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【第2部 飲みこまれた石】20.エシュ―おしゃべりな球根

 山地の小刀の柄は竜の骨でできている。新しい小刀の柄は白く、年月が経つうちに黄みがかって、やがて黒っぽい褐色へ変化する。柄に彫られた模様だけは白っぽく浮きあがるので、自分のものかどうかがひと目でわかる。  俺の小刀の柄には竜の鉤爪と翼のしるしが刻まれている。山地の子供はごく幼いころから小刀の使い方を教わる。糸やロープを切り離し、樹木の幹に刻み目を入れ、竜の皮を剥ぎ、果物の芯をくりぬく。他人の喉に突きつけることもあるかもしれない。しかし突きつけられる方にいるのは嬉しくない。 「そいつをどこで手にいれた?」  問いかけるとタキの唇の端が上がったが、何もいわない。路地にいるのはあとふたり、ひとりは俺のうしろにつき、もうひとりはタキの横に立ち、俺の動きを封じている。記憶の中のタキ――少年時代の彼が目の前の男と重なるにつれて、もうひとりの顔立ちに見覚えがあるような気がしはじめる。 「おまえはシャナンだ。そうだろう?」 「思い出してもらえてうれしいよ」  いきなり視界が暗くなり、両腕をとられてうしろに回された。袋のようなものをかぶせられたのか、口のあたりが締めつけられる。背中に尖ったものが当たった。俺の小刀か、ただの棒きれかもしれない。耳のすぐ近くで「行くぞ」という声が聞こえ、俺は腕を引かれるままに歩きだした。  俺に触れているのはタキだろうか。頭の中で歩数を数えながら、最近どうもこんなことが多いと思った。タキもシャナンも幼馴染で、辺境民で、一緒に山地で育った間柄だ。タキはおなじ年で、シャナンは俺よりいくつか年上。  どうして彼らがここにいる? 帝国軍が故郷を急襲して俺がルーに拾われたとき、みんな捕虜になったんじゃなかったのか。捕虜になって帝国に再教育されたあと〈地図〉化された辺境に戻された。ルーは俺にそういった。彼らは捕まらなかったのか。それにあの小刀……。  足を前に出すのが自動的な行為になったころ、腕をぎゅっと引っ張られて俺は足を止める。ぐるっと向きを変えさせられ、また引っ張られて足を動かす。また止められ、また回転。ちくしょう、と俺は思う。彼らは間違いなく山地育ちの反帝国だ。俺の方向感覚を知っていて混乱させようとしている。だいたい今の俺の感覚は万全からはほど遠い――皇帝陛下がお好みの薬はあとをひく。  頭を覆っているのは紙袋だろうか。ジャーナルのようなインクの強い香りがして、周囲の匂いが嗅ぎとれない。靴が踏む感覚はわかった。俺は舗道のさかいめをいくつか越え、小石を蹴飛ばす。俺が軍大学にいたころと帝都はどのくらい変わっただろう? 移動距離だけは計算できる――と、急にあたりが静かになった。建物の中に入ったのだろうか。  それでも俺はまだ歩いている。靴底が床だか地面だかに当たる感触がさっきより軽くなった。二回曲がり、靴先がまた何かの境界を越える。  どしんと腰を落とされ、両肩を押さえつけられた。頭を覆っていたものがなくなって、橙色のまるい光がぼんやり俺を照らした。  俺は反射的に首を巡らせた。うしろ手に縛られたまま箱の上に座らされていて、タキとシャナンとさっき俺のうしろにいた男と――さらにもう一人いる。  ここも窓のない部屋だ。まったく、最近似たような場所に俺は縁がありすぎるんじゃないか?   彼らが口をひらくのを待たずに俺はいった。 「タキもシャナンも、あのとき逃げられたのか?」 「私についてきたからな」  四人目の男が口をひらいた。 「帝国軍が来るのはわかっていた。神が私に教え、われわれを助けたからだ」 「ユルグ」  俺は名前をつぶやく。タキとシャナンがいる以上、予想できてしかるべきじゃないか。