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【第2部 飲みこまれた石】19.アーロン―自身の尾を食いちぎる者
通りの左右には小さなブティックやパティスリー、宝飾店がひしめき、洒落た服装の男女で混雑していた。薄暗い店内に慣れた目に昼の光は眩しく、アーロンは思わず目を細める。隣で店の主人が腰をかがめ、私服のアーロンを送りだした。扉には皇帝陛下御用達のしるしが鈍い光を放っている。
「本日はありがとうございました。お父上にどうぞよろしくお伝えください」
「ああ。父も母も喜ぶだろう」
この店の主人はアーロンが少年のころからの顔なじみだった。
「アーロン様の御用でお越しくださる日も楽しみにしています」
「それは……どうかな」
「お噂はうかがっていますよ。どうぞ、よい日を」
アーロンはうなずいて石段を下り、小さな紙袋を片手に通りを歩きだす。ヴォルフは妻の誕生日の贈り物を毎年あつらえるのが習慣だった。アーロンの母親の部屋にはピンブローチのコレクションが飾られており、彼女は気分でその日に使うものを選ぶ。結婚して何十年経っても、今年の贈り物をどのくらい妻が気に入るか父はいまだに気にかけているらしい。
セランとの約束まですこし時間があった。人でごった返す道を歩くとたまにアーロンの顔をじろじろ眺める者がいる。アーロンは人影のすくない横道へそれた。その通りは劇場街への近道らしく、今度は左右の塀に宣伝ポスターがひしめきあっていた。
色あせたものから真新しいものまで、動かない俳優の視線に凝視されながらアーロンは小路を歩く。以前セランや彼の従姉妹たちと観た芝居はいまだに好評を博しているようだ。ロングラン御礼の貼り紙の横に金髪と黒髪の俳優が笑顔で並んでいる。ちらりと一瞥をくれて、アーロンはふと足をとめた。大判のポスターの右隅が剥がれて、その下に黒い貼り紙が覗いている。
アーロンの注意をひいたのは黒を背景に浮き上がる淡色の文字だった。つい最近〈灰〉の報告書でみかけた字体だ。上にかぶさったポスターは軽く持ち上げるときれいに剥がれた。アーロンは表情を変えずにポスターの裏側を眺め、指でこすった。粘着剤の感触が指先に残った。
『神は人に降臨せず、大地と空におわす』
『故郷の心を思い出せ』
『帝国という名の暴力を許すな』
ポスターの下の言葉は〈灰〉の報告書にあった文面とおなじだ。「虹」の宣伝ビラだった。
黒い地を背景にした文字をアーロンはまたも表情を変えずにじっくり眺める。ついで、持ち上げていたポスターをぴったり上から貼り直した。
〈灰〉はこれを泳がせているのか、それとも気づいていないのか。劇場に「虹」の関係がいるのか。いくつかの可能性が頭をよぎったが、いまのところは場所を正確に記憶するだけにとどめた。
何事もなかったように小路を歩き、ふたたび大通りへ出る。案の定、目的地には待ち合わせ時間より早く着いたが、セランはもうテラスで待っていた。
前回はセランに誘われたが、今日の食事に誘ったのはアーロンの方だ。セランとの交際はしばらく前からこんな調子だった。おたがいにゆずりあうとでもいうか、借りを作らないようにしているとでもいうか。
とはいえずっとこんな距離感だったわけでもない。一年ほど前、アーロンが軍の宿舎を出た頃はもっと甘い雰囲気だったように思う。しかし軍務に追われるうちに時はなんとなく過ぎ、たまに会う時間の密度はだんだん薄くなっている。
ならんで個室のテーブルに向かいながら、セランはアーロンの手元をみて「それは?」とたずねた。
「父に受け取ってくるよう頼まれた。母の誕生祝いで、毎年種類のちがう花のピンをオーダーしているらしい」
「さすがヴォルフ様だ。素敵ですね。そういえば陛下の褒賞もこの工房の製作では?」
即座に脳裏に浮かんだのは晩餐会の光景だった。なるほど、エシュが賜った褒賞はおなじ工房の製作なのか。アーロンは表情を変えずに軽くうなずき、給仕が注いだ水のグラスをひと息に飲んだ。
