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【第2部 飲みこまれた石】30.エシュ―氷の割れ目

 この世でいちばん大きい竜がどこにいるかって?  おまえが飛竜に乗れるようになったら教えてやろう。  物心つくかつかないかの俺にそういったのは故郷の父親だ。はじめて父と一緒に竜に乗って飛んだのは何歳のときだったか。  俺は父の前に座っていた。両足を折り曲げ、鞍から落ちないようにハーネスで縛られて、頭を鞍に座った父の腹のあたりに押しつけている。動かせるのは両腕と首から上だけだ。これが幼児を飛竜に乗せるときのやりかたで、俺ははやくひとりで竜に乗れるようになりたいと願う。  中天に太陽がまぶしく輝いているのに空気は冷たい。俺はぼってりしたぶ厚い上着に守られている。竜は俺たちの山地――岩山の上を飛ぶ。突然父が右をさしていう。「あの稜線の向こうは帝国のものだ」つぎに左をさしていう。「あの壁がみえるか?」  岩壁の上部は雲に隠れていた。俺はまばたきもせずにみつめたが、壁の全容をとらえることはできなかった。 「この世でいちばん巨大な竜の巣はあの壁の上にある」と父がいう。父の声は俺の頭のうえに落ちてくる。 「じゃあ、壁の上に行けば会えるの?」と俺はきく。 「簡単には会えないさ」父の腹が動いて、笑ったのがわかった。 「彼らはいつも巣にいるわけじゃないし、目に見えないくらい高いところを飛ぶ。おまけに狩りのときは世界の裂け目をすり抜けて移動するんだ。裂け目では人は生きられない。息ができないからな。でも竜は越えられるし、隠れられる」 「どうやって?」 「竜の〈法〉があるのさ。人間の〈法〉よりもずっと強力な〈法〉を使って彼らは生きている」 「それ、にんげんには使えないの? とうさんも?」  父の手が帽子をかぶった俺の頭をぽんぽんと叩いた。 「そうだな、竜の力をわけてもらう方法はある。竜の〈法〉のかけらは彼らの腹の石に貯められている。竜の友となって許された者はそのかけらを分けてもらえる。おまえもいつか友となる竜に石をわけてもらうか、でなければ……」 「でなければ?」 「壁の上まで飛べた者は竜が巣に守る石を持って帰れる。でもひとつだけだぞ。ひとつなら竜は許してくれる」 「たくさん持って帰ったらどうなるの?」  また父は笑った。 「壁の上まで飛べる者なんてめったにいないんだ。ひとつ以上持って帰ろうなんて誰も思わない。俺たちが死んだとき、魂を迎えにくる竜なんだぞ」 「とうさんも飛んだの?」  父は答えなかった。父の竜石は他の者の石よりずっと大きいものだった。それは今、皇帝に渡された剣とともに俺の指輪の中にある。  白い雲――霧の中にうがたれた穴は黒々としていた。奥からはゆるやかではあるが風が吹いているらしく、外の水蒸気が渦をまいている。そこらじゅう竜の痕跡――鉤爪だの表皮の破片だのが落ちているのに、おなじみの臭いがまったく感じられない。俺の横でフィルがぶるっと体を震わせる。 「寒いか?」 「あ……寒気っていうより」フィルは真面目な表情でいった。「興奮のしすぎですかね」 「嘘つけ。ビビってるんだろう」 「わかりました?」 「俺も震えそうだからな」  そうだ。フィルも俺も、きっと他の〈黒〉も、怖いものみたさで震えそうなはずだ。しかしここの主はたぶん何者も恐れる必要がない。散らかし放題の洞窟の入口をみて俺はそんなことを思う。  下界は晴れているし、ここも風で雲が切れれば強い日差しが照りつけるが、それでもしょっちゅうこの場所は雲のなかに入るにちがいない。岩の表面や地面には緑の苔が織物のようにびっしりと生えている。触るとフカフカで気持ちよく、ブーツで踏んだあとがきれいにへこむ。ところが洞窟の内側は乾いていて、外よりも暖かい。岩の内側も苔のようなものであちこち覆われているが、トーチやランタンで照らしてみると、緑ではなく赤みがかった灰色や褐色をしている。 「火炎型、でしたっけ」とフィルがいう。 