63 / 111
【第2部 飲みこまれた石】28.エシュ―すべての物事にはおわりがある
「ちょっと急いでその角質を削っとけ。山地で硬化すると面倒だ」
「おいそこ、鱗を締めすぎるなよ」
「布持ってこい、早く!」
「そっちいいか? よし、あげろ」
飛翔台の整備員たちから叫び声があがる。竜たちの唸り声、翼が擦れ、鱗の生えた足が飛翔台を踏む音。空は今日も雲ひとつなく晴れている。その染みひとつない布の真ん中をやぶるように〈黒〉の竜が次々に飛び立つ。
俺もドルンの背中に乗って城壁都市の上空へ舞い上がる。早朝の飛翔は太陽をしたがえて移動する感覚がことさらに気持ちよく、乾燥した冷たい風が頬を打っても自然に笑いがうかんでくる。長距離の飛翔と山地の気候に合わせて防寒の装備は万全だ。
午前のうちに中継地点にあたる地区でいったん降り、軍本部から派遣される部隊と合流する手はずだった。軍本部の部隊にはアーロンと部下のほか〈萌黄〉と〈紅〉が少数加わっている。〈紅〉の歩兵はすでに駐屯地から現地でべースキャンプの設営をはじめているが、軍本部から派遣される連中には帝国軍内の政治力学がからんでいる。何しろ皇帝陛下のお声がかりではじまった作戦だ。お目付け役を起きたいのはわかる。
帝国軍人としてあるまじきことだが、いまだに俺は作戦に前向きな気分ではなかった。それでもドルンの背中にいると頭も体も軽くなる。やっと城壁都市、それに帝都から離れられる。
群れの先頭をいく変異体はティッキーの竜だ。すこしおくれて隊列を組んだ騎乗竜が続く。〈黒〉の変異体は外見も能力も異なるから、ふつうの群れのようにきれいな隊列は組まない。飛ぶ高度も速度も見た目はてんでばらばらだが、ドルンはしんがりから全体を掌握している。俺はシュウがひさしぶりに自分の竜、ファウで飛ぶのを確認する。
竜たちは二本の川が並行して流れる平野の上を太陽を背にして進んだ。収穫期の黄色を赤く染まった森がふちどり、川は空の色をうつして青い線を描く。中継地点の町には予定通りについた。ここには〈紅〉の駐屯地がある。飛翔台の近くに籠をひいた騎乗竜が繋がれているのがみえた。軍本部の一行はまだ到着していない。嫌な予感がした。
竜が次々に降下する。ドルンのハーネスをゆるめ、俺は鞍から地上へ降りる。駐屯地の兵士がひとり、こちらへ走ってくる。
「おそれながら〈黒〉の団長殿であらせられますか!」
「ああ。定刻到着だ。何かあったか?」
「帝都から『使者』が参っております!」
俺が反応するより先にドルンが不機嫌に唸り、尾の棘がするどく立つ。兵士がぎょっとした表情であとずさった。使者――セランか? 俺の頭に浮かんだのはまずその名前だった。今になって何の使いだ?
「わかった。すぐ行く」
「ご案内します。どうぞこちらへ」
皇帝の勅使が突然やってきたとなれば兵士が緊張するのも無理はない。使者は駐屯地の司令官よりも優先されるのだ。
案内された客間に一歩入ったとたん、靴の踵が沈んだ。駐屯地の標準とはかけ離れた絨毯が敷かれている。逆光になった人影にむかい、俺は作法にのっとってまず礼をし――耳に入った声にそのまま硬直した。
「おもてをあげよ、エシュ。帝都以外でそなたの顔をみるのもよいものだ」
「陛下」
「レシェフと呼べばよい。この姿のときの、そなたのざっくばらんな態度もよかったぞ」
まさか冗談だろう? 冗談にしても趣味が悪い。
「お戯れを」
俺は用心深く顔をあげ、使者の姿で座っている皇帝陛下の前に進み、片膝をついた。自分がどんな表情をしているのか自信がなかったが、最初に思ったのは敷いてあるのが上等の絨毯でよかったという、まあどうでもいいことだった。
「驚いたか?」
「まさかこんなところまでいらっしゃるとは……思いませんでした」
「たしかにレシェフが城壁の向こうへ出たのははじめてだが、そなたを驚かせるのは悪くない」
皇帝は平然とした口調でいった。
「宮殿でそなたに渡しそこねたとなると、使者を出すしかあるまい? これもアーロンのせいだが」
アーロン? どうしてここであいつの名前が出てくる?
