66 / 111
【第2部 飲みこまれた石】31.アーロン―石の皿の晩餐
黒雲のなかにあらわれた竜の巨大な体躯がしなり、尾が空中を切り裂くように叩く。アーロンの前を飛ぶ変異体の翼が斜めにかしぎ、鞍の下でエスクーが硬直した。世界すべてが恐怖で停止したように思えた呪縛の瞬間、アーロンにみえたのは巨竜の顎の真下にいるエシュの横顔だった。
「エスクー! 戻るぞ!」
また世界が動き出したとき、エスクーは安全な下界へ逃げ出そうと、腹を上に向け、回転しながら岩壁から宙に飛び出していた。鞍に固定したままアーロンは宙づりになったが、それでもおのれの竜の支配を手放さなかった。渾身の力でハーネスを引き、エスクーの体勢を元に戻し、ほとんど使うことのなかった鞭を振るった。エスクーは鞭を恐れて上昇し、旋回し、ふたたび岩壁へ頭を向ける。
そのとたんアーロンの目に映ったのは、巨竜の脚先の巨大な鉤爪が洞窟の上部を止まり木のように掴んでいる光景だった。頭部だけをとってもエスクーの体の数倍はあるのに、そのすぐ下にエシュが立っているのだ。身を守ろうともせずに頭をあげ、竜の顎へ手を差し伸べている。
手のなかで何かがきらりと光った――と思ったとき、エシュをつらぬくように閃光が走り抜け、雷の轟音が鳴り響いた。
エスクーがまた悲鳴をあげた。アーロンは竜の顎の下で、エシュが手をさしのべた姿勢のまま、人形のようにぱたりと倒れるのをみた。
空気には金属の濃い匂いがたちこめ、エスクーはまた方向を変えようとしている。恐怖に追い立てられ、下界へ逃げ出したいのだ。
どうして俺は怖くないのだろう?
脳裏をかすめた疑問は、倒れたエシュの上に竜の頭がかぶさるのをみて消し飛んだ。アーロンはハーネスをつかんだまま固定ベルトを外すと鞍の上に立った。地面までの距離をはかりもせず、宙に身を躍らせる。
柔らかい苔の厚みのおかげで落下の衝撃は相殺された。エシュの方へ駆けだしたとき、足が堅いものを蹴飛ばし、鎖がブーツに絡まった。鎖の先につけられた石が光の輪をつくっている。これはエシュの竜石だ。
アーロンは夢中で鎖をつかんだが、そのとき苔の上に〈地図〉がいくつも転がっているのに気づいた。転がった〈地図〉の中央に指輪が落ちている。法道具であるエシュの指輪――きっと雷電の衝撃で保管していた〈地図〉が展開されてしまったのだろう。
アーロンは指輪をひろい、何も考えずに右手の薬指にはめ、腕を振った。
その瞬間、手のひらに剣の柄があらわれた。
いきなりあらわれた武器の重みにアーロンの一部は混乱し、一部は冷静にこれがどこから来たのかを判定していた。エシュの指輪は格納場所 だ。この剣もそこにおさめられていたにちがいない。
柄を握りなおしたとたん自分の〈法〉が呼応し、流れるように一体化した。たちまちアーロンは理解した。
この剣も法道具なのだ。俺はこれを使える――あの竜に。
体の内側から活力がわきあがった。アーロンは剣の鞘をはらうと巨竜にむかって駆けだした。地面に横たわるエシュの上で巨大な顎がひらく。
アーロンは走りながら叫び声をあげ、竜の注意がエシュから自分に向けられるのに満足した。こちらを見据えるふたつの巨大な眼の中で黄金の炎がゆらめいたが、まったく恐怖を感じない。
剣はアーロンの手の中で軽く、自分がこれを思いのままに使えるのがわかっていた。竜の眼がほそめられ、アーロンを調べようとでもするかのように頭部がかたむく。
アーロンの足は同時に地面を蹴り、両手で握りしめた剣を竜の鼻先へ振り下ろし、切りつけていた。自らの〈法〉が切っ先からほとばしり、その一撃で鱗がぴしりと割れた。竜の両眼で金色の炎が燃えたが、アーロンはもう一度跳躍し、鱗のあいだに剣を突きたて、竜の頭によじ登ろうとした。
巨体が激しく動き、竜の翼がアーロンを払い落とそうとするかのように伸びて打ってくる。剣を杭のようにして揺れ動く竜の頭につかまったまま、アーロンは杖をとりだそうと試みた。慣れた道具は柄に触れただけで〈法〉を発動し、竜の翼が押しのけられる。