「シュウの見立てではそうらしい」俺はシュウの言葉を思い出しながら答えた。  ここにいない解析官は「鱗からみて、火炎を吐くタイプだな」といったのだった。本人はここまで来れないことを悔しがったが(シュウの竜にはこの高さまであがる能力がないのだ)俺たちは今日にいたる数回の調査でそれなりの材料をここからベースキャンプに持ち帰った。  シュウは俺たちが持って帰ったブツをみて真っ赤な顔で文句をいったが、それは興奮の裏返しで、そのあとろくに眠ろうとしなくなった。ベースキャンプでも不眠は命とりなので、アーロンは薬を使ってでも眠れと厳命し、それでしぶしぶ休憩に入ったくらいだ。 「ここにいるのがどんな竜かって? 高層圏の竜の〈地図〉なんてまだ存在しないから、推測も難しいけど、手に入る材料で考えるしかない。にしてもこの鉤爪、マジ? 爪がこのサイズなんてとんでもないよ。こんなでかいのにどうやって飛べるんだ?」  まくしたてるシュウに「他の飛竜とおなじ方法で飛べないのか」と聞くと、まるで怒っているかのような表情で「どうだろう。飛べるのかもしれないけどな!」とこたえた。 「小さいのは別として、騎乗竜クラスの竜は翼の他に、体内の微生物のガス交換を使う。でもこの爪の持ち主はエシュのドルンだって可愛くみえるサイズだ。いったいどれだけの微生物を抱えているか……それに噴射の衝撃がどんなものになるか。だいたい、何を食ってこの大きさになっているのか、どうやって体を支えているのか……」 「これだけの大きさなら、腹に常時いれてる竜石もでかいだろうな」  俺は何気なく思いつきをつぶやく。するとシュウは物騒な目つきで俺をみた。 「竜石。そこに〈法〉が貯まるっていったな、エシュ」 「ああ。それで?」 「つまりこういうデカブツは〈法〉で飛んでいるかもしれないってこと?」 「おい、いきなり結論出すなよ」  考えてもいなかったので俺はあわててそういったが、シュウはぶつぶつ何かつぶやいている。 「とにかく、山地の野生竜は間隙(かんげき)を通るために〈法〉を使うんだ」  俺がそうつけくわえると、うつむいたままため息をついた。 「間隙ね。じつは野生竜にたいして出くわしたことのない僕はね、竜がそんなことをやってのけるのをみたことがない。地図化してから殖やした竜にそんなことはできない」 「でも俺は……子供のころ何度もみた。このあたりの山地では、小さい竜が間隙を出たり入ったりするのは――帝国領になる前、地図化の前はふつうだった。あいつらはどこにもないはずの場所を通って別の場所にあらわれる」 「どうして地図化されるとできなくなるんだ?」 「地図化は竜の腹の石から〈法〉を奪うんだ。それに帝国の竜は……間隙に隠れる必要もない。人間の所有物だから」  何を思ったのか、シュウはいきなり顔をあげた。しげしげとみつめられて俺はきまりが悪くなる。 「なんだ?」 「いや……いいけど。つまりこの爪の持ち主がどうやって宙に浮くにせよ、おなじように突然『どこにもない空間』からあらわれるってことだね、エシュ。いきなり変異体が喰われたらどうする?」 「喰うと思うか?」 「火炎型なら喰うだろう。それに黒鉄(くろがね)竜もあのとき、人を喰ったじゃないか」  そうだった。こうして竜の爪痕の前に立っていると俺の背筋もすこし寒くなる。俺のライフルやポケットの小刀はここに棲む竜になにがしかの意味を持つだろうか。  調べた結果、岩壁の中にうがたれた穴への入口は五カ所、うち三カ所は通気口のようなものらしく、細く垂直に抜ける穴だった。残る二カ所は完璧な洞窟だ。岩壁をあがってすぐのところにあった最初の洞窟と、ここだ。  これから内部の探索に向かうのはアーロン以外は全員〈黒〉である。岩壁に沿って何度上昇してもへこたれなかった帝国の竜は、アーロンのエスクー以外にいなかったせいだ。  軍本部から派遣された連中は実際の調査にほとんど加われないことに不満をもらしたが、俺はアーロン以外の面子がすべて〈黒〉になったのにほっとしていた。実のところ、アーロンのエスクーがここまで優秀でなければよかったのに、とも思っていた。  