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【第2部 飲みこまれた石】25.アーロン―うろのある木をさがす
エシュが落とした〈黒〉の徽章には銀線で縁取りされた漆黒の正六面体が浮き彫りにされている。御前会議を数時間後に控えているのにアーロンは柄にもなく気もそぞろだった。いつエシュにこれを渡せばいいか、そのことばかりに気をとられて、内ポケットから何度も徽章を取り出しては手のひらで転がしている。
いまでは〈黒〉も軍本部に執務室と宿舎を持っている。会議の場でエシュとどのくらい個人的な話ができるか疑問だから、エシュが帝都についたところを見計らって行ってみるか。
アーロンはそこまで考えたあげくに、徽章はただの口実だというのを認めざるをえなかった。エシュと話をしたかった。あの夜にアーロンにみせた顔、公の場ではけっしてあらわにしない表情をみたかった。
しかし昼食を終えて食堂を出たとき、アーロンは下士官の立ち話を小耳に挟んだ。
「おい、見たかあれ……例の竜」
「ああ、黒の変異体だろう。厩舎にいるんだって?」
「そう、すげえでかい、棘だらけの……」
エシュの竜にちがいない。軍の竜にしては変わった名前だった。そう、ドルンだ。アーロンは竜の名前を思い出した。竜がいるのなら当然エシュもいるはずだ。思ったよりも到着が早いが、何のために。
そう考えるといてもたってもいられず、アーロンは〈黒〉にあてがわれた区画まで歩いて行った。階こそ自分の執務室とおなじだが、コの字型をした軍本部の廊下のつきあたりで、がらんとしてひと気がなかった。昼間は部下や事務官の出入りが慌ただしい〈黄金〉とは大違いだが、変異体を実体化させたときから〈黒〉の拠点は事実上城壁都市にある。
エシュは部下も連れてきていないようだった。軍団に格上げされたとはいえ、〈黒〉がほとんど増員されていないのはアーロンも知っていた。部下を連れてくるほどの余裕がないのか、あるいは帝都に近寄らせないようにしているのか。
ドアはすべて閉まり、叩いても返事がなかった。アーロンは夜中にエシュがふらふらと訪れたときのことを思い出した。あんな遅い時間まで執務室でするべき用事があったのだろうか。おまけにいまここにいないのであれば……とアーロンは思考をめぐらし、即座に宮殿を想像した。
エシュはいま皇帝陛下のもとにいるのだろうか。
作戦がはじまれば皇帝陛下もしばらくはエシュを召喚できない。そう自分にいいきかせ、アーロンは腹の底でうごめく苛立ちを鎮めようとした。もちろん、作戦がはじまったからといってエシュとそうそう個人的な時間がとれるとは思えない。しかし帝都からエシュが離れるのなら状況はずっとましだ。そして作戦のあとのことは――あとのことだ。
こんな風にいきあたりばったりに考えるのは、じつはアーロンらしからぬことだった。常に先の事態を予想し、計画を立て、実行する。予想外のことが起きるたびに修正し、それでも目的は見失わない。これがいつものアーロンだった。その「目的」はずっと軍人として帝国に奉仕することに向けられていた。ヴォルフの息子に生まれたアーロンにとっては当然の帰結であり、帝国の領域を維持し、あるいは拡大することにおのれの能力を振り向けて来た。
辺境や地方の町で蜂起する反乱者を退け、彼らが生まれた場所を制圧する。帝国と辺境を中心とする反乱者の関係は潮の満ち干に似て終わりがないが、辺境には地図化されない、つまり帝国の意思がおよばぬ野生の竜がいて、反帝国がよりどころにしているのも竜に他ならなかった。
反乱者を征服することと竜を征服することはつながっている。エシュに会わなければアーロンはここに疑いを抱くことはなかっただろう。いや、今だって疑ってはいない。
問題は、エシュが竜を狩るのをよしとしないことだ。瓶に閉じこめられた変異体――灰色竜や狂暴な黒鉄 竜の前で、エシュはためらった。それはアーロンをひどく苛立たせた。
思い起こしてみれば、こんな風に自分の意思がゆらぐのは、エシュが関わった時だけではないだろうか?