「アーロン、今日このあとは用事がありますか?」
「急だが、軍本部に連絡したいことができた。反帝国の手がかりになるかもしれない」
ポスターの下に隠されたビラについて詳しい説明はしなかった。セランは一瞬まつ毛を伏せ、あきらめたような笑みを浮かべた。
「たまには仕事を忘れた方がいいのではありませんか?」
「次の作戦が終わって、戻ったら休暇を申請するつもりだよ」
「戻ったら――ということは、また帝都を離れるんですね」
「ああ。陛下たっての希望の竜石獲得作戦だ。〈黒〉を中心にした小規模の作戦になる」
「〈黒〉ですか……」
ふとセランは眉をひそめ、美貌を曇らせた。
「あなたが行く必要があるんですか? 制圧作戦でもないのに〈黄金〉が出るなんて」
「セラン、〈黒〉については陛下の意向だ。陛下は神意を得ておられる。神が示されたことによると、俺も何かの役割を果たすらしい」
「そういうことなら、僕ら使者も陛下のご意思で動くわけですし」
セランは気を取り直したようにうなずいた。しかし食事をしながらアーロンの意識は別の方向へ流れて行く。
竜石を獲得する一連の作戦には〈黒〉――というよりエシュが欠かせない。帝国軍で竜石の〈異法〉が使えるのは彼しかいないのだ。つまり作戦を開始すればエシュは自分の指揮のもと帝都を離れる。皇帝陛下も作戦が終わるまでは簡単に呼び戻せないだろう。
心の奥底にはできるだけ早くエシュを帝都から――皇帝から引き離したいという望みが沈んでいたが、アーロンは自分自身に知らぬふりを決めこんだ。第一、竜石を探すよう命じたのは陛下なのだ。
「ときどき奇妙な気分になります」
セランの声がアーロンの物思いをやぶった。
「こうしてふたりで会うようになって何年か経ちますね。士官学校の頃の僕には想像もできなかった」
口調に含まれた何かが引っかかって、アーロンは眉をあげた。
「どうして?」
セランは逆に不思議そうな目つきになった。
「あなたの横にはいつもあの人がいたでしょう。あの頃はずっとそうなのかと思っていました」
誰の話をしているのかはすぐにわかった。セランがあわてたように言葉をつづけた。
「アーロン、父が会いたいといっています」
「ラングニョール様が?」
「きちんとした席を設けないか、というんです。父も母も、あなたと僕がいずれ……一緒になると思っていますし」
アーロンは静かにセランを見返した。
「申し訳ないが、お父上には次の作戦から戻ったあとにしたいと伝えてくれないか。今は雑念を入れたくない」
「それほど重要な作戦なんですか?」
「ああ。俺が陛下の勅命を受けて立案した作戦だ。再編したばかりの〈黒〉にとっても……」
「あなたは〈黄金〉ですよ。ちかごろは誰も彼も〈黒〉の話ばかりですが」
いささか皮肉っぽい口調だった。アーロンは肩をすくめた。
「〈黒〉は長いあいだ、正しい評価をされずにきたからな」
「そう考えると不思議ですね。いまのあの人は皇帝陛下の左側だ」
そのとたんアーロンの胸はずきりと痛んだが、まっすぐ向けられた美貌に悪意はなかった。現実が刃となって切りつけてきたようなものだった。給仕が次の料理を運んできて、そのあいだセランは考えこむように目をふせていた。ふたりきりになってから静かにいった。
「アーロン、エシュは昔あなたを裏切ったんじゃないんですか? 僕はあなたが望むかぎり、ずっとあなたの隣にいます。あの人はもう、皇帝陛下のものです」
本当にそうなのか。それでいいのか。おまえの望みはなんだ。
アーロンの内側で渦巻いた疑問は目の前のセランに向けられたものではなかった。問いはアーロンの体の内側をかけめぐり、答えのかわりに怒りが小さな青い火のように燃えはじめる。
自分自身をつらぬく強靭な意思をアーロンはふいに自覚した。俺は誰にも、皇帝陛下にも曲げられはしない。現実が自分に切りつけてくるなら、立ち向かうまでだ。
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