エスクーがここまで上昇できなければ、俺はお偉いさんの相手をアーロンに任せられるし、あいつに関わるよけいな心配をせずにすむ。あいつが知る由もないよけいな心配を――くそ。 「大丈夫か?」  背後の声をきいて、俺は指輪を回す手をとめる。アーロンはフィルのように震えてはいなかった。そういえば、俺はこの男が何かを恐れたりひるんだりするのを一度もみたことがない。|黒鉄《くろがね》竜のときだって、こいつは恐れず、怒っていた。 「問題ないさ。行こう」  俺は洞窟に足を踏み入れる。アーロンが「チャネルをあわせろ」と全員に告げた。俺たちは四隊に分かれていた。岩壁の途中までしか通信が届かないので、二隊はふたつの洞窟の外でそれぞれ待機し、変異体とともにベースキャンプとの連絡に備える。ティッキーは岩壁に近い洞窟の隊を率い、アーロンと俺の隊はこっちの洞窟だ。  巨大な洞窟の中は外よりずっと暖かい。上は岩をえぐったような形をした天井で、足元はごつごつした岩だらけのなだらかな坂が続く。俺はまだみぬ巨竜がここをどんなふうに通るのか想像しようとした。両側の壁には飛んですり抜けていくのではないか。明かりをつけると岩肌を覆う鮮やかな色がみえる。声と足音の反響にどきりとする。 「二人一組で進め。分岐で位置を見失うことがあったら、すぐに連絡しろ」  俺は通信機にささやく。ここでのやり方もこれまでと同じで、手順は決めてあった。これまでとちがうのは、今回俺が組むのはアーロンだということだ。いつのまにかそういうことになっていたのだ。  トーチで周囲を照らしながら俺たちは歩きはじめる。  奥へ向かううちに前後にいる他の〈黒〉が立てる音が気になった。足音のでかいやつが何人かいる。すぐそばを歩くアーロンの方がましだ。  この洞窟のどこかに竜がいるのなら、もう俺たちに気づいているだろうと思えてしかたなかった。そいつが俺たちを取るに足らぬものとして無視するか、蹴散らすべきもの、あるいは食い物だと考えるのかは、今の時点では見当もつかない。  しばらく歩きつづけても竜の臭いはしなかった。油断とまではいかなくとも、すこし安心しかけたころ「エシュ」とアーロンがささやいた。俺は飛び上がりそうになるのをこらえた。  今だけじゃない、作戦がはじまってからというもの、アーロンは俺の様子を不審に思っているにちがいない。竜と世界にまつわるユルグの話、皇帝がよこした剣と命令、それに長年白昼夢からすりこまれた例のお告げ。ベースキャンプに着く前からこれらはもつれた糸のように俺の意識に巻きつき、俺はすっかり混乱していた。  このもつれた糸は全部、アーロンに結びついている。アーロンごと切り落とすしかないように思うのに、俺はそうしたくない。それどころかときおり、アーロンに触れたくてしかたがない自分を否定できないのがきつかった。朝や夕方、ベースキャンプで顔をあわせたときや、夜中にテントで横になった時。そして今―― 「なんだ?」  俺は小声で返した。この先は二方向へ分かれている。どれほど広い洞窟なのか。立ちどまったアーロンが分岐にトーチの光をあてる。どちらの方向にも竜の爪痕がある。前方にいた小隊が右の分岐へ進んでいく。 「いま思いついた。エシュ、おまえの〈法〉で竜石の位置を察知することはできないのか?」 「〈法〉で?」 「おまえの竜石を使うやりかたで。〈異法〉で竜石そのものを感じることはできないのか? 共鳴のようなものが起きないかと思ったんだ」 「……考えてもみなかった」 「そうか?」  アーロンが俺の方に顔を傾ける。トーチに照らされた表情は冷静だが、それ以上の何か、温かさのようなものを感じて、俺の胸の奥がうずく。 「ああ。帝国では他に竜石をもつ――異法を使える人間はいないと思っていたし……実際そうだろう。竜石で竜石を呼ぶなんてことは……」 「可能性があるなら試してくれ」  俺はうなずいて指輪を回した。長年ストレージに入れっぱなしの法道具は奥へ勝手に沈んでしまうから、取り出すのに時間がかかる。