俺の故郷で指導者だった男。死んだ父親の親友。彼はすっかり齢をとっていた。灰色の髪はなかば禿げ、記憶にあるより太っている。 「じゃあ、あのとき――」  ユルグの視線が動き、タキが俺のいましめを解いた。俺は手首をさすり、首をまわす。ユルグは俺の記憶にはない穏やかな表情をしていた。 「おまえは帝国軍へ降りたが我々は逃げのびた。死んだとばかり思っていたよ。帝国軍の一員になっても生きていたのは嬉しい」 「それはどうも。で、これは……」  ユルグは俺の目をじっとみつめた。 「わからないか? 協力を頼みにきたんだ。私たちは山地を取り戻す。エシュ、まさか故郷を忘れたわけではないだろう。おまえが父親から受け継いだ才能はたしかだったし、おまえはいまだに彼の指輪を持っている」 「ユルグ、おまえたちは『虹』か?」  指輪を展開しようとしたとたん、タキの手のあいだで刃が光った。また俺の小刀だ。頼みにきたというわりには物騒きわまりない。俺はため息をついた。 「あんたはそのわりに、俺に冷たかった気がするけど。なあ、そいつを返してくれ。それは俺のものだ。どこで手に入れた? イヒカもここにいるのか?」  ユルグが無言でタキに合図した。小刀の刃が折りたたまれ、手のひらにのせられる。俺は柄を指でなぞり、翼と鉤爪のしるしをたどった。 「歴代の〈黒〉はいつも辺境をさまよってきた。そうだろう、エシュ」  ユルグの声をききながら、タキとシャナンが壁ぎわに寄るのを俺は横目でみた。もうひとりの男もいつのまにか壁にそってひっそりと立っている。 「帝国はいつだって〈黒〉をただの影として扱ってきた。それが何の影なのか、みずから決めたくなっても無理はない」 「あいにく今の〈黒〉は影じゃないんだ」俺は小刀をポケットに落とした。 「いまさら俺に寝返れというのか?」 「帝国皇帝に寵愛されているのに、と?」  ふいをつかれて俺は黙った。こいつらは何をどこまで知っているのか、という疑問が頭に浮かんだ。宮殿の内側のことも知っているのか?  そうだ、ユルグは|神《・》の託宣を受けるのだ。彼に語る神は――皇帝の神なのか? それとも? 「おまえの指輪は父親のものだった」ユルグは淡々と言葉を続ける。 「エシュ、それは山地のもの、辺境のものだ。もちろん竜石も、おまえ自身も」 「俺の団長はイヒカだ」  俺は立ち上がった。ユルグも、他の三人も動かない。 「もしここにいるのなら俺はイヒカと話したい。それに聞きたいことがある。おまえらが『虹』なら、変異体を作ったのはなぜだ? 何の目的で作った? 一代かぎりでつがいもいない、野生にもなれない竜を、どうして?」 (おまえはあの竜に似ているな)  突然、頭の中をユルグのものではない声が満たした。目の前が眩しい光で覆われる。耐えがたいほど白い、脳を焼かれるような光。たまらず俺は目を閉じる。すると両足がふわふわと宙に浮いた。俺はもがき、足をばたつかせ、また目をあける。 (私を覚えているだろう)  あたりは真っ白の光だけだ。俺はこれを知っている。この声も、この光も。これは夢だ。何度かみたことのある夢。この夢には―― (おまえをこの世に連れてきたとき、私は使命をひとつあたえた。おまえはけっして忘れない。そうだな? 彼を――) 「うるさい!」  俺は怒鳴り、薄暗い部屋で驚いたように目をみひらいているユルグに向きあった。指輪を展開させながらうしろをふりかえり、ドアをみつけ、そちらへ突進する。前をふさぐ障害物をふっとばすためにどんな〈法〉を使うか、深く考えもしなかった。たちまち使い慣れた銃が手の中にあらわれる。俺は前方にむけて狙いもつけずにぶっ放し、開いたドアから外へ飛び出し、走り出した。

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