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【第2部 飲みこまれた石】24.エシュ―青空を弄れたなら

 平原の先へのびる巨大な環状の構築物が、昇る太陽の光をうけて鈍い銀に輝いた。  城壁都市の飛翔台からの眺めは帝都の軍本部のそれより圧巻だ。朝もやの平原は収穫間近の穀物でいちめん黄金色、はるか遠くには帝都の威容がかすんでいる。城壁都市をその一部とする巨大な円環は、帝都を守り、また動力を供給するもので、朝のこの時間には荘厳とも呼びたい雰囲気をたたえている。 「いい風だ」  俺の声をきいたドルンがぐいっと首をもたげた。装具をつかむと灰色の棘がぺたんと寝たので、俺は鞍まで素早く駆け上がる。こうやってドルンに乗れるのはいまのところ俺だけだ。いまのドルンにはお気に入りの厩舎員がふたりいて、彼らが世話をするときはうかつの棘を立てたりしないが、背中に乗せることはない。 「エシュ、もう行くのかよ!」  下からシュウの声が響いた。どうやら走ってきたらしく、息を切らしながらドルンの前に立つ。俺も声を張り上げた。 「ああ、御前会議の前に寄りたいところがある。戻りは明日だ。移動開始は予定通りなら三日後。俺が戻るまでに最終チェックをすませるよう、全員に伝えてくれ」 「了解。またしばらく辺境暮らしとは、泣けてくるね」 「まさかシュウ、楽しみの間違いだろう? しかも途中からは野営づくしだ」 「楽しみだって? コックの腕がいいのを祈るだけだよ!」  鼻に皺をよせたシュウを上からみおろし、俺は笑い声をあげた。一歩さがってシュウが手を振る。俺はドルンを飛翔台の先に進ませる。いちいちハーネスを引いて命令する必要もなかった。竜が翼をひらき、宙に飛び出す。鞍に縛りつけられた体が風をうけ、足元が一度ふわりと軽くなる。翼がはためくと太陽の場所が変わり、俺たちは帝都へ進路をとる。翼の影が黄金色の大地におちる。  ドルンが最高速度を出せば帝都にはすぐについてしまう。しかし、こんなに風が気持ちよい朝に飛翔を楽しまないなんてもったいない話だし、単独飛行の機会はしばらくない。俺の気分は竜にすぐ伝わって、俺たちはカーブを描いた迂回コースをとる。帝都の裏側から軍本部へ向かうルートだ。  おまえとずっとこうして飛びつづけたい。  ドルンの首の棘がゆっくり立つ。俺の心はドルンにそのまま伝わっている。鞍に座っていても、ひしひしとそれを感じる。ツェットだったらこれ幸いとさぼりたがるだろうが、ドルンは静かに飛びつづけた。  多少迂回したところで、城壁都市から帝都へのルートはきまりきったものだ。地上にも物資を運ぶ竜の隊列が筋を作っている。やがて帝都の街並みが広がる。俺は宮殿の方向をみないようにして差し迫った辺境行きのことを考えた。  アーロンの立てた竜石獲得作戦は山岳の無人地帯で展開される。ベースキャンプから高所へあがるのは竜が頼りだ。ここ数回の辺境出動で〈黒〉の竜部隊、変異体はかなり山地に慣れた。とはいえ、無人地帯には間隙(かんげき)に入りながら移動する野生竜が棲む。変異体は野生竜に遭遇したとき、どんな反応をあらわすだろう?  今回の作戦は竜石を採集するだけのこと。無人地帯で竜が貯めこんだ竜石を探すのは、辺境民がやってきたことでもある。帝国軍のために竜石を手に入れることに罪悪感をおぼえる必要はない。  俺は帝国軍人だ。自分でそうなることを選んだ。そうじゃないか?  ドルンは何事もなく軍本部の飛翔台に着地した。そのまま〈黒〉に割り当てられた区画へ行ったが、厩舎員はドルンをみてたちまち及び腰になった。何も取って食いはしないのに。  珍しい竜だからとあれこれ弄られるのも困るので、恐れられるくらいでちょうどいいのかもしれなかった。ドルンはドルンで、尾の棘をわざと逆立てたりして、厩舎員が恐れおののくのを楽しんでいる。まったく、遊ぶなよ。  いちばん広い仕切りを占領すると、ドルンはさえずる他の竜を睥睨して黙らせ、悠々とおやつを食べはじめた。  御前会議は午後遅くで、時間はたっぷりあった。俺はルーの屋敷へ行くつもりだった。〈黒〉に配属されてからというもの、ルーには年に一度、新年の休暇で会うだけだった。中途半端な今の時期に訪ねると驚くかもしれないが、ルーの顔を見たかった。  軍を退いてからルーが何をしているのか、俺はよく知らなかった。