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【第2部 飲みこまれた石】26.エシュ―手に残るのは小石ばかり

   *  皇帝陛下は今日も薄幕のなかにいる。 「御前会議」とは儀式のようなものだと俺はやっと理解しつつある。会議といっても何かを決定したり、議論するためのものではない。これは臣下に皇帝の意思を知らしめる行事なのだ。  今日の会議場は前回より狭く、円卓に座った七軍団の長のうしろに副官クラスが控えている。陛下の御座は俺たち全員を見下ろせる位置にすえられ、薄幕を透かして影が揺れるたび室内にびりっと緊張が走る。 (エシュ、おまえは山地の〈法〉を使い、あの変異体と繋がる存在だ)  うるさい。いまの俺は帝国軍人で〈黒〉の長だ。真昼間から接触してきたユルグの言葉を俺は考えまいとする。ただでさえ俺には気がかりなことがいくつもある。このあとの皇帝陛下との晩餐、間近に迫った竜石作戦、それにアーロン。  いま彼は円卓の向かい側、〈黄金〉の長のうしろに座っている。 (自分が何者なのかをよく考えろ。神がおまえに顕現しているのだぞ? 神はおまえになんと告げている?)  ちくしょう、どいつもこいつも神について語りやがって。俺は憂鬱な気分で視線をあげ、アーロンのまなざしと出会う。ついさっき、俺の執務室で会ったときのように視線が絡み、俺は小さく息をつく。アーロンは俺の……長年の悩みの根源だが、俺はあいつがいないとどうしようもないらしい。  いや、今はこんな思いにひたっているときじゃない。あいつに向かう心がもし、薄幕のむこうにいる存在に知られたら……あいつが俺に向ける視線の意味が知られたら……。  俺はそっと顔をそむける。アーロンはまだ俺をみている。    * 「余の竜がいよいよ役に立つときが来た」  そういいながらも今夜の皇帝陛下はご機嫌とはいえなかった。いまの俺は竜さながらに寝台へつながれている。つないでいるのは〈法〉ではなく、両手両足にはめられた竜革の手枷と足枷、金属の鎖に布のくつわだ。矯正される竜の気分はきっと今の俺と同じだ。従属の代償にあたえられる褒美と抵抗に対する苦痛がからみあい、溶けあって、だんだん区別がつかなくなる。  あたりにはいつもの香の匂いがただよっている。俺の体は火照って熱い。敏感にさせられた皮膚に枷の感触が追い打ちをかける。鎖の長さは中途半端で、うつ伏せでいなければきつい姿勢だ。  それなのに陛下は俺をうしろから責め立てながら肩をひき、上体をもちあげる。俺が呻くとようやく満足そうな吐息をもらす。 「つらいか」  口をふさがれている俺はこたえることができない。例によって、俺に出された食事には何か混ぜられていたにちがいない。陛下が動くたびに全身を甘い感覚がつらぬき、きつい姿勢も背中に刻まれた傷もどうでもよくなる。約束された快楽に馴らされれば、体は苦痛をものともしなくなる。 「セランによれば、そなたふたりはかつて恋仲だったそうだな」  うなじにささやかれた陛下の声に俺はあわてて首をふる。セランだって? 「ふたりとも余の寵を得ているのを思えば不思議でもない。しかしあれの忠誠心を余はよく知っておる……アーロンはまだそなたに執着しておるのか?」  怖れが快感を上回り、背筋がこわばった。俺はうめき声をあげながら首をふり、背後にいる男が快楽のため息をもらすのをきく。両手をつないだ鎖が大きく揺れる。今夜の陛下はなかなか果てなかった。  今にして思えば、軍本部から宮殿へ通じる自動軌道を降りたときから不穏な気配はあった。最初の兆候はセランに出くわしたことだった。純白の使者の装いをした彼の姿は遠くからでもはっきりわかり、偶然ここにいあわせたというより、待ちかまえていたかのように思えた。  もっとも起きたことといえばそれだけだ。強い視線を感じたものの、俺は案内の侍従について奥へ進み、セランは何もいわなかった。  彼は皇帝に何を告げたのだろう。  俺にしたところで、アーロンの家から戻るときセランにばったり出くわしたことを忘れたわけではなかった。ただ気にかけることが多すぎて、正直、他人のことなどどうでもよかったのだ。  とはいえあの時、そもそも彼らはどんな関係なのかという疑問はもった。アーロンとセランが交際中だというジャーナルの記事はどこまで本当だったのか。なぜならアーロンは簡単に誰かを裏切りはしないはずだから……。  だめだ。思考のなにもかもがアーロンに行きついてしまうのを止めなくては。  今夜の陛下の不機嫌はセランのご注進が原因にちがいない。晩餐のあいだの口数の多さから早くに察するべきだった。とはいえ、察したところで俺に何ができるのか?  使者たちは――今の俺をのぞけば――皇帝にもっとも近い立場の存在だということを忘れていたのはうかつだった。だが俺は、セランが昔の俺とアーロンの関係を知っているなどこれまで思いもしなかったのだ。 「どうだ、エシュ?」  鎖を引かれ、俺は腰をさらにもちあげる。中をつらぬく陛下がぐいっと奥へ進む。頭のすみで白い星がはじけた。  ああ、だめだ……アーロンのことだけじゃない。今の俺には皇帝に知られたくないことが多すぎる。ただでさえこうして――矯正される竜のように拘束されるうちに、渡すつもりのなかったものをいくつもさしだしてしまっているのに。俺の体。俺の故郷。俺の部隊――するといきなり口をふさぐ布を取り去られた。 「あっ、あっ、あっ…あああっ」 「答えよ、エシュ。アーロンはどうだ? 好いておるか? 余もあの男は好いておるとも。そなたはどうだ?」  この問いには罠がある。肯定も否定も面倒なことになるが、気の利いた答えを返す余裕はどこにもない。俺は快感と体の欲望に屈して、皇帝陛下が責め立てるリズムにあわせて腰をふり、喘ぎをもらしている。首をあげたはずみに銀の表面にうつる自分の姿がちいさくみえた。天蓋を支える柱に鏡が嵌めこまれているのだ。  アーロンの眸が脳裏をよぎる。御前会議のとき、俺をみたあの目……こんな姿、アーロンにだけは見られたくない。それなのにうしろめたさと裏腹の快感で皇帝陛下を受け入れている尻がきゅっと締まる。 「おお、もっと良くなった……愛いやつだ……そなたがアーロンを好いていようが、アーロンは余のものに手は出さぬ……」  皇帝陛下がアーロンの忠誠心を疑わないのに俺は安堵した。俺のみならず、アーロンの周囲に罠をふやすことだけはしたくなかった。陛下の欲望が吐き出され、俺もやっと解放される。背中に忘れていた痛みが戻ってくる。  自分の体液が染みたシーツに顔をおしつけたまま、早くドルンに乗って帰りたいと俺は願った。  帰る――いったいどこに帰るのか。城壁都市の〈黒〉のもとか、故郷の山地か、それとも竜しかいない無人地帯にか?

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