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【第2部 飲みこまれた石】27.アーロン―こんな背中で運べるはずがない

 デスクの上の小さな明かり以外、執務室は暗闇に沈んでいた。今は街灯に照らされた外の方が明るく感じられる。今日やるべき仕事はとっくに終わっている。もう軍本部にいる必要はないのに、アーロンは動くことができずにいる。  エシュがいまどこにいるのか。さっきからアーロンの意識を占めているのはそのことだけだった。彼は御前会議の前に指輪をはずし、執務室に残した。どうせ外すことになる、といって――つまり宮殿を出れば、かならず軍本部に立ち寄るはずだ。それとも夜じゅう宮殿ですごすのだろうか? そうであってもおかしくはない。いまのエシュは皇帝陛下に青珠を与えられている。陛下は夜のあいだ、エシュを……。  苦々しい気分でアーロンはエシュの背中に刻まれた傷を思い出していた。以前、夜おそくエシュがアーロンの執務室へ姿をあらわしたとき、あのときも彼はあれを負っていたのだろうか。だったら様子がおかしかったのもわかる。  陛下は気まぐれだとエシュはいったが、今日はいったい何をされていることか。宮殿にいるなら通信機で連絡もできない。そもそも自分が知るエシュのチャネルは〈黒〉公式のものだけだ。個人的な通話はリスクが大きすぎる。  苛立ちをつのらせながらアーロンは建物の外に出た。ずっと先で自動軌道の光が横切った。あの乗り物は宮殿に直接つながっている。使える者は限られている――皇帝陛下その人とおつきの者、それに使者。もちろんエシュも。  一瞬だけエシュが乗っているかもしれない、という淡い期待が浮かんだが、走って追いつけるものではない。  エシュは明日には城壁都市へ戻るのだ。作戦を開始すれば〈黒〉はアーロンの隊に合流し、山地へ向かう。アーロンはエスクーで飛ぶ予定だった。  そうだ、厩舎に寄ろう。急に思い立ってアーロンは方向を変えた。  軍本部の厩舎は飛翔台に隣接した巨大な施設で、アーロンのエスクーも含め〈黄金〉の竜はすべてここにいる。高い天井に竜の翼が擦れる音が響き、金臭い異質な匂いが充満していた。人間用の通路以外の明かりは落とされている。ほとんどの竜はすでにまどろんでいるのか、鳴き声もわずかしかきこえない。  エスクーも仕切りの内側でうずくまっていた。アーロンが近づくと頭をもちあげたが、目をあけようとはしなかった。  御前演習以来、エスクーには多少の変調があった。しかしそれは乗り手のアーロンが漠然と感じるだけで、はっきりどこがおかしいともいいがたいものだった。以前からエスクーを扱っている厩舎員にたずねても、目にみえない怪我や病気もないという。  エシュなら何というだろうか。エスクーの様子が変わったのはエシュのいまの竜、反帝国が作り出し、エシュが〈地図〉にした灰色の変異体と対面したあとだ。あの竜と一戦交えたことが原因なのか。  アーロンは背筋をのばして通路の先をみた。エシュの竜が入れられた区画は体躯にあわせて他の竜の数倍広く、通路を隔てて離されていたから、すぐにわかった。仕切りの上部に灰色の棘がとびだしている。何年も前、アーロンはもっと巨大な野生竜に遭遇したことがあるが、そのときも竜の姿かたちはここまで異様ではなかった。  アーロンは用心深く足をすすめた。灰色竜の全身に生える鋭い棘は部分的に横に寝て、首は腹の方へまるめられている。眠っているのだろうか?  柵の隙間からのぞきこむとふいに竜の頭がゆれ、棘のあいだに漆黒の宝石のような眸がひらいた。  ぎょっとしてその場に硬直したが、竜はまっすぐアーロンを視た。細い金色の光彩が炎のようにゆらめき、そこにはアーロンがこれまでエスクーや他の竜に対して感じなかった何かがあった。まるで値踏みされているような、あるいは調べられているような感覚にアーロンの背筋は寒くなった。  そのまま人と竜は睨みあった。ふいに竜の頭がくいっと上に持ち上がった。アーロンはびくっとして一歩後ろに下がったが、直後、背後からかけられた声に今度は文字通り飛び上がった。 「ドルン、脅すな」  乾いた短い笑い声がつづく。アーロンはふりむき、橙色の通路灯に照らされたエシュの顔をみつめた。 「アーロン、どうしたんだ。こんなところに」 「それはこっちがいいたいことだ。もう――」  エシュの目のしたの濃い翳に気づき、アーロンは言葉を見失った。エシュの姿勢がわずかに傾く。以前夜中にアーロンの執務室へ彼があらわれたときと同じように。今はアーロンにもその理由がわかる。 「宮殿じゃよく眠れなくてな」  エシュの声はざらりと涸れて、アーロンの耳にはひどく弱々しく響いた。黒髪はざっとうしろで結わえられただけで、束ねそこねた髪の房が目の上に垂れている。エシュはだるそうな手つきで髪をはらった。指輪が光を反射してきらりと光った。 「だからって厩舎で眠るわけじゃあるまい。行くぞ」  目の前の男を心配する気持ちと苛立ちが混ざって、思わず強い口調でアーロンはいった。