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【第2部 飲みこまれた石】23.アーロン―木を切り倒す音
セランの白い顔はエシュの正面でこわばり、つかのま凍りついたような無表情になった。視線がエシュのうしろに立つアーロンに向けられる。
「アーロン?」
「セラン」
エシュは何もいわなかった。ほとんど縁のない顔見知りとすれちがったときのように、セランに軽く会釈をしただけでさっさと自動軌道に乗りこんでいく。アーロンには奥へ進むうしろ姿しか見えなかった。乗り物が行ってしまうと、片手に四角い荷物をさげたセランだけがアーロンの前に立っている。
「連絡した方がいいかもしれないとは思ったんですが、休日ですし、これを届けるように母に頼まれたんです」
セランは軽いうなりをあげて去っていく自動軌道をちらりとみやった。
「〈黒〉の団長とご一緒だったんですか?」
アーロンは咄嗟に答えた。
「帝都に潜伏する反乱者のことで……話す必要があった。機密が保たれる場所で」
「あなたの家で?」
「ああ」
それは完全に嘘とはいえないが、真実からも遠かった。小さな罪悪感がアーロンを刺したが、セランは読み取りがたい表情のまま目をふせただけだ。
「昨日も今日も、あなたは結局仕事ばかりですね」
「予想通り?」
セランの視線がふと揺れた。
「予感かも。ここからの道順を覚えているかどうか心配していましたが、必要なかった」
アーロンは肩をすくめ、セランを伴って道を戻りはじめた。セランがアーロンの家に来たのは辺境でエシュと再会する前のことだった。エシュが寝室で眠っているときにセランが着いていたら、とアーロンは考えてひやりとしたが、同時にそう感じた自分自身に嫌なものを感じた。
エシュに対する心も行動も押さえられないと悟ったいま、セランとの関係をこのままにしているわけにはいかない。不実なふるまいはしたくなかった。しかしセランとはまさに昨日、今後のことを話したばかりだ。次の作戦が終わったら――と。
たった一晩で何が変わったと伝えればいいだろう。もちろんエシュとの関係はこの一晩からはじまったわけではない。だが軍大学時代のアーロンとエシュがどんな関係だったのかは、アーロンの両親も知らない。
セランが箱を持ちかえたのでアーロンは反射的に手を出した。
「持とう」
「いえ、大丈夫です。母手製のケーキで、軽いものですよ。でもナイフを借りていいですか?」
「なぜ?」
「母いわく、軍功の願掛けとして僕がカットしなくてはいけないそうです。その――昨日の話をしました。両親は楽しみにしているそうです。作戦の成功を祈っていると」
「セラン、その話だが……」
アーロンは慎重に言葉を選ぼうとしたが、すでに自宅の玄関までたどりついてしまった。中に入ると書斎にある軍本部直通の通信機がうるさく鳴り響いている。あわてて通話に出ると、相手は以前反帝国への情報漏洩について話しあったことのある〈碧〉の将官だった。
他軍団の若手将官とのあいだに情報のパイプを持っているのはアーロンの強みのひとつだ。それも昨日報告をあげた件に関することだったから、アーロンはしばらく話しこんだ。
やっと終わって書斎を出ると、セランの姿がみあたらない。アーロンは部屋をぐるりとまわり、庭にいるのを発見した。
「ここにいたのか」
「厨房のナイフ、勝手に使いましたよ」
セランの足元に薔薇の花びらが散っていた。庭師まかせにしているおかげで冬以外の季節はかならず何がしかの花が咲いている。それでも今ついている蕾がきっと今年最後の花になるだろう。昨夜はエシュもここに立っていた、とアーロンは思い出した。
「セラン、昨日の話だが……」
「何かありましたか」
セランがすばやくいった。
突然緊張した雰囲気がただよい、アーロンはその場で立ち止まった。セランはひらきはじめた薔薇の蕾をしげしげとみつめていた。
「アーロン、あの人はいつ来たんですか?」
「エシュか」
「〈黒〉の団長ともなると忙しいでしょう。今朝? それとも……昨日僕と会ったあとですか? どのくらいここにいたんです?」
うかつにも答える前にわずかな間ができた。
「約束はしていなかった。同じだ。突然たずねてきたんだ」
セランはまだ薔薇の蕾をみつめたままだ。
