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【第2部 飲みこまれた石】21.アーロン―井戸のまわりで踊る

 アーロンが自動軌道を降りたのは夜も遅い時間だった。街角でみつけた宣伝ビラのために予想していたよりもずっと忙しい一日になってしまった。セランと別れたあと両親の屋敷へ行き、預かった品物を渡し、屋敷の通信設備を借りて勤務中の上官と話したあと、最終的に軍本部へ足を運んで〈灰〉の報告を精査していたのである。  アーロンにはひとつ気がかりがあった。防諜を施しているにもかかわらず、ここ数回の制圧作戦では情報が反乱者へ漏れている兆候がある。あくまでも兆候でしかなく、証拠がつかめないのがもどかしかった。  このあと実施する作戦とは、再制圧した地区においたベースキャンプから人間が居住不能な地帯――竜だけが棲む領域へ部隊を進めることである。目的は竜と竜石だ。これが成功すれば、これまで人間が関われなかったこの領域の〈地図化〉すら可能になるのかもしれなかった。  竜石と〈異法〉で帝国軍を強化することに執心する皇帝陛下の意図も最終的にはそこにある、そうアーロンは考えている。しかし作戦の重要性は出動の要である〈黒〉と一部の上層部にしか知らされていなかった。〈紫紺〉やベースキャンプを置く地区の〈碧〉は野生竜狩りの一環だと思っている。  野生竜はつねに予想外の存在だ。アーロンとしてはそれ以外の不確定要素はできるだけ減らしておきたかった。  玄関で門灯が輝き、庭先にも遠い星のように足元灯が光る。アーロンはいつものように防諜装置を確認して中に入った。食事は軍本部ですませていたから空腹ではなかった。だいたいこの家でまともな食事をしたことが何回あるか。設備のととのった厨房があっても、缶詰を酒の肴にする程度でしか使わないアーロンには宝の持ち腐れというものだ。  居間に入った瞬間、庭で何かが動いたような気がした。警報が鳴ってすぐアーロンはスイッチを切ると、明かりをつけないまま壁づたいに歩いた。内側からの視界はひらけているが、窓の外からはみえない位置に立つ。指は胸ポケットの杖を触っていた。杖をもちあげたそのとき、地面をぼんやり照らすまるい光の内側へ人影が入った。  見えたものの意外さにアーロンは固まり、杖をおろした。 「エシュ」  テラスに続く掃き出し窓をあけると黒髪の男はさっさとそちらへやってきた。アーロンはエシュの腕を引っ張るようにして中へ引きこみ、窓を閉めて遮光幕を下ろし、明かりをつけた。エシュの髪は全速力で走ったように乱れていた。黒髪の中にひとすじ金色が反射する。軍服の襟がひらいている。アーロンは眉をひそめた。 「何があった」  エシュの表情にはいつもの切れがなかった。 「アーロン。前にこの家でおまえがいった……」  つぶやくような声は低く、小さく、誰かに聞かれるのを恐れているようだ。 「イヒカについて続報はないか」  一瞬の躊躇のあと、アーロンはエシュの手首をひいた。 「こっちへ来い」 「いいから答えろ。帝都でイヒカをみつけたか?」  アーロンは答えずにエシュの手をひき、ドアをあけた。ひとつづきになった書斎と寝室に入るのはアーロンだけで、たまに来る通いの使用人もここには入らない。 「エシュ、きちんと話せ。何があった?」 「訊いてるのは俺だ、アーロン。イヒカと接触したのか?」  エシュはドアのすぐ隣の壁にもたれて立った。アーロンはデスクの端に尻を乗せる。 「ああ」 「いつ、どこで」 「御前演習の日だ。ゲームルームで」  エシュは両腕を組み、あきれたような表情になった。 「御前演習――晩餐会のあとか。暇なやつだ」  自分のことをいっているのだとアーロンが理解するのに数秒かかった。あの夜じっとしていられなかったのはおまえのせいだ。そう返したくなったが、何とか口に出さずにすんだ。 「いつから俺をつけていたのかもわからない。|幻影《イリュージョン》を使ってエリオンと名乗っていた」 「おまえの得意技で剥がしたのか?」 「いや。イヒカだということはすぐわかったが、俺が気づかなければたぶんわざと顔をみせただろう」 「で、どうなった?」 「何も。すぐに逃げられて、接触の目的もわからないままだ。問題の店はあれからずっと〈碧〉が見張っていて〈灰〉も調べているが、反帝国の接触はない」  エシュの表情がわずかにやわらかくなったが、彼はそれを隠すように壁にもたれたまま腕を組みなおした。アーロンはあの晩のことを思い出そうとした。イヒカと話している最中に奇妙なことが起きたのだ。幻覚でもみているように視界がゆがみ、イヒカではない別の何かがアーロンに話しかけた。 「イヒカは『虹』に合流したと思うか?」  エシュの声にアーロンは眉をあげる。 「証拠は出ていないが……こんな時間だ。何か飲むか」  エシュは無言だった。