「アーロン――」
地上から名を呼ぶ声がきこえた。
「アーロン、よせ……竜を殺すな……」
アーロンは剣につかまったまま地面を見下ろした。エシュがよろめきながら起き上がる。竜とアーロンをみつめ――そして吐き捨てた。
「おまえらの思い通りにさせはしない――アーロン!」
アーロンにはエシュの真意がまったく理解できなかった。しかしエシュの声をきいたとたん、竜の眼に睨まれても恐怖を感じなかったおのれの核が一瞬ゆらいだ。巨竜はその隙を逃さなかった。巨体がふるえ、顎がひらいて咆哮を放ち、音の衝撃でアーロンの手から力が抜けた。何かが足をすくい、背中を打つ。鱗のあいだに刺さった剣も抜けて、アーロンは武器とともに空中に投げ出される。
視界を真っ白の光が覆った。さっきエシュが倒れた時とおなじ、耳を聾す轟音が鳴り響いた。
*
体はずっと墜ちつづけている。それはたしかに感じられるのに、いつまでたっても落下の衝撃がやってこない。あたり一面は白、白、白、それだけだ。俺はどこにいるのだろうか。
(また同じ結末か。そもそも竜殺しの英雄神話に問題がある)
声がきこえた――ように思った。
(馬鹿をいえ。原初の竜殺しは原始象徴体系に不可欠な初期条件で、多様性環境の出発点だ)
(転移因子の導入は結局意味がなかった?)
(いや、特異点への干渉能力は十分にあった。問題は相互作用だ。だから何度も介入している)
(そうはいっても神格変換による間接介入じゃないか。あれを使わずにすめば……)
(無茶苦茶いうな、まったく別の象徴異界が派生するだけだ。原理的に統制不能な要素も間接介入も、大前提なんだよ)
いくつかの声。奇妙に聞き覚えのある響きもあるが、何をいっているのかさっぱりわからない。アーロンはまだ墜ちている。声はアーロンに気づいていない。
(いやだからこの目的は多様性を含んだ持続的環境維持を可能にする象徴異界系の確立だから……)
(これで終わるのなら初期化の手順に入るが?)
(――そうはさせない)
(今何か聞こえなかったか? 変だぞ……この系で発生した独立因子が初期化を阻害している)
*
「アーロン!」
はっとして目をあけるとエシュの顔が見下ろしている。黒髪がアーロンの顔をこする。エシュが無事なのにほっとして我知らず笑みが浮かんだが、そのむこうに竜の影を認めるとたちまち心が引き締まった。エシュを押しのけるようにして地面に落ちた剣をつかむ。
「だめだ、その剣を使うな! 俺がこいつの〈底 〉とつながるまで!」
エシュの言葉は耳に届いたがアーロンの体はとまらない。アーロンの手も足も心臓も、知覚のすべてが、今このときこの剣であの竜を倒すことが必要なのだと叫んでいる。
竜はアーロンを待っているかのようにそこにいる。うしろからエシュが叫びながら追いすがるが、剣を握りしめたアーロンはもっと速く、竜の黒い影の前で〈法〉の助けを借りて跳躍した。いまだ。こちらを見据える眸の片方に切っ先を――
「アーロン! 俺におまえを殺させるな!」
――切っ先を叩きこもうとした、そのときエシュがアーロンの背中に飛びついた。アーロンの剣は竜の口の上を叩きかけて失敗し、二人の前で巨大な顎がひらいた瞬間に、手前の牙をかすめて吹っ飛んでいった。
そしてそのまま、背中にすがるエシュと共にアーロンは竜の口腔に墜ちた。
その数瞬は、どういうわけか時間がひきのばされたように長く感じられ、まじまじと竜の口の内部をみつめる余裕があった。洞窟のような口壁に沿って尖った牙がずらりと生えていたが、すべて雨に濡れた木の幹の色をして、あいだに苔に似た緑色の長い舌が横たわっている。舌はまるで道のように喉の奥へのびていた。草と土と水の匂いが鼻をうつ。
このまま竜に呑まれるのであっても、エシュと一緒なら悪くない。
アーロンの意識に浮かんだのはそれだけで、後悔も恐れもなかった。
愛する男と絡まったまま竜の舌の上に投げ出され、巨大な顎が閉じるのを直視した。それから何もかもが、暗くなった。
ともだちにシェアしよう!