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【第2部 飲みこまれた石】29.アーロン―おまえにふさわしいもの

   * 『地上班、聞こえるか? 聞き飽きているだろうが何度もいうぞ。ここでおまえたちが探しているのは人間じゃない、竜でもない。竜の痕跡だ』  通信機からエシュの声が流れる。  アーロンは自分の騎乗竜、エスクーの背の上で耳をすませる。このあたりの山肌は棘をもつ灌木と針金のような草に覆われている。アーロンは〈黒〉の竜が山肌すれすれを飛ぶのをもっと高い位置から見下ろしている。 『ひきつづき岩肌に鉤爪の痕がないか注意しろ。撮った像は全部解析官へまわせ。日が高いうちに岩壁のどこかで痕跡がみつかるのを期待してる。竜どもを驚かせるなよ』  アーロンの見守るなか何頭もの竜の翼がはためき、山肌にそって散開する。ベースキャンプからこの地へ到達するたび心もとない気分が生まれるのは、奥へ進めば進むほどここにまだ〈地図〉が存在しないことを思い出すせいだろうか。  アーロンはいま無人地帯にいる。辺境の、反乱者から奪還した地区の外側、いまだ帝国が把握していない竜の棲む土地だ。  帝国軍の竜がむかう先には巨大な岩の壁がそそり立ち、その上にはさらに険しい山がそびえる。岩壁を背に左右をみわたせば、大岩のあいだに灌木が生え、丈高い草が隙間を埋める。こちらはどこを切り取ってもおなじ景色に感じられた。  この山地は帝国がいまだに全領域を地図化できない原因のひとつだ。鉱山を含む、すでに地図化された地区――エシュの故郷も――には細々と人間が暮らす余地があるが、ここでは人は暮らせない。いつかこの領域の〈地図〉を精製できれば〈法〉で全体を把握できるにちがいないが、いま手がかりになるのは領域全体を把握する〈地図〉とは程遠い、紙の図面である。  それでも竜石の探索は計画通りに進行していた。  アーロンは作戦を立てるにあたって、過去に異法を使ったとされる反乱者――辺境民――の尋問記録と、これまで帝国に蓄積されてきた野生竜――地図化に至った種も、まだ報告が残されているだけの種もあり、最新版は〈黒〉がまとめたもの――を詳細に調査した。  辺境民が〈異法〉を使うための竜石は、無人地帯から高層圏を回遊する、おそらくは数種の竜によって生み出されたものだ。エシュが皇帝陛下に明らかにした事実をもとに今回の作戦は立てられている。これらの竜は、吐き戻した竜石を特定の場所へ貯める性質がある。  エシュの故郷の人間が持っていた竜石のいくつかはこういった竜の貯蔵場所から持ち出されたもので、その大胆な行為は「竜の財宝」をめぐる物語に似ていた。だがアーロンが指揮する帝国軍はちがうアプローチをとった。やみくもに無人地帯をさまよったりはせず、あらかじめ決めた手順で竜が残した痕跡を調べて追い、竜石の「巣」をみつけだすのだ。  もっとも辺境出身のエシュがいなければ、痕跡をみつけるといっても簡単ではなかっただろうが。 『上空班は山肌の色の変化に気をつけてくれ。昨日もいったが植生が急に変わったらそれも判断の材料に――』  骨を伝って響いたエシュの声がふいに途切れた。別の声がわりこんできたのだ。 『団長! こちらフィル、』 『どうした?』 『みつけたと思います。鉤爪です。岩壁で折れた鉤爪を発見』  一瞬だけ息をのんだような気配が伝わった。つづいて竜笛の細い長いさえずりが響く。竜には銅鑼のような響きに感じられたにちがいない。 『上空班! フィルの方へ回れ。上から見た像を撮れ。アーロン、見えるか?』 「ああ。向かってる」 『俺とドルンで先導する』 「わかってる。行け」  巨大な岩壁の裾に次々に竜が集結する。ひときわ大きな体躯のドルンの背にエシュがみえる。 『ドルンのケツで風をよけるんだ。上昇するぞ!』  