アーロンは壁のキャビネットをあけたが、ふりむいたとたんエシュの頬に白い筋を認めて仰天した。 「どうした?」  エシュは不思議そうにアーロンを見返している。 「エシュ、なぜ泣く?」  エシュは自分の頬を指でなぞり、無感動な声でいった。 「変だな。俺は泣いてなんか……」  アーロンは単に大丈夫かと訊ねたつもりだった。ともかくも頭では。ところが体はさっさとエシュの前をふさいで、その肩をつかんでいた。エシュは顔をしかめた。 「アーロン、はずせ」 「エシュ――おまえ……」  アーロンはエシュを見下ろし、軍服の襟の上からのぞきこんだ。うなじに垂れた髪の影に褐色の筋がみえる。 「これはなんだ?」  薄い痕を指でなぞるとエシュはびくっと肩をふるわせた。 「ただの擦り傷だ。竜の棘だよ」  明らかな嘘だ。アーロンは即座に否定した。 「ちがう、竜の前で首を晒す人間がどこにいる。誰が――」  そのときはっとひらめいた。「皇帝陛下?」 「アーロン」  エシュの声にはほとんど抑揚がなかった。 「おまえには関係ない。その手をどけろ」 「何をされた?」 「何でもない。ほっとけ」  エシュは肩をゆらし、アーロンの腕をほどこうともがいた。膝がもちあがる寸前にアーロンは全身の体重をかけてエシュを壁に押しつけた。背中が擦れるとエシュの眉間に皺がよった。 「エシュ、背中をみせろ」 「ことわる。離せよこの馬鹿力」 「離したら殴るだろうが」 「あたりまえだ」  エシュはもう泣いていなかった。涙の筋が白く頬に残っている。指でなぞるとエシュはいまいましげに目をみひらいた。はからずもアーロンはエシュの眸をのぞきこんでいた。  相手は少年の頃に出会って以来何年もつきあった人間だった。友人として――アーロンの意識では、ある時点からは恋人としても。  おたがいをさぐるようにみつめあっていたのはどのくらいの時間だったか。唇を寄せてもエシュは逃げなかった。それとも向こうから寄せてきたのだろうか。  再会したあと、辺境の基地で衝動的に体をあわせたときもこんな調子だった。エシュの口は濡れていて、かすかな塩気に正反対の甘い味がかさなった。唇を押しつけあうだけに飽き足らず、アーロンは舌で唇をなぞった。そっと柔らかく、ていねいに。小さくひらいた隙間から中をさぐり、相手の舌をつかまえて吸う。  腕のなかの体がぴくりと震えたが、アーロンは無視して舌をからめ、唾液を味わい、エシュの腰から尻を手のひらで撫でおろした。触れている体の昂ぶりも、自分の昂ぶりもはっきりとわかる。エシュは接触に敏感で、快楽に弱い。アーロンはよく知っていた――かぞえきれないくらい抱いたのだ。弱い場所もよくわかっている。耳の裏側、顎の先、鎖骨、それに胸。他にもある。何年たっても変わっていない。  耳朶を舌でなぞり、歯を立てると首から上の肌がぱっと赤く染まった。ひらいた軍服の下をシャツごしにまさぐるだけで乳首がぷくりと立ち、唇から吐息がもれる。もうエシュの指はアーロンを押しのけるのをやめ、逆にきつく掴んでくる。もう一度唇を重ねると、さっきよりさらに深く、むさぼるような口づけになった。 「エシュ……背中をみせろ」  エシュは蕩けた目でアーロンをみつめ、首をふった。とたんにアーロンの内側でかっと熱いものが燃えさかった。自分で思ってもみなかったような勢いでアーロンはエシュを引きずったが、相手の抵抗が弱すぎると気づいたのは寝台に投げたあとのことだ。  シーツに尻もちをつくように放り出されたエシュは、何かをあきらめたような表情で軍服を脱ぎはじめた。シャツを脱ぎ捨て、あらわれた裸の背に褐色の傷跡が何本も浮き上がるのをアーロンはみた。寝台に膝をついてのぞきこむ。エシュの背中の中央、肩甲骨のあいだにアーロンもよく知っている刻印があった。剣のもとに竜がひれ伏している。 「おまえだからみせるんだ」エシュの声はぎこちなく、固かった。 「誰にもいうなよ」 「あたりまえだ! 陛下は……」 「俺にいわせればいささか趣味が悪い」  アーロンはエシュの背中をそっと撫でた――刻印以外の傷はどれも浅く、きちんと手当てがされていた。刻印はただの傷とはちがうものだった。アーロンはふいに気づいた。これは〈法〉で刻まれている。 「ははは、困ったな」  ふいにエシュが小さな笑い声をあげた。 「アーロン。これからどうする?」 「どうもこうもあるか! 陛下は……陛下でも、おまえにこんな傷をつけるのはだめだ」 「ずいぶん不遜なものいいだな」  ふざけたような口調だった。アーロンはエシュの顎を両手ではさんだ。行き場のない怒りと同時に、自分でも名づけられない強い感情がわきあがった。 「おまえは……俺だけのものだ。エシュ」  濡れた眸がアーロンをみあげた。 「知っていたさ」

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