「でも、あなたにとっては僕とあの人は同じではない。そうですよね?」
「セラン、どうしたんだ?」
「戻ってきたんですか? あの人は……」
「セラン、」
「アーロン、僕はずっと知っていたんです」セランは静かにいった。
「軍大学で、あなたはずっとあの人が好きだった。あの人が去ったから僕と会うようになったんだ。ただ会うだけですけど」
軍大学へ進学しなかったセランがいつ、どんな風にそれを知ったのか? アーロンは不思議に思った。あのころ周囲の人間たちはアーロンとエシュを親しい友人と考えこそすれ、それ以上の関係とは思わなかった。アーロンの父とエシュの養父が対立するようになってからはなおさらだ。
セランの美貌があがり、アーロンを見据えた。ささやくような小声になる。
「でも、アーロン。あの人はいま皇帝陛下の左側ですよ?」
「セラン」アーロンは逆に語気を強めた。
「うかつなことをいうな」
「予感がしたんです。だからここへ来たんです」
セランはまっすぐアーロンをみつめている。
「目が覚めているときに不思議な夢をみて……まるで神みずからが僕に示したように」
夢? アーロンは思わず眉をひそめた。
「どんな夢だ?」
「どんな夢でもいいでしょう」
アーロンはすばやくいった。
「俺とエシュは反乱者に加わった〈黒〉の前の団長の話をしただけだ」
セランの眸がさぐるように細くなる。
「ほんとうに?」
「ああ」
エシュについて、アーロンは口が裂けてもこれ以上セランに話すつもりはなかった。自分のためというよりエシュのためだ。彼の背中の傷を思い出すだけで、皇帝陛下の仕打ちにぞっとするものを覚える。
しかし自分の話――自分がどうするのか、という話はまた別だ。そう考えたとたん、言葉は素直にアーロンの口から飛び出した。
「セラン。昨日の約束は守れなくなった」
「なぜ?」
「彼を愛している」
はらりと何かが地面におちた。セランの指が薔薇の葉をむしったのだ。アーロンの前で美貌の男は細いため息をもらした。白い顔から表情が抜けおちていく。
「そんなことだと思いました。あなたの目がぜんぜんちがった。あの人をみる目……」
セランはしずくがおちるようにぽつりともらした。
「あのころあなたはとても傷ついていた」
いつの話をしているのかすぐにわかった。罪悪感が影を落としはしたものの、アーロンの心は平静だった。セランは陶器のように硬い表情のままだ。
「僕は代わりにもなれなかった。それでも学生会のときよりはあなたに見てもらえると、そう思っていました」
「セランのせいじゃない」
「そうですね」
セランはひどくゆっくりとまばたきをした。
「でも、あの人はあなたのものにはならない。そうでしょう? アーロン、僕は……あなたが彼を愛していてもいい」
「だめだ、セラン」アーロンは即座に首をふった。
「俺にはできない。すまなかった。愛せなくて」
もともと自分には他人へ向かう強い感情というものがないのではないか。アーロンは少年のころからときどきそう思うことがあった。誰にも腹を立てなかったし、誰を嫌悪したこともなかったが、これは根本的な無関心の結果ではないだろうか。自分には何かが欠けているのではないか。
エシュに出会ったのはそんなときだった。黒髪の少年はアーロンに欠けている何かを即座に埋めたのだ。
セランはアーロンから顔をそらし、ポケットに手を入れた。銀と黒の小さな金属が指先で光った。
「アーロン、これは〈黒〉のものではありませんか?」
「どこにあった?」
「厨房の……廊下の手前に。落ちていました」
「みせてくれ」
爪の先ほどの大きさのそれは、七軍団となった〈黒〉の軍服に新たに加わった徽章だ。
「落としたんだろう。エシュが軍本部に寄った時に返しておく」
「ええ」
アーロンはひやりとしながら自分のポケットに徽章をおとした。ほかにも、軍服から外れたのにエシュが気づかなかったものがないか、探しておかなければ。
次に帝都でエシュと会えるときがあるとすれば、竜石作戦の開始直前だ。御前会議がひらかれる予定だった。自分の思考で精いっぱいのアーロンは、そのときセランの眸の奥にあったものをついに読み取りそこねてしまった。
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