俺は疑問をそのまま顔に出してしまったにちがいない。皇帝陛下はなぜか満足そうな笑みを浮かべた。
「これを」
黒い手袋をはめた両手のうえに細長い竜革のケースがあらわれる。もちろん俺には見覚えがある。先の出動でこれを発見したのは俺自身だ。
陛下が剣の柄をにぎったとき、雫のような銀の珠が手袋に埋められているのがみえ、俺の背中の中心にひきつれるような痛みが走った。皇帝はすらりと鞘を抜いた。窓の光に刀身が反射する。磨かれ、研がれた切っ先を俺はまじまじとみつめてしまう。この剣は〈法〉を使うまでもなく何者かを傷つけることができる。俺の夢に何度も出てきたもの。
「エシュ、そなたにこれを授ける。神が余に告げた竜を狩る剣である」
俺は陛下の顔をみつめたまま混乱していた。俺がこの剣を? 俺が夢でみたとき、この剣を握っていたのは――
「さあ、取りなさい」
刺されたように背中が痛んだ。拒否することもできず、俺は両手をさしだした。竜石を集めるだけなら竜を狩る必要はないが、これから行くのは無人地帯だ。野生竜に遭遇したとき、俺はこの剣を使わなければならないのか?
「それでよい。そなたこそがふさわしい」
皇帝は満足そうな笑みを浮かべた。
「どうして余は勘違いしていたのだろうな? アーロンがふさわしいと思っておったのだ。あれが竜のような貪欲をもつとは、余も愚かであった。もうすこしで間違えるところであった」
俺は話のゆくえがみえないままだった。
「……陛下?」
「あれの能力は疑いようもなく、余のために竜石を持ち帰るといったのも本心ではあろう。だがそなたとあれのあいだには、過去ずいぶん確執もあったようだな。ともかく余のものをかっさらおうとするなど、貪欲といわずしてどうする? ちがうか、エシュよ。そなたは余のものだ。帝国すなわち余の駒のひとつにすぎない者が、思い上がりおって」
「おそれながら、陛下がお話されているのは……」
俺の口はこわばっていたが、皇帝の口元はまた不気味にもち上がる。
「アーロンは竜石をもたらすために必要な駒だが、そなたにはさらに役割がある。剣をもって新たな竜を狩り、帝都へ〈地図〉を持ち帰れ。戻るのはそなただけでよい。〈黄金〉の逸材といえども代わりはいる」
「陛下、しかしアーロンは……何も……」
「まどうな、エシュ。余の使者は良い目をもっているのだ――おっとそうか、いまは余自身が使者となっているのだった」
皇帝は愉快なことでも思いついたように笑った。
「そなたも地図師なら理解しておろうが、存在はその姿の下に〈精髄〉を隠しておる。アーロンが隠す竜の貪欲は余の帝国には不要なものだ。余にとって、外から来る反逆は恐れるに足りぬが、内部に芽生える謀反の種は放置できぬ。そなたが排除せよ」
俺の足も剣を支える手も、硬直したまま動かなかった。皇帝の手がゆっくりとさがる。背骨の中心がきりきりと耐えがたいほどに締めつけられる。
俺は頭を下げ、髪を押さえる皇帝の手を感じながら背中の痛みに耐えた。膝をついた恭順の姿勢を変えられないまま、伏せた視界のすみに使者の白い服の裾がひらめく。皇帝の気配が去っても背中の痛みはなかなか消えない。俺は剣を支えにしてその場にうずくまっている。
ちがう、こうじゃない。俺はこの剣を何に対しても使わない。
よろよろと立ち上がったとき、窓のむこうにみえる空を竜の影が横切った。飛翔台めがけて隊列が降下する。エスクーの優美な降下はこの場所からでもはっきりみえた。アーロンが到着したのだ。
ともだちにシェアしよう!