父の竜石を手のひらにのせるとアーロンの目が丸くなった。俺は少年のころ、老竜トゥーレに与えられた自分の石も取り出す。父の石は左手、トゥーレの石は右手。  握ったものの、何をすればいいのかわからなかった。〈法〉には行使する対象が必要だ。  ふいに左手が熱くなった。  ぎょっとした俺は手のひらをひらいた。父の石が転がり落ちる。鎖をつけた俺の竜石は指の先から垂れさがる。父の石から白い光の筋が右の分岐をさしてのびる。俺はおそるおそる石を拾った。熱くはなかった。手のひらで転がしても光の方向は変わらない。 『団長!』  先に行った連中の声が骨を通じて響いた。 『いま急に、光が――』 「すぐ行く」  アーロンがトーチを真下に向ける。俺は父の石を暗い空間にむけてかざし、光の差す方向へ向かう。最初は小走りで、やがて全速力になる。前方に光の半円がみえていた。アーロンも俺の一歩先を走り、先に光のもとへたどりついた。俺は父の石をにぎりしめたまま、輝く石がごろごろ積みかさなっている目の前の光景を信じられないでいる。 「竜の財宝」なんて子供のおとぎ話じゃなかったのか?  光の前に立って、アーロンは一度俺にうなずくと通信機にささやきかけた。チャネルを経由した彼の声が俺の骨を伝わる。 「こちらアーロン。竜石を発見した」  洞窟の外へ出ると太陽は西に傾いていた。最初にベースキャンプへ持ち帰る、標本となる竜石を隊員が袋につめている。アーロンが運び出しを指示しているのを横目に、俺は胸騒ぎを感じていた。巣穴にあった石の大きさはさまざまで、両手で抱えるようなものから手のひらで握れる大きさのものまであった。  今日持ち帰るのは標本だけだ。とはいえ、光る石がつみあがる洞窟を目撃した隊員の興奮はたちまち周囲に伝染した。俺の父の竜石は今は光を失っていたが、洞窟から運び出した石はまだ青みをおびた輝きを放っている。  この青い輝きには覚えがある。何か大切なことを忘れているような気がする。  俺は不安を感じてあたりをみまわした。首をあおむけると上に雲の層があり、軍団が集結するようにゆっくり厚みを増している。西から東へ風が流れた。冷たい。竜の鉤爪で苔をむしりとられ、むきだしになった岩の表面もかすかに青みをおびている。 「全員聞け!」  俺は通信機に怒鳴った。 「いますぐ作業をやめろ! 嵐が来る、撤退だ!」  即座にティッキーが自分のチャネルで俺の指令を繰り返し、俺はまた怒鳴った。 「すぐ竜に乗れ! いらんものは置いていけ、竜石もだ! 間に合わなくなるぞ!」  視界にいた隊員は即座に荷づくり途中の袋を投げ出し、変異体をつないだ場所へと駆けだした。俺は洞窟に戻ってちんたらしている連中を外へと追いやり、しゃがんで荷造りにいそしむ馬鹿の首根っこをひっつかんだ。 「何やってる、立て、行け!」  俺が叫んでいるあいだにも、数分前まで遠いところにあった雲が覆いかぶさるように迫り、あたりをすっぽりつつみこむ。青かった空はとっくに暗くなり、急激な気温の低下に吐く息が白く凍った。肩にぽつんと何かがあたる。俺は氷のかけらをふりはらう。白い雲のなかを変異体がつぎつぎに飛び立ち、すこし先でアーロンの竜、エスクーが翼をひろげている。 「ドルン!」  竜笛をくわえたとき、とつぜん風が止まった。  ねっとりした膜が俺を包み、耳の奥がつまったような痛みが走る。金臭さがあたり一面にただよい、俺は空をふりあおぐ。黒と灰色の巨大な雲が俺の真上でぐるぐる回り、氷のかけらとともに木の葉や土が降ってくる。  渦を巻いた雲のなかにふたつの眼がひらいた。漆黒の中心に金色の光彩がゆらめき、その周囲で黒と灰色がうごめき、くみかわり、巨大な竜のかたちになる。長い尾が空間を切り裂くように振り回され、胴体がくねって回転した。  あたりの重い空気が散って冷たい風が吹きつけたが、俺はその場から動けなかった。竜の眸がまっすぐに俺をみつめていた。

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