傾いた午後の日差しにエスクーの頭が黄金に輝いた。急激に上昇するドルンに〈黒〉の変異体が続き、エスクーも負けじと食い下がる。岩肌がアーロンの視界を流れるように通り過ぎた。真上から白い雲のかたまりが迫ってくる。頭から突入したとき、エスクーが旋回に転じた。  雲の切れ目に緑色が揺れる。  エスクーの尾がすぐ下の岩肌を打つ。霧に濡れた岩の表面は苔の緑が覆っている。緑に覆われていない部分は大地の内側にむけてうがたれた真っ黒な穴になっている。岩の表面にも地面にも巨大な爪痕が散らばっている。ドルンの棘が軟弱にみえるような爪痕だった。    *  尖った山の頂が暮れなずむ空にそびえていた。  かすかに残った光のあたる方向は紅く染まり、反対側は黒くするどい影をかたちづくる。昼間の無人地帯とちがい、ここではあの山はまだ小さく、美しいだけでさほど畏れを感じさせないものになる。  アーロンのブーツが踏む地面は鈍い光沢のある漆黒の砂に覆われていた。黒く見えるのは夕暮れの光の効果ではなく、かつてここにあった鉱山の名残だ。  アーロンは左右に鋭い視線をむけながらベースキャンプを横断した。山裾からすこし上がった空き地に設営されたベースキャンプは、山にむかって右側にドーム型のテント、左側にタープをかけた竜のための囲いが配置されている。  中央に作られた水場のとなりの小屋は調理場で、〈黒〉の隊員が数人、笑い声をあげながらその脇を抜けていった。テントのあいだにはモカの香りと料理の匂いが流れていた。風向きのせいか竜の金臭い匂いはここまで届かない。  アーロンは司令部のテントを通り過ぎ、食事中の兵士のあいだを通り抜けたが、探している男の姿はみあたらなかった。調理場から両手に鍋を捧げもった男があらわれて、隊員の集まる中央のテーブルへ運んでいく。隣にいた小柄な男がアーロンの顔をみてハッとしたような表情になった。解析官のシュウだ。鍋からは軍用糧食には似合わない、食欲をそそる香りが漂った。 「どうした?」  テーブルに座る男のひとりがアーロンに声をかけた。アーロンは軍大学時代――城壁都市で起きた事件からずっとこの顔を覚えていた。〈黒〉の古参のひとりだ。名はティッキー。エシュの前にイヒカの副官を務めていたはずだ。がっちりした体躯に日焼けした太い首と顔、眼光はアーロンに負けず劣らず鋭い。 「団長はどこへ?」 「さあ。飯の時間だからじきに戻るさ」  ぞんざいな口調でティッキーは答えたものの、アーロンの表情をみるとなぜか面白がるような笑みを浮かべた。 「戻ったら司令部へ行くよう伝えるさ」 「ああ、頼む」  いつものように解析官はアーロンを無視した。どうやら彼には嫌われているようだ、とアーロンは思ったが、気にはならなかった。そもそも昔から他人にどう思われるか気にしたことはない。もっとも、例外はひとりいる。  司令部のテントの近くではアーロンの部下と軍本部から派遣された他軍団の将官が食事中だ。そのうちのひとり〈紅〉の将官は標高差に適応できずに頭痛を訴え、ずっとキャンプに足止めされている。階級はアーロンより上なので扱いが厄介だ。  アーロンはベースキャンプの外周に足を向けた。閉鎖された鉱山の入口の真上は小さな丘のように盛り上がり、そこに登ればキャンプ全体を一望にできる。ところが近づいてみるともう先客がいた。 「ここにいたのか」  エシュは軽くうなずいただけだ。まだ竜笛の紐を首にかけている。アーロンはすばやく上によじ登った。隣に立ってキャンプを見下ろす。昼間の経験の興奮が残っているのか、今日のキャンプはこれまでになく騒がしい。その反面、エシュを包む空気が静かすぎるのが気になった。 「ついに道がみつかったな」アーロンはいった。「もっと時間がかかると思っていた」  エシュは腕を組んでキャンプを見下ろしている。アーロンの方をみずにいった。 「明日は解析班以外は休日にしたいが、いいか? 