エシュはとまどったように何度か目を瞬いた。竜が低い声で唸ったが、アーロンはもう気にしなかった。エシュの手首をつかんで強引に通路を進む。屋外ではエシュの顔色は多少ましにみえた。 「エシュ、大丈夫か」 「俺は問題ない」 「問題ない? どこがだ? 今日はいったい何をされた?」 「……アーロン」  エシュの声にまじった警告の響きはアーロンの耳に届かなかった。 「おい、どこへ向かってる」 「宿舎だ、エシュ。おまえは陛下の……自由にしていいものじゃない」なんとか声を低めてはいたが、いったん口に出すと止まらなくなった。「たとえ陛下でも許せない。おまえを……」 「アーロン、もういい」  エシュは顔をしかめてアーロンの手を振り払ったが、足取りはいつもの彼らしくなく、アーロンがついていくのを止めようともしなかった。アーロンは大股で歩き、上級将校用の宿舎にエシュが入るのを見届けた。  おそらくその後の出来事がなければ、いくら苛立ちで胸がヒリヒリしていたとしても、アーロンはそのままきびすをかえしたにちがいない。ところがふりむいたとき、舗道脇の植樹のあいだで動く影をみたのだ。  反射的にアーロンは走った。影に追いつくのはたやすかった。純白の使者の服と背格好から相手が誰なのかはすぐにわかった。 「セラン。何をしている?」  夜の薄明かりのなかでも白皙の美貌はきわだっていたが、陶器でつくられたようにのっぺりした無表情だ。唇がふるえるように動いた。 「アーロン……あなたは陛下も裏切るのですね?」  伸ばしかけた腕から力が抜けた。白い服がひるがえり、セランが走っていく。うしろ姿をみつめたまま舗道に立っていたのはあとで思うとほんのわずかな時間だったが、ひきのばされたように長く感じた。アーロンはふりむき、あわただしく宿舎へ駆けこんだ。  廊下の先でエシュがだるそうに壁にもたれていた。たったいま外で何が起きたかなど知らないだろうし、アーロンにしても、エシュが知らない方がよかった。  エシュはアーロンの気配を感じたのか、はっとしたように顔をあげた。 「おまえは帰れよ」 「部屋はどこだ」  エシュはのろのろと足を動かした。ドアがあくとアーロンはエシュを押しこむように中に入り、すばやく窓のカーテンをしめた。 「また背中か?」  エシュは寝台にドサッと音を立てて座った。 「大丈夫だといっただろう」 「その様子でか?」 「宮殿ではな、終わると召使が面倒を見てくれる。皇帝陛下はもちろん、帝国軍人としての俺が役立たずになるようなことはしない」  アーロンのまなざしが疑いをあらわにしていたせいだろうか。エシュはちいさく微笑んだ。 「アーロン。おまえは生まれついてのくそまじめだ。ろくでもないことを考えるなよ」 「ろくでもない?」 「それにおまえは生粋の帝国臣民、生まれた瞬間から上流だ」エシュは話しながら軍服の襟元をゆるめた。「俺とはちがう」 「エシュ……すぐに作戦がはじまる。帝都を離れれば皇帝陛下も」 「さすがにお召しはされないだろうな」  エシュはアーロンの言葉をひきとってそういうと、かがんで靴ひもをほどいた。軍人らしからぬしぐさで靴をほうりだし、上着を脱ぎ捨ててごろりと横たわる。アーロンはすこしためらったが、寝台のすそに座ってエシュをみおろした。無理やりついてきたようなものだが、エシュが自分の存在を受け入れているのを感じて、それが嬉しかった。  昔からときどき、エシュは自分より竜と共にいる方がいいのではないかと思うことがあった。そのたびにアーロンは刺すような嫉妬をおぼえたものだ。さっきもエシュは体をやすめることより、自分の竜のもとへ行くことを選んだ。 「おまえがドルンの前にいてよかったかもしれない」  唐突にぽつりとエシュがいった。 「おまえがいなかったら、俺はあいつに乗って……」  言葉は最後まで続かなかった。 「城壁都市へ戻ったか?」 「どうだろうな」  エシュは寝そべったままベルトをゆるめて抜き、袖口のボタンをはずした。両手首にうっすら残った痕にアーロンは怒りの声を飲みこんだ。 「ときどき帰りたくなる」 「どこへ?」 「わからん。どこにもない場所だ。竜石も法も、黒も帝国も……何も関係ないところ、俺と竜と……」 「エシュ、俺がいる。俺が必要だといっただろう。俺を使え」  アーロンは寝台に手をついてエシュをみおろした。逃さないように視線を絡めると、エシュは困ったように眉をさげた。アーロンはささやいた。 「おまえを愛している」  エシュは黙ったまま手を伸ばした。肩をつかまれ、アーロンは唇を重ねあわせた。エシュの体に腕を回し、そのまましばらくじっとしていた。やがて閉じたエシュの瞼が夢をみているようにふるえ、体がゆるんで重くなった。  そっと寝台をおりるとエシュはころりと寝返りをうち、アーロンの方をむいた背中のシャツがわずかにめくれた。憤りに体が震えるのをこらえながらアーロンは上掛けをもちあげた。眠る男を覆うと足音をしのばせて部屋を出た。

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