何度かたずねたことはあるが、返ってくるのはふざけた調子の「軍の年金で優雅な隠居生活だよ」という答えだけ。  たしかに屋敷には以前のようにご婦人方が訪ねてくるらしく――ただしアーロンの母上はのぞく――劇場へ通ったり午後のお茶会へおもむいたり、上流らしい社交生活を営んでいるという話はジャーナルの消息欄に書かれていた。何十年も軍人として過ごした人間には似合わない。  皇帝の不興を買い、帝国軍から距離を置いているルーは、もちろん宮殿の晩餐会に招かれていなかった。御前披露はどうだったのか。彼は変異体をどう思うだろう。ルーは俺の状況をどこまで知っているのか。  訊きたいことがいろいろあった。こんなにルーに会いたいと思ったのもひさしぶりだったし、そのために早く城壁都市を発ったのだ。だからといって軍本部を出たとき自分が油断していたとは思わない。  しかし、紅葉した街路樹の影からユルグがあらわれたのに俺はまったく気づかなかった。彼は空気から溶け出したように出現して俺のとなりに並んだのだ。 「エシュ」  歩調は変えなかったが、俺の思考はいそがしく働いていた。ユルグの出現にはあきらかに山地の〈法〉が使われていた。姿変えの幻影(イリュージョン)の変わり種だ。俺はまっすぐ前を見たままいった。 「何の用だ」 「前回は話の途中で消えただろう」 「こんな白昼、道の真ん中で話していられるなら、前のあれはなんだったんだ。このまま〈灰〉のところへ行きたいか?」 「やれると思うならやってみることだ」ユルグは尊大な口ぶりでいった。「あいにくこの〈法〉を使えるのは私だけだがね」そしてすぐに空気に溶けた。  街路樹の張り出した枝から赤く染まった木の葉が落ちた。俺はとっさに腕をのばしたが、ユルグがどこへ消えたのかまったくわからなかった。まるで竜が間隙に入った時のようだと思ったとたん、とろりと影が立ち上がった。俺は思わず舌打ちしそうになった。 「ユルグ、もう一度きく。何の用だ」 「おまえが質問したのだ、エシュ。どうして我々は〈地図〉を弄り、変異体を作り出したのかと」 「答える気があったのか?」 「もちろん。世界の復活と再生のためだ」 「なんだって?」 「帝国は――」  ユルグの声が俺の耳のすぐそばで響いた。 「すべてを彼らの〈法〉で〈地図〉にする。人と関わらない領域に棲む野生竜すら〈地図〉に変えようともくろんでいるが、帝国の〈法〉は存在の〈精髄(エッセンス)〉を均質化するのだ。だから我々は帝国の〈法〉によって均された〈地図〉を変質させ、対抗する。我らは水が滲みるように隠れ、帝国の支配を自在に逃れ、間隙に隠れる竜のように影からよみがえる」 「その結果が変異体だと?」  俺は愕然として聞き返した。 「そのために竜の〈地図〉を弄っているのか? そんなお題目……兵器として作ったと説明する方がまだましだ」 「何をいう、エシュ。兵器は究極の標準化装置だ。帝国軍の竜がどんなものかおまえはよくわかっている。我々の目的はまったくちがう。帝国は秩序のためと称して地図化を行い、世界を貧しく痩せたものにする。しかもいまや、竜石と無人地帯の竜にまでその手を伸ばそうとしているのだ。あまりにも愚かな」 「たわごとだ」  俺は吐き捨てたが、ユルグは唇をゆがめて笑っている。 「本当にそう思っているのか? あの〈黄金〉の指揮官に命じられるまま、おまえは竜の力を明け渡すのか。おまえは山地で生まれ、その指輪をはめているのに」  俺は無意識のうちに指輪をはめていない方のこぶしを握りしめていた。 「ユルグ。俺を説得しようとしても無駄だ」 「そうかな? エシュ、おまえは何度も夢をみている」  断定する口ぶりに俺は眉をひそめた。 「夢?」 「おまえはの夢をみている。何度も何度も、くりかえしな。神が顕現し、おまえに見せた。だからおまえは怖れをなして私のまえから逃げたのだ。おまえの夢ではいったい誰がその剣を持っていた? 帝国の神話は間違っている。。剣を握る者が竜を殺すのを我々の神の名のもとに止めるのだ。エシュ、おまえは山地の〈法〉を使い、あの変異体と繋がる存在だ。自分が何者なのかをよく考えろ。神がおまえに顕現しているのだぞ? 神はおまえになんと告げている?」  俺は指輪をはめた手をそっとうしろに回していた。気づかれないでいけるかと思ったが、甘かった。ユルグの雄弁はぴたりと止み、彼はたちまち影の中に姿を消した。

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