上の岩には爪痕が大量に残っていたし、糞や体表の組織も採取したから、シュウに竜種の推定をさせる」 「ああ。町に返したい将官もいるからちょうどいい」 「天気も悪くなるからな」  アーロンは反射的に上をみあげた。 「そうか?」 「西から動いている。上の風とここの風の差が思ったより大きかった。ひどい嵐にはならないが、探索には向かない」  この土地に来てからのエシュの予測は気象計よりも早く、しかもかならず当たった。アーロンは了解のしるしにうなずき、エシュは腕を組みなおした。アーロンは隣に立つ男の静けさがまたもひっかかった。作戦がはじまってからずっとこうなのだ。〈黒〉の隊員と話しているときも、どこか快活さに欠けている。  唐突にエシュの肩に腕を回したい衝動にかられたが、アーロンは思いとどまった。たくさんの目があるここではうかつな行動はできない。 「俺がむかし聞いた話では『竜の財宝』はだいたい地表近くにあるという」  思いをめぐらすアーロンをよそに、エシュは淡々といった。 「だいたいは、巣穴の主の寝場所からは遠い。吐き出したものをくぼみに蹴り入れて貯めるから、というんだが、つまり帝国神話に登場する、財宝の上に眠る竜という話は間違いだってことだ。まあ、もともと|辺境《このあたり》じゃ、『竜の財宝』は帝国とはかなりちがう話だが」 「どんな話だ?」 「聞きたいか?」  エシュの眸がきらりと光り、いつもの彼らしい雰囲気がすこし戻った。 「試練の物語のひとつだ。竜は若者に謎をかけ、試練を与える。くじければ若者は命を落とし、乗り越えれば財宝を分け与える。隠し場所へ導いたり、直接石を体内から吐き戻し、力を与えてくれる。俺もタキもこの話を子供の頃からきかされて……いや」  アーロンは初めて耳にする名前に眉をあげた。 「タキ?」 「気にするな。昔なじみだ」エシュは首を振った。「とにかく、あまり苦労せずにみつかるといい。あとの問題は巣の主に出くわした時だ。少なくともあの洞窟はいまだに……使われている」  アーロンも腕を組んだ。 「出くわしたらその時はその時だ。俺が竜を押さえているから、おまえが〈地図〉にすればいい」  深く考えずに出た言葉だった。それとも逆で、つねに頭にあるからあっさり口にできたのかもしれない。だがエシュは組んだ腕をほどいた。 「問題は竜石だ。地図化は必要ない」 「あの規模の巣穴に棲む竜に襲われても? 俺がいうのは不可抗力の場合だ。それに陛下の……帝国の意思も最終的には地図化にある。〈地図〉こそが支配だ」 「そうだな。陛下か」  エシュの声に皮肉っぽい響きが戻った。アーロンはハッとしたがエシュはそれ以上続けず、左手の中指にはめた指輪を右手の指でくるくる回しはじめた。何かを考えこんでいるとき、エシュは手遊びが多くなる。アーロンは慎重に口をひらいた。エシュが何を悩んでいるのか知りたかった。 「そこには何が入ってるんだ?」  意外なことにアーロンの声を聞いたとたん、エシュはびくっとした。指輪をいじるのをやめてアーロンの顔をちらっとみると、すぐにそらす。 「たいしたものは入っていないさ。竜の巣で役に立ちそうな〈地図〉がいくつかある」  やはり何かを恐れているようだ。アーロンはそう思ったが、そのまま口に出すのはまずいような気がした。本当は、自分がここにいるのだから何も恐れるなといいたかった。ふたたび隣の男の肩に腕を回したいという衝動をこらえた。一度そうしてしまったら、きっとそれ以上がほしくなる。  ここでは駄目だ。しかしいつなら許されるだろう。  空の暗い場所で星が輝きはじめている。 「エシュ、飯は食わないのか」 「そうだな。行こう」  アーロンはエシュと肩をならべてキャンプへ戻った。

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