アーロンは首をふり、廊下を引き返そうとした。求めていた本人がやってくるのに気づいたのは、まさにその時だった。
エシュの目が大きくみひらき、アーロンの数歩先で足がとまる。とまどうような沈黙が落ちたのはほんの一瞬で、口もとに小さな微笑みが浮かんだ。
「よう。どうした」
「ああ……」アーロンはなぜか言葉に迷った。
「渡すものが」
それだけいったとき、エシュはもうそばに立っていた。無造作にドアを開けてアーロンを促した。
「入れよ」
中はがらんとしていた。ここでたいした仕事はしていないらしい。アーロンはデスクに徽章を置いた。
「落とし物だ」
「ん? どこにあった?」
「家だ」
はっとしたような表情が一瞬かすめたあと、エシュは肩をすくめた。
「悪いな。わざわざ」
「いや。気づかなくて悪かった。いつこっちに来た?」
「午前中だ。ルーの顔を見に行っていた」
エシュの声は淡々として覇気がなかった。アーロンは思わずいった。
「ルー様はどうされている? 何かあったのか」
「いや。会ったのは久しぶりだが、ルーはあいかわらずさ」
「変わりがないのならいいのかもしれないが……俺はずっとご無沙汰している」
「気にするな。優雅な隠居ぐらしをきめこんでる」
エシュは話しながらデスクの向こうにまわり、引き出しをあけた。指輪を抜いて無造作に放りこむ。アーロンは眉をよせた。あの指輪は予備学校のころからエシュが肌身離さず身につけている法道具だ。
「置いていくのか?」
「会議のあとに陛下の晩餐にお供するよういわれている。どうせ外すことになる」
エシュは引き出しをバタンと閉めた。ロッカーをあけて備え付けの鏡の方を向く。アーロンのいるところから鏡ごしに青い宝石がみえた。皇帝陛下の褒賞だ。
「エシュ、徽章は?」
「ああ、そうだ」
襟元をもたもたと弄る手つきをみて、アーロンの足は勝手に動いていた。デスクを回ってそばに立つとエシュは困ったように小さく笑った。
「なんだよ」
アーロンは黙ったままエシュの肩に手をかけ、自分の方を向かせた。相手の体は一瞬こわばったが、アーロンの手を振り払ったり押しのけたりはしなかった。アーロンはそのまま顔をよせ、〈黒〉が軍団に格上げされる以前からのしるし、黒線の上に徽章をとめた。金属に浮き上がる銀と漆黒の立方体は〈地図〉を塗りつぶしたかのようだ。
線と徽章。これだけだったか。何かが足りないような気がした。しかしエシュのだらりと下がった手に青珠をみたとたん、アーロンの注意はたちまちそちらにひきつけられた。
「それが……陛下の宝珠か」
エシュはアーロンをみあげ、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「よく見たいか?」
「いや」
「そうか」
またおなじ微笑みだ。しかしどこか力がない。エシュはアーロンが見下ろすなか、のろのろと青珠のピンを胸に飾ろうとしている。器用なエシュにしては珍しい。
そう思ったとたん体の内側からきりきりと巻きあげられるような気分に襲われ、アーロンはエシュの肩をふたたび掴んでいた。ひたいに唇をつけ、背中を抱きしめる。エシュの手がびくっと動き、ピンが床に落ちた。
「……アーロン」
低いささやきがきこえた。
「離れろ。ここはおまえの家じゃない」
「宮殿でもない。エシュ、陛下はおまえを……」
「壊しはしないさ」
エシュはアーロンを振りほどこうとはしなかった。ぽつりとつぶやいた声は、顔が触れあう距離でなければ聞こえなかったかもしれない。
「俺がいなければ陛下は望むものが手に入らない」
アーロンはエシュの顎をつかんだ。
「エシュ。おまえも俺が必要だといったな?」
黒い眸がアーロンをみつめる。
「ああ。迷惑なら――」
「逆だ」
唇が唇をかすめて、すぐに離れた。アーロンはエシュを抱く手を離し、かがんで落ちたピンを拾った。ちらりとみただけでどれほど精緻な細工なのかわかった。膝をかがめ、エシュの胸ポケットの上にピンを留める。そのときさっき感じた「足りない」感覚の正体がわかった。エシュは〈黒〉の団長だ――つまり位階章もなければおかしい。だが〈黒〉の団長の位階章がどんなものか、アーロンは思い出せなかった。
「作戦の方はどうだ。そっちの準備はできたか?」
アーロンの疑問など知らぬ顔でエシュがたずねた。
「ああ。城壁都市の方は?」
「俺が戻るころには万全だろう」
エシュはにやっと笑った。これはアーロンが昔からよく知っている笑顔だった。不遜で生意気、わずかに皮肉っぽく、才気にあふれた微笑み。
「変異体どもが無人地帯にどう適応するか、楽しみだ」
アーロンはうなずいた。
「またあとで」
あと? それはいったいいつのことだ。
自分でいっておきながら、アーロンに確たる考えはなかった。うしろ手にドアを閉める。廊下はあいかわらず静かだった。自分の執務室へと長い通路をたどるうち、だんだん行きかう人が増えていく。
ふとアーロンは視線を感じた。誰かに見られているような気がしたのだ。しかし〈法〉のゆらめきはどこにも感じられなかった。角を曲がったとき視界のすみを何かが翻ったようにも思ったが、正体はつかめなかった。
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