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【幕間】剣のパズル

 頬が冷たく堅いものにあたっている。  俺は目をあけようとするが、まぶたは糊でくっつけられたようで思ったように動いてくれない。  俺の体はどうなっている? そう思ったとたん手が動き、体も動いた。仰向けになって俺は目をこすった。  白い雲がさっと俺の周囲で割れた。俺は竜の背から墜ちたのか。そう思ったとたん、背中が堅いものに支えられているのを意識する。両手を広げるとすべすべした物質に触れた。俺は透明な球体の中に横たわっていた。油膜のような虹色が物質の表面を移動する。雲が泡の外側を撫でていく。  なんだ、ここは。  俺はアーロンを止めようとしたはずだ。あいつの背中にしがみついて、それからふたりまとめて竜の口の中へ落ちた。  それならこれは死後の世界か? 俺はまた死んだのか。  俺は球体の中で立ち上がった。透明な物質に手のひらをそわせる。さっき触れたときは冷たく感じたが、いまはほのかに温かい。みつめていると虹色の模様が表面をゆっくり動いていく。まるでシャボン玉の中に入っているようだ。  シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ――そんな言葉が脳裏をよぎる。最初はその意味がわからなかった。屋根まで飛んで、壊れて消えた――そこまで言葉が連なって、これが別の人生で聴いた歌だということを思い出した。  壊れて消える? 俺はこぶしを握り、透明な物質を叩いた。手が痛くなっただけで、何も起こらない。壊れるどころか、ひびも入らない。  いったいなんなんだ。  俺はまたシャボン玉の底に座りこんだ。服装は竜の口に落ちた時のままで、髪はくしゃくしゃだ。でも喉は乾いていないし、空腹でもない。  やはり俺はもう一度死んだのだろうか。  そう思ったとき、雲の切れ目にポコッと丸い泡がうかんだ。  アーロン。 俺のようにあいつもこんな球体に閉じこめられているのでは? 何の根拠もなくそんな考えがうかび、俺は丸い泡の方へ体を傾ける。すると俺が閉じこめられたシャボン玉もそっちへ傾き、ぐいぐいとその方向へ落ちていこうとする。  このシャボン玉は俺の意識がむいた方へ動くのかもしれない。俺は雲のあいだの泡に注意を集中した。この球体とちがって透明ではなく、銀色に光るドーム状だ。てっぺんだけが窓のように透明に抜かれている。俺は透明な物質に手をつき、必死で目をこらした。窓の内側で人影らしきものが動いた。 「アーロン!」  叫ぶと同時にシャボン玉が動き、まっすぐ銀色のドームへ落ちていく。間近でみたドームは俺がおさまっている球体よりずっと大きく、巨大さにふとおそれを感じたときはもう遅かった。俺の球体はてっぺんの透明な部分をすりぬけてドームの中に入りこむ。ところがそこはやはり雲のただよう空中だった。さっきとちがうのは地上があることだ。俺はシャボン玉に閉じこめられたまま見覚えのある屋敷の上をふわふわと漂っている。  なんだ。ルーの屋敷じゃないか。  二秒でわかった。見覚えがあるわけだ。正面階段も庭園もテラスも、俺が覚えている様子のままだった。ではさっき見た人影はなんだ。  そう考えると同時にシャボン玉は動き出し、庭園の上を漂っていく。あそこが薔薇園で――俺ははっとして目を瞬いた。アーロンがいる。  俺のシャボン玉はふわふわとそっちへ向かって落ちる。薔薇園にいるアーロンはまだ少年だった。忘れもしない、俺と最初に出くわしたときのアーロンだ。ひょっとして、竜に呑まれて死んだ俺は走馬灯のように自分の記憶を遡っているのだろうか。あるいは過去の時空に入りこんだとでも? どっちにしろ、それならここにはがいなければならない。俺――エシュはどこだ。  シャボン玉の中で俺はきょろきょろとあたりをみまわしたが、十四歳の俺は薔薇園のどこにもみえなかった。十四歳のアーロンはとくに何の表情もうかべていない。シャボン玉は俺を中に閉じこめたままアーロンの方へどんどん落ちていく。まるで巨人のように大きくなる人影を前にして俺はやっと気がついた。  俺、めちゃくちゃ小さくなってないか? これじゃ虫のサイズだ。  おまけにアーロンは俺に気づいていない。シャボン玉は彼の肩に着地し、ぽんと弾むと耳飾りのように顔のすぐそばに浮かんだが、アーロンは何の反応もみせなかった。落ちついた足取りで薔薇園の小路をたどり、屋敷の中へ入っていく。 「アーロン。どこにいたんだね?」  テラスからルーがあらわれた。 「薔薇園をみていました」 「きみの母上も父上もあの薔薇園は気に入っていた。ヴォルフは母上に贈る薔薇をあそこで摘んだこともあった。ほしいだけもっていきなさい」 「ルー様。ありがとうございます」  ルーが同情のまなざしを注ぐ。俺のなかで違和感がつのった。いったい何が起きたんだ? 「気楽にしてくれといっても無理だろうな。そのうち慣れるさ。私を父と呼ぶのは無理だろうが、年上の友人くらいには思えるだろう」 「友人だなんて。そんな」 「予備学校に戻るのをいそぐ必要もない。落ち着く時間が必要だろうから」 「いいえ、すぐに戻ります」アーロンはまっすぐルーをみつめかえした。 「俺は早く一人前の帝国軍人になりたい。そして父を殺した竜に復讐します」  これはいったいどういうことだ? ここは過去の時間じゃないのか?  混乱した俺の頭の中を疑問がかけめぐった。ヴォルフが殺されたって? そんなことはありえない。  ふいにシャボン玉の外側で虹色が渦を巻いた。くらくら回る視界が落ちついたと思ったら、俺は鏡にうつるアーロンをみつめていた。士官学校の制服を着たアーロンだ。鏡には俺は写っていない。そのかわりセランの顔がある。俺が記憶している通りの美少年だ。 「ご卒業おめでとうございます」 「ああ」  セランの手がのびてアーロンの襟の曲がりを直した。挨拶のように軽い口づけが交わされる。セランの手に指輪が光った。 「あなたの婚約者として、とても誇らしいです」  セランは微笑んだがアーロンはとくに表情を変えなかった。俺はまた違和感を覚えたが、それはこのふたりの関係や、ここに『俺』がいないことに対してではなかった。 「僕も軍大学へ進学しますから、待っていてください。あなたと一緒に学びたいんだ」 「その必要はない」アーロンの口調はすげなかった。 「ラングニョール家は行政官になることを望んでいるのだろう」 「ええ、ですが……」セランは何かいいかけたが、気を変えたらしかった。 「そうですね。あなたはいつも正しい」  どうも変だ。  アーロンはずいぶん感じがちがう――と、俺は冷静に考えた。  俺が知っているアーロンはセランや後輩にこんな口のきき方はしなかった。こんな風にすげなく相手を否定することもなかった。  またシャボン玉の向こうで虹色の渦が巻いた。このシャボン玉の中では時の流れが止まっているのだろうか。まるで早回しでもしているかのようにいくつものシーンが断続的に俺の前に展開されていく。作戦会議にいるアーロン、皇帝陛下の前に膝をつくアーロン、竜の背で隊を指揮するアーロン。竜殺しの英雄としるされたポスターの前で険しい表情で立つアーロン。空を飛ぶエスクーの背で手厳しい指示を出すアーロン。  軍服には軍功を示す線がどんどん増えていき、会議で彼が口をひらくと他の全員が黙る。軍本部の廊下を歩けば、かしこまった部下が最敬礼でアーロンが通りすぎるのを待つ。アーロンが敬うのは皇帝陛下だけで、それ以外には容赦がない。冷血と陰口を叩かれても軍功は否定しようもなく、有能ゆえに皇帝に尊重されるが、誰も彼を愛していない。  エスクーの背でアーロンは剣を握っている。この剣は軍大学を卒業する前、ルーと共に辺境をまわったときに手に入れたものだ。それ以来アーロンは法道具としてこの剣を使っている。竜殺しの異名は伊達ではない。アーロンの指揮のもと辺境は徹底的に制圧され、とくに竜のは徹底している。十四歳のあの日から、このアーロンは一度として笑ったことがない。  さっきからずっと気分が悪かった。剣から飛び散った竜の血がシャボン玉の表面に跳ねて飛ぶ。 「もうやめてくれ!」  俺は叫び、とたんにシャボン玉は上昇して、銀のドームを突き抜けた。白い雲のあいだに別のドームがぽかりと浮かぶ。あそこにもアーロンの影がある、そう意識したとたんに俺のシャボン玉はまっすぐドームへ落ちていった。  また薔薇園だ。またも俺はいない。アーロンはひとりで薔薇を摘み、庭園で談笑するルーと彼の両親の元へ行く。パーティのときのように庭園は飾られていて、セランとその家族も揃っていた。アーロンはセランに花束を渡し、二人は周囲から祝福されている。セランは微笑んでいるが、アーロンの表情は堅い。まるでこの世界に自分がいる意味がさっぱり理解できないような顔つきだ。  それでもふたりは婚約したらしい。士官学校へ進学したアーロンがいる。アーロンの父のヴォルフはラングニョール家との関係を強め、帝国軍だけでなく宮廷での存在感を増す。軍大学を卒業し〈黄金〉に配属されたアーロンはひたすら軍功をあげ続けるが、それはつまり、生活のほとんどが軍本部と辺境の往復に占められてしまう、ということだ。セランとの結婚生活は早々に崩壊している。ある日帝都に戻ったアーロンはセランが出ていったのを知るが、またすぐに辺境へ出発する。俺のシャボン玉はエスクーの首の上にとまっている。アーロンが剣を握るたびに竜が死に、俺の耳にはエスクーの鳴き声がなぜか悲鳴のようにきこえ――  そしてまた、ちがうドームへ。  また薔薇園からはじまる。今回のアーロン、十四歳のアーロンは驚いたことに、セランに婚約破棄をいい渡していた。ごく幼いころに家同士で交わされた約束には興味がないと、ぬくもりの感じられない声でいい放っている。俺は思わず唸り声をもらすが、誰も俺の姿などみていない。このアーロンは士官学校でも模範生にはならなかった。むしろ反逆的にふるまうが、ヴォルフとルーの後押しもあってか、皇帝に拝謁の機会をあたえられ、目をかけられる。 〈黄金〉へ配属されたアーロンは皇帝の権威をかさに着た鼻もちならない男だが、要所をおさえたふるまいで他人に弱みをにぎらせないし、何より卓越した法能力でかちえた軍功は誰にも否定できない。ヴォルフと対立したラングニョール家が宮廷で失脚すると、アーロンは行き場のなくなったセランと結婚する――まるで施しでもしてやるかのように。だからといってセランを愛するわけでもない。  このアーロンはいつも剣を手入れしている。恋人か愛人のように剣に触れ、握り、そして竜を殺す。柄からしたたり落ちた血が俺の閉じこめられたシャボン玉を覆い、血の赤で何もみえなくなる。  、吐きそうになりながら俺はうつむき、膝をつき、胸のうちでくりかえす。あれはアーロンじゃない。アーロンはあんな人間じゃない。  シャボン玉の周囲がまた虹の渦で包まれる。  もうやめてくれ。あんなアーロンはみたくない。  うつむいて頭をかかえこんだとき、声が響いた。 (あれがだ。どう思った?)  またこいつか。  神でも悪魔でもなんでもいい。俺は這いつくばったまま透明な球体をこぶしで殴った。 「いい加減にしてくれ。俺をここから出せ! どうしてこんなものをみせる」 (彼らの象徴異界とやらをいくつかハックしたのさ。おまえがいないパターンをみせたかった) 「俺がいないパターンだって?」 (あれはおまえがこの世界に導入(インストール)される前のだ。いくらでもあるぞ。何度くりかえしても最後は同じだ。おまえがいなければはいつも) 「うるさい! アーロンを返せ!」  俺は球体を殴りつける。虹色の渦が俺のこぶしのもとに集まり、星型のひびになる。俺は球体を殴りつづけ、ついに拳が透明な物質を突き破った。大きく息を吸うと同時にシャボン玉がしぼんだ。虹色の油膜が体を包みこんだその瞬間、俺は竜の巣の生臭い匂いを嗅いだ。

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