの鋭い目は不自然な姿勢を見逃さなかった。
「エシュ、大丈夫か?」
「実は剣をみつけた」
「剣?」
エシュの眸が暗くかげった。
「アーロン、おまえの……」
何か話そうとした声が小さく尻すぼみになる。唐突にはっきり「何でもない」といった。
「悪い。疲れているらしい」
「エシュ、本当に……大丈夫なのか?」
「何が?」
何が? それはもちろん――アーロンは口に出しかけた言葉を飲みこんだ。もちろんこんなことは聞けない。皇帝陛下はおまえをどう扱っているか、など。
「疲れているのなら早く眠れ」
反射的に出た言葉はむやみにそっけない口調になったが、エシュはなぜかほっとしたような目つきになった。
「ああ、そうするよ」
ゆらりと肩を揺らして小さく笑い、きびすを返す。アーロンは机に肘をついたままその背中を見送ったが、ドアが開くのをみたとたん衝動に駆られて立ち上がっていた。
「エシュ! 待て!」
黒髪の男はふりむかなかった。ドアがぱたんと閉まり